第十五章 片腕を失くす

 ミハイルは何らかの告白の姿であるかのように、呆然と突っ立っていた。少なくともイワンにはそう見えた。

 廊下でイワンの姿を見るなり、ぷつんと糸が切れるような勢いをもって、ミハイルは身体を折った。

「ごめん、」

 と彼は謝った。

「きみの願う通りのことを僕は出来そうにない……」

 そう言った彼の頬を涙がほろほろと濡らした。彼が顔を上げるより先に、外套の分厚い生地の温かみが彼の頬に触れた。

「泣くなよ」

 とイワンは言った。そのまま、しなだれかかって来る友の体重を預かり、彼はしばらく動かずにいた。やがて「こうしていて痛くはないか」とイワンは声をかけた。彼は何もせず、ただミハイルの包帯に巻かれた腕が、彼らの身体の間にあることが気にかかって言ったのだったが、ミハイルはそれを聴くと一層大きな嗚咽を漏らした。彼らを見て見ぬふりをする生徒がいるなか、イワンはぼんやりと友の首の後ろで結ばれた包帯のきつい結び目を眺めた。

 新しい傷は随分と派手だな、とイワンは自分の痣を見るように思った。



『主人公は十六歳の少年で、誇りから、また臆病心から自分は恋愛とは無縁だと考えていた。しかし近所に越してきた、美しい少女ポリーナと出会ったことで運命が急変する。彼女の母親は、娘を「絵を描いているばかりの内気な娘」と認識しており、男友達といえば「画の友達」ばかりだと思っていたのが、実際には彼女は己の美貌の崇拝者を自宅に集めて、女王様のように振る舞っているのだった。

 主人公はポリーナが想像していたような清純な少女でないことに失望しつつも、次第に彼女の魅力のとりことなっ 84 ていく。初めは彼女の絵をけなし、彼女の気を引こうとした主人公だったが、次第に彼女を怒らせることも不可能であることを悟っていく。彼女の絵を見ていた主人公には、彼女が誰かに恋をしたことが明白だった。

 最後に、ポリーナが妻子ある男と不倫関係にあるという噂が立つと、裏付けをするかのように彼女一家が近所から消える。後日、主人公は偶然にポリーナの姿を目撃する。それは一家の旅行先で、馬小屋のなかで、少年の父親の手に接吻する彼女の姿だった。

 しかし彼の他に誰も彼女を目撃した者はなく、旅行から戻った途端、少年の父親は急死する……』



 二人きりになった教室で、イワンはミハイルがようやく書いた戯曲のあらすじの書かれた紙を透かし見た。

「なかなかいいじゃないか、今までに書いたなかで最も上出来だ。あらすじはこれでいいだろう。本文はまだ後半に行ったところか。後は結末までこの通りに書くだけだが―

―」

「ありがとう」「タイトルが『悪魔』、なかなか世俗的だな。悪魔っていうのはこの父親のことか」

「ポリーナのほう」

 とミハイルは言った。

「最初は『恋の悪魔』ってタイトルだったんだ……」

「もっと世俗的だなあ、それは」とイワンは笑い出した。

「喜劇だと間違えられちまう。おい、何度も言ってる通り次は第十一回だ、奇数回は悲劇の当たり年だぜ。ふざけてもらったら困る」

「だから、止めておいたんじゃないか」とミハイルは頬を膨らませて言った。

「どうせきみは笑うだろうなと思ってた。僕がどんな悲劇を書いたって、きみとしたら『こんなもの子供の玩具に過ぎないよ』――とこうだろう」

「まあ、子供の玩具を題材にしても悲劇は描けるぜ。大衆が何を悲しがるかっていうのは神話の時代から決まってるんだ。絶世の美女、失恋、父親との争い――大体揃ってる、だから上出来だと言ったんだ」

「ありがとう」

「悪魔は女の方か、ところできみ自身は、恋をしたことはあるのか」

 イワンは真剣とも、冗談ともつかないような調子でミハイルに言った。ミハイルはタイトルをけなされた時以上に赤面した。

「ふうん、ないのか、他人を誑かす、悪魔を女だなんてよく言えたもんだ」

「だってそういうことになってるだろう」とミハイルは勢い込んで言った。

「恋の毒について……女は悪魔だって……そんなの昔からみんな書かれてるじゃないか」

 イワンはミハイルの顔を見上げて、呆気にとられて言った。

「本の虫、点取り屋、優等生のミハイル・カラムジン。きみは自分を苦悩させるものまで、本から学んだのか」そう言って彼は身体を折り曲げて苦し気に笑った。

「それじゃあこれがきみの初恋か。『初恋』とタイトルを変えたらどうだ。『僕の初恋』でも構わないよ。この作品に不足しているのは、きみ自身の経験から滲む苦悩だ。審査員には、きみ自身の密かな告白だと思われていた方がいい――せめてタイトルだけでも変えてみたらどうだ」

 馬鹿にするなよ、とミハイルは怒りに赤面しながら言った。

「そういうきみはどうなんだよ」

「何が?」

「恋をした経験があるのかって聞いてるんだ」

「あるさ」

 とイワンは表情を変えずに言った。

「親父と同じ女に恋をしたんだ。それで親父を殺したいと思った。いや、実を言うと殺してきたのでこの町に来たんだ。故郷に住んでいられなくなってさ」

 冗談だよミーシャ、とイワンはミハイルの書いた『悪魔』の筋書の書かれた紙をめくりつつ言った。

「俺自身の話でなくとも、神話でもあるだろう、そんな話。父親と敵対したのをきっかけに、舞台が移る展開は悪くない。それが現実の次元であるかどうか、観衆に対する謎かけとしても生きる。この設定なら現代で構わないが、神話にあるテーマをなぞっているものとも言えそうだな。最後に父親がこの世を去ることで、息子は彼を殺せずに終わったともとれる。息子の愛憎に値するのは、決して自分の手でなんか殺せない父親さ。俺はこの『悪魔』を支持するよ、女のこととはむしろ思わなかったが」

 きみが加えられる現実味と言えば、そこじゃないのかな、とイワンは静かに言った。

「父親に対する殺意、――きみは、きみの腕を折った父親が本当に憎くないのかい」

 ミハイルはまだ白い紙の上に、涙をほろほろと落とした。その光景はあたかも、勉強をしない彼に対し、彼の監視役になろうとする父親との対峙に似ていて、ミハイルは余計に多くの涙を落とした。

「俺なら、殺しているかもしれない」とイワンは低く呟いた。

「きみなら、だろう……」とミハイルは言った。

「あと少し先を書いたものがあったんだ。あと最後の場面を残してさ。でも父さんに見つかって燃やされてしまった。来月の試験のために勉強をしているって、嘘ついてたのがみんなばれたんだ。試験なんか構わないって言ったら、階段から蹴落とされてこれさ。腕を狙ってやったわけじゃないよ――たぶん、僕が利き腕で庇ったから。『悪魔』の終わ

りの半分は、今頃燃やされて灰になってる」

 イワンは背後から、ミハイルの肩にそっと触れた。

「大丈夫さ、まだ日数はある。もう筋書は決まってるんだ、あとは台詞と場面転換、台詞はむしろ口に出してみたものを書き写した方がいい――それなら俺だって手伝ってやれる。俺がきみの利き腕になる」

 イワンはミハイルが左手に取っていたペンを、そっと両手で包んで右手に引き取った。ミハイルは茫然と正面を見つめたまま、台詞を言う代わりにしばらく嗚咽した。

 

 夜、イワンは嗚咽するように頭を抱えた。アリョーシャはベッドのなかで、背後からそれを見つめていたが、兄に向かって何か言ったりはしなかった。

「『きみ自身の告白を』」

 とイワンはエゴールの言った言葉を呟いた。まるで、台詞を書き写す作業のように、彼は繰り返してその言葉を言った。

「『自分自身の目撃者となり、何をしたかをありのままに報告する義務が……』」

 イワンはそこまで言うと、自分で持っていたペンを放り捨てた。アリョーシャは音のした方角をぼんやりと見た。彼がその音を眺めようとするのと同じ眼差しで、兄の顔を見るのをイワンは見た。

 イワンはアリョーシャに何でもないのだと目顔で言って、彼が眠ればいいのにと思った。時折そんなことがあるのだが、アリョーシャは言葉で言われてもすぐに忘れるくせに、他人が思い描いたことを読み取ったように行動することがあった。イワンはアリョーシャが寝息を立て始めたのを見て、安堵して紙の方に向かった。

「このままじゃ間に合わない、」とイワンはに独り言を言った。

「恐らくポリーナとの離別までは進むはずだ、でも最後の場面を告白するまでにはきっと日数が足りないし、彼自身きっと望んでいない」

 そう言いつつ、彼は紙の上に全く違うことを書いた。

(だから、彼の身代わりになるのか)とイワンは自分自身に問いかけた。

(告白の動機は何だ? 彼に賞金を取らせたいから? 罪の意識に耐えられなくなったから? エゴールに命じられたから? アリョーシャを他人に助けさせるため――)彼は自分の想像した動機を検討するごとに、それらを打ち消すように自分で書いたノートの文章に斜線を引いた。

(他人がこれを何だと言うのか知りたいから)

 イワンは背後で、自分がペンを落とした時のような音が響くのを聴いた。彼が振り返ると、アリョーシャが焦点のない目を見開いていた。彼の作った御伽噺を聴いた時と同じように、アリョーシャの目から既に涙が夥しく出ているのをイワンは見た。

「『あなたのことを虐めたこともあったけれど、それには理由があったの、それはまだ言えないけれど、どうかあたしをわるく思わずに、許してね――』」

 イワンはミハイルの言う台詞を淡々と書き写した。ミハイルが彼に渡していたために無事だった『悪魔』の前半部分の続きは、利き腕が使えなくなったミハイルの代わりに、ミハイルが口で言ったことをイワンが書き写す、という口述筆記の方法を取った。

 この方法でやる、とイワンが宣言した後、ミハイルは緊張して最初から紋切り型の台詞を言い、イワンに柔らかくたしなめられた。

「ミーシャ、これはきみ自身の経験の記録でなければ意味がないんだ」

 と言い、これはどんな場面か? この時に登場人物はどう思ったか? その結果彼らはどこに行くのか? といちいち質問して確認させた。そして、あたかもミーシャが各登場人物の生活を生きているかのような気分で、自ずと台詞が出て来るようにと仕向けた。


 ミーシャはあの冷血人間と言われたイワンが、人間の感情にまで精通していることを今更恐れた。

「きみは演劇をやった経験があるの」

「皮肉だと捉えなければ、ない」

 イワンは既に会話には集中していない様子で、ミハイル以上に真剣に原稿に向かい、低く何か口中で呟いていた。

「ポリーナの台詞だけれど、ミーシャ、きみはどう思う? 彼女はこれから、主人公とどう付き合っていこうと思っているんだろう? 彼女が決して愛さないこの『弟』に――」

「弟?」

 とミハイルは包帯を吊っている首をそらして言った。

「弟じゃないよ、主人公と彼女は他人だ――」

「だが『恋人』ではもっとないだろう。どれほど親しくなろうと、ポリーナが男として主人公を愛することはあり得ない。しかし彼女は決して拒絶しない。既に彼女を愛している彼に、どうなれと言うんだろうな――」

「『弟』だとは思わなかったけど――」

 ミハイルは、自分の創作に解釈を与えられたことに新鮮な喜びを感じて、少し多弁になった。

「きっとポリーナは『他人』ではなく、『家族』のように愛せと命じたと思うな。『家族』への愛なら、他人から非難されることがないから――」

 イワンはやった、という風に膝を打った。

「よくやった、ミーシャ。それで行こう、ポリーナはこれから、『家族』として自分を愛せと主人公に命じるんだ。それまで肉親を恐れる愛しか知らなかった主人公に、悪魔が加えた最期の拷問だよ――ミハイル、ポリーナの台詞をきみが言ってくれ」

 ミハイルは自分で、驚くほど滑らかに、自分が見たことのない少女の台詞を自分が言うのを聴いた。

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