黎明と陰画の重力圏
前野とうみん
黎明と陰画の重力圏
かつて、この場所には営みがあった。大昔に放置され、忘れ去られたままの集合住宅圏。慣れない雪原に、私は慎重に、緩慢に歩んでいた。静謐に並ぶ、均一化された立方体の群れる様子は墓地のようにも見え、やはりここは、生活と繁栄の墓標なのだと思う。
宇宙服のバイザー越しの視界が、私を絡め捕るように緩慢に積もる雪にぼやけた。汚染レベルが問題ないことを機器の表示に気づき、うざったい
雪は、真白いものだと思っていた。
バイザーが襟元に折りたたまれると、銀世界はより鮮明に。剥き出しになった身体に、景色は質感を伴って襲い掛かる。頬を撫でる冷気が過ぎていく。雪を間近で見るのは初めてで、秘められた色味に少し驚く。細かな起伏がありながら、しかし周囲を
首にかけた蒼い宝石のペンダントが視界の下でちらつく。雲越しの陽光を反射して、蒼はより一層深くなっていた。
空っぽの団地は納めるべきものを吐き出してしまって、代役を雪に求めているようだった。静寂のまま、着実に雪は辺りを満たし、やがて一帯は氷の中に閉ざされる。
それを思うと、私は臨死に立ち会っているのかも知れない。去来する思考に背中押されるようにまた一歩と踏み出す。向かう先に、束の間だけ残る足跡を刻むことを決意する。
相変わらず続く単調な光景にぽつりぽつりと、樹木の痕跡が残っているのが見えた。雪の重さに敗北したいていは腐り折れていたが、突き出た樹木の根元から芽吹く濃緑の草木も点在していた。雪を避け、他の植物を苗床に育つ寄生植物。あれも進化の産物なのだろう。天に手を伸ばさんとした、生命の格闘のあかし。
けれど、今のところ天に勝利した地球出身の生命は、我々人類だけだった。
かつて、地球は母なる大地であった。
かつて、地球では人類が互いを数十回は滅ぼせる熱量を持て余していた。
かつて、地球は緑にあふれた健やかな惑星だった。
そして地球は今、生命の母としての役目すらも終えようとしている。種の起源も、あらゆる歴史も、かつて地表を焼き尽くした主義思想の痕跡も、人類の
先ほどの寄生植物も例に漏れず、近いうちに訪れる氷河期に絶える。天へと手を伸ばそうとする生命の、それが末路だ。やがてくる終わりは、きっと人類にだって避けられない。
私の、人間の体温が高いということを、雪の冷たさで思い出した。髪の毛まですっぽり覆うモニタリングスーツを中に着こんでいるから、外気と接しているのは顔の部分だけだ。しばらく歩いていると、感じたことのない肌のひりつきに気づいた。吸い込む冷気が肺を刺す僅かな痛みにも。隅々にまで血液が行き渡る、のぼせたみたいな感覚だった。ぼうっとした私に宿る、確かな生の根拠――私はまだ、
かつて、夢を語り合った友人がいた。
どうしても私は死に惹かれている。彼女が去った
眼前に団地の居住棟が迫る。鉛色の雪雲と同化するほどに濁った色をしていた。所々に氷が張り、氷柱が輪郭をぼやけさせようが、威圧感と荘厳さが混在する、権威的なコンクリート造りの建築だ。外観はのっぺりとしていて、壁面には規則的に、真っ黒な四角の穴が開いているだけだ。窓ガラスなど存在せず、穴からは何も覗かない。雪の白に満たされた団地の敷地とはまるで逆の、何にも満たされていない空虚の黒。
その姿は雪より氷より芯から凍りついた、ひどく冷たいものに見えた。永く忘れ去られたものは静止する。絶対零度の地平へと去る。居住施設の、
正面で口を開けたエントランスの闇の奥には、未踏の荒廃が待ち受けている。私はコンクリートの洞へと歩を進めた。
†
「わたし、もう一度、黎明が見たいの」
遠い情景。中学の放課後、アサミは机に腰掛けて、黄昏を背にしている。惑星へのプランテーションがもたらした、偽物の夜が来る直前。天蓋の色が変わっていく、演出されたわずかな時間。濃紺の髪をなびかせて、長いまつ毛を瞬かせて話す彼女を、今でも鮮明に思い出せた。
「れいめい?」
「夜明け――本物の。昔、地球から陽が昇るのを、お父さんと見た。地球を好きになったきっかけ。わたしにとって、はじまりの黎明」
地球人類史学を専攻する子たちの中でも、彼女は異端児だった。講義はサボる、学校には放課後しか来ない、かと思えば試験では一番を取り、ここまで来ればテンプレートみたいだと、アサミは自虐めいた笑みをこぼしていた。
そんな彼女がなぜ私とだけ仲が良いのかと聞かれれば、私がうっかり昼寝していて、そのまま放課後まで教室に残っていて、目を覚ますとそこには私の寝顔を興味深そうに見つめる彼女がいて、といったことがあったからだ。そんな邂逅から、彼女とは友人のような、師姉・師妹のような、不思議な関係が続いていた。
「じゃあ、スカベンジャー志望なの」
「
「探窟者。わかりました。で、アサミはなんで夜明けを見たいの」
彼女がムキになって反論するのを見るのが好きだった。どこか達観していて、課題も試験も完璧にこなす、かっこよくて美しい彼女が私だけに見せる隙が。不真面目に見られて、いつも周りからは煙たがられていたけれど、彼女の地球に懸ける思いは私の知る誰よりも高潔だ。
そうだなぁ。私の質問にアサミは少し悩んで、
「……しいて言うなら、憧れなのかも」
「憧れ……」
「地球、人類が生まれた場所、始まりの海。わたしの、原点。あの惑星は決して陰画なんかじゃない。地球が過ちの標だなんて認めたくない――認められない」
アサミはたびたび、こうして決意表明をした。地球が彼女の恋人だったように思う。宇宙に浮かぶあの灰色に淀んだ惑星が、昔は突き抜ける美しい蒼だったことを教えてくれたのも彼女だ。
彼女は私に、地球を好きになってもらおうとしているみたいだった。
「わたしは証明する。地球は終わりじゃなくて、始まりの象徴なんだって」
だから、と言って、アサミは私に顔を寄せる。彼女の、大昔の海のような、深蒼色の瞳が迫る。人工の太陽に透かされて、濃紺の髪は藍色になって揺れる。ほのかに、甘いバニラの匂いがした。
近い。心臓が高鳴る音。どっちの?
「まず初めは、あなた」
「わ、私……」
驚きで声が裏返った私に、一瞬あっけにとられた顔をして。次の瞬間にはアサミは噴き出していた。どうしたのと笑いながら言うアサミは、私の心の内を知らない。ひどい話だと思った。この女はもっと自分の力を自覚するべきだ。
アサミは目尻の涙を――そんなに笑わなくなっていいと思った――指で拭いつつ、
「わたしきっと、あなたを地球に連れて行く。そして、いっしょに黎明を見る。それってとても……」
「すてき、だと思う」
ぽそりと呟いた私は無意識だった。アサミは満足げに頷く。頷いて、私の目を覗き込みながら、手をそっと握った。彼女の真白い手。放課後にばかり出歩く彼女は紫外線を浴びていない。きっと、私の耳は真っ赤になっている。だけれども彼女は、私の紅潮に気づくこともない。私は蒼い石を握っていた。黄昏の光を浴びて輝くそれは、アサミの瞳とよく似ている。
「約束。その石、お父さんに貰ったの。地球の宝石だって。お守りにしてよ。絶対いっしょに探窟者になろう」
「なる。絶対に、間違いなく、なる。それで……」
絶対に、アサミに気持ちを伝える。
私のひそかな野望は石と共に胸に仕舞われ、アサミの不思議そうな表情だけが残った。今は、それでいいと思った。私は地球でアサミに告白する。きっと、ロマンチックで幸せな成功になる。そのことを、私は信じて疑わなかった。
†
私はきっと、この惑星が終わっていることに納得して、あの日の思い出を終わらせたいのだと思う。
部屋に踏み入るたび、たとえ廃墟であっても、生活が存在していたのだと、かつて暮らしていた人間の息遣いを感じる。家具の数や配置、調度品の趣味、娯楽の種類、それらの残骸――営みの痕跡は雄弁に暮らしを物語る。
探窟者は
地球人類史の資料として、親が子に与えた玩具や、恋人に送ったアクセサリーや、必死の労働で手に入れたとっておきの逸品を攫って、宙の向こうへ持ち去ってしまう。瓶詰の食べ物なんかは貴重だ。写真や日記なんかがあればずっといい。幽霊だけは少し怖かったけれど、見過ごしてほしいと思う。
地球は再び、人類にとっての未開地に変わったと、誰か有名な同業者が語っていた。進歩の混乱にあって産み落とされた
持ちうる知識では説明がつかない現象に、古代の人々は神や怪物といった名前をつけてきた。古来より未知は時に超常の根源となる。人類の宇宙進出で生まれた思想や宗教と未知の超常現象は混ぜ合わされ、宇宙社会には神性や霊魂や超存在の噂が絶えない。つまるところ、宇宙社会は神代の再来となった。実際、原因不明(オカルティック)な事件や事故の話もよく耳にする。
もしかしたら宇宙人かもしれない。もしかしたら我々の知らない超技術かも。けれど、それが「もしかしたら」である以上はあらゆる可能性がそこに入り込み、人々の噂に乗って伝播する。それこそが超常の者たちの意図かもしれず、結局それは「もしかしたら」の煉獄に陥って無化される。
相変わらず、人々は未知を恐れ、可能性に物語を求める。
私がいる団地も例に漏れず、そういった不穏な空気に満ちていた。大抵の部屋は瓦礫に埋もれるか、物が乱雑に散らばって破壊し尽くされている。元の使用者がいて、混乱の時代に物資をかき集めて死の惑星で生き残ろうとあがいた者がいて、そして誰もいなくなった。そんな営みの死骸が転がっている。現存する廃墟の中でも、特に古い部類に入る場所だった。遺跡と言っても良い。構造の単純さが産む堅牢さと、個室という保存性の高さからだろうか。そもそも家具が原型を留めていること自体が奇跡だ。
だから私がこの部屋を訪れた時、当たりだ、と静かにそう思った。
「四〇四号室」と扉には書かれていた。一階から三階には存在しなかった、下一桁が四の部屋。訝しみながらも、扉を開けた時には室内の物に目を奪われていた。
それは小さなデスクに、ぽつんと置いてある紙製の本だった。石油製のビニールブックカバーが掛かった、人間の頭ほどの大きさだ。アルバムだろうか、積もった埃を払う。表紙には「1/5/1980 ~」とだけ書いてある。だいたい200年前、人類一度目の宇宙開発競争が終結して間もない頃。プロパガンダの時代。合衆国の、あの荒唐無稽な戦略防衛構想の発表前夜。スターウォーズ計画と呼ばれたそれは、レーザー衛星やミサイル衛星で自国を防衛するというあまりにもばかげたものだったけれど、それでも東西の緊張を高めるには充分だった、あの時代。
目の前の本の資料的価値に生唾を飲み込みつつ表紙を開くと、丁寧に整理された紙片――ファイリングされているのは、数々のスケッチだった。見開きには12枚のスケッチが納められ、左上には西暦がインクで書かれていた。一か月に一枚だったのだろう、めくる度に年度が更新されていく。スケッチは黒鉛系の筆記具で描かれたようで、所々が互いに擦れてぼやけていたものの、何を書いてあるかはなんとなく分かった。
描かれているのは、針葉樹の森、サッカーをする子供、学校の内観、大きな乗用車――この団地での生活の一コマだった。季節ごとに移り行く自然と、変わらない日常が入り混じった、生き生きとしたスケッチ。これが描かれた頃にはまだ季節というものが存在していた。描いたのは子供だったのだろうか。題材や、視点の低さにそう思う。
時々、似顔絵もあった。柔らかな表情をしていた。恐らく家族なのだろう、描かれた人々は皆、優しい瞳でこちらを見つめている。温かな営みがこの場所にはあった。
ページをめくっていくと、一九八六と書かれたページには四枚だけしかスケッチが貼られていないことに気づく。最後に描かれているのは、遠くの建物から上がる黒煙。工場火事でもあったのだろうか。しかし、その先のスケッチが無い。不審に思い、以降のページをめくっていく。
ぎぃ、と。
錆びついたドアの開く音。重い金属扉が空気を動かした。誰かが背後にいる。そこでようやく、私はアルバムから手を離すことができた。目の前の違和感よりも大きな違和感が私の意識を塗り替えた。ここに私以外誰もいるはずがないと理解しつつ、現実がそうではないことに、頭の中で警鐘が鳴り響く。風で開くことはあり得ない。他の探窟者か、しかし識別ビーコンに反応はなく――いずれにせよ、非常事態には違いない。声をかけられるわけでも、肩を叩かれるわけでもなく、気配と眼差しだけを背中に感じている。荒くなる呼吸を抑えつけ、足を引き、護身用のスタンガンを構えながら振り返った。
顔。
銃口の先、女が立つ。あまりの近さに一歩退き、腰が机にぶつかりアルバムが落ちる。落ちたはずなのに、空中で本が霧散したかのように音はない。
つま先から頭の先まで張り詰めた可憐さに覆われていた。濃紺の髪、透き通る乳白色の肌。細められた目、蒼の瞳が私を捉えている。
私はこの女を知っている。だが、彼女であるはずがない。
「あなたは――」
知らぬ間に、言葉が漏れ、止まる。雪に覆われた地に似合わない、学生服姿で立っていた。完成された彫刻のように、不自然に均衡のとれた、存在しえないほどの精巧さで。感情は読めない。彼女は記憶のままの姿で、それ故に、あり得なかった。
後には嗚咽だけが漏れる。直後、眼窩の奥から涙が溢れだし、身体の力が抜け崩れ落ちる。眩暈。頭痛。彼女に跪く形で私はうずくまり、過呼吸になりかけの肺を必死に抑制した。
喜びと怒りと悲しみと恐怖と痛みとをカクテルにした、吐き気。跪きながらも、それでも私は彼女から目を離すことができなかった。離してはいけないと思った。彼女の姿が、私の正気を保ってくれている気がした。身体の芯から凍りついて動かない。必死に身体を起こそうと、私は彼女を見上げて縋る。
彼女もまた、こちらを見つめている。私の根幹にある何か、熱が喪われていく気がした。身体の震えが止まらず、視界は霞んで吹雪の中に放り込まれた錯覚が私を襲う。
逃げるよ。
そう、彼女の口が象った。激しい耳鳴りと頭痛の中で、彼女が放ったであろう言葉を知覚している。言葉が脳内で反響する中、磁気嵐めいた混沌で五感が消えてゆく。
彼女は跪く私に手を差し伸べる。薄れゆく意識の中で、彼女の手が頬に触れる。歪んだ視界の中で彼女が微笑んだ気がした。
†
あの日、共に黎明を見ようと誓った次の日、アサミは学校に来なかった。同日、アサミの住んでいる地区で宇宙巡行機の墜落事故があったと聞いた。犠牲者のリストは読まなかったが、誰もいない放課後の教室はあまりにも雄弁だった。
あれから十年が過ぎようとしていたが、私にとって、地球は依然として終わりの象徴だ。終わりはあっけなく、受け入れるにはあまりにも突然だった。何もかもを忘れられず、あの日貰った石だけが今も私の胸でペンダントになって、未練がましくも空しい輝きを湛えている。
私が地球を歩くのは、どこかで地球に救いを求めているからなのかもしれない。彼女が居なくなって、私の人生からは光が消えた。希望は彼方(かなた)へ去った。伝えられなかった想いは枷になって。
私は彼女の重力に縛られている。地球の重力に囚われている。取り残された、と思った。彼女の目指した地球になら、私を解放してくれる何かがある気がした。彼女の愛した地球を、愛することができたなら。きっと、思い残すことなく
けれど、私を救うのが何であるのかは、分からないままだ。
気がつくと真っ赤な水中に溺れている。目を見開くと、水面に揺らめく明かりと、浮かぶ板のようなものが見えた。死に物狂いで水面を目指して泳ぐ。
息苦しさも全身の痛みも永遠に思うほどの時間をかけて――その実、三十秒ほどであったことも近知覚している――浮上し、這い上がると同時にうずくまる。吐瀉物と共に紅い水が口から溢れた。さらさらとした紅色の水の中に、半固形の黄色い塊が混じって流れる。咳き込みつつ、朦朧としながらも、自分が乗っているのはトタン板の上らしいことを確認した。身体に触れる錆のざらつきに、私は何も服を着ていないことに気づく。
はっとして胸に手を当てる。掌に硬い、あの宝石の感覚があった。ぎゅっと、蒼い石のペンダントを握りしめると、少し呼吸が落ち着いた。
周囲には嫌な臭いが漂っていた。金属が溶け腐る強い刺激臭。立ちあがり、見回す。一帯は紅い水に漬かっていた。乾いた、彩度の低い空の青に対して、鮮やかすぎるほどの紅い湖に街が沈んでいる。
辺りには点々と、建物の屋根や枯れた木々の先端が顔を出していた。葉は削ぎ落され、目に見えるあらゆるものはくすんだ緑色か焦茶色に変色し、腐敗していた。確認できた最も大きな建物は教会の尖塔で、紅い水から巨大な鐘が突き出ているのが見える。一帯を囲う、削られて岩地が露出した山々が、この場所が盆地であることを示していた。
宇宙服に身を包み、雪の降りしきる団地を探索していた私は、全裸で赤い湖に立っている。なぜ――思考を巡らせるうち、神隠し、という言葉が頭を過った。
「そう、神隠し」
隣から声がした。
「ここは銅山の跡地だね。紅く見えるのは赤銅の色で、きっと銅山排水が流れ込んでできた景色。開発、発展、その夢の跡」
今まで何も無かった場所にコラージュのような違和感で、アサミが立っている。紅い湖を背負って立つ彼女の表情は、私が最後に見た穏やかさのままだ。
彼女はあの日の姿で微笑みながら、
「いくつかの伝承やら都市伝説やらが混じってるみたいだけど……間違いなく神隠しだね。あなたが入ったのは存在しない部屋で、
「どういうこと……というか、なんで、あなた、が」
「時間が足りないかな。説明はあとにしよう。だいぶページをめくったでしょ、そのせいでかなり深いところにいるから――」
彼女が話し終える前に、またあの眩暈に襲われる。脱力が私の身体を地面に叩きつける。頬に腐ったトタンのざらざらとした感触がして、直後には空中に放り出された。
感覚に
大丈夫、落ち着いて、わたしがいるから。
体がバラバラになる。切り貼りされた思考の中で、アサミの声がはっきりと聞こえる。もはや、どこにあるかも分からない指先に、彼女の体温を感じる。それだけが確かで、心地よい――
そうして私は、また、消える。
目覚めると、広大な砂漠に立っていた。映画でしか見たことないような、幻想的な満天の星空と月明りが辺りを照らしている。宇宙服は戻っている。胸元に石の感覚もある。ひとまず安心して見渡せば、砂漠には巨大な何かが埋まり、並んでいることに気がつく。
黒の、巨大な鉄の塊。塗装らしきものが所々で捲れ上がり、複雑な隆起を有するそれをしばらく凝視すれば、塊は風化した車両の成れの果てだと分かる。ただの車両ではなく、地球史の終盤で使用された装甲車や戦車、兵器群が打ち捨てられ並んでいる。
「墓場――兵器の墓場、戦争の墓場、歴史の墓場。
アサミは小高い砂の丘の上、打ち捨てられた兵器に腰かけている。慈しむように、彼女は劣化した車体を撫でていた。そして、私を見下ろす彼女と目が合った。
「ようやく、話ができる。久しぶり。あなたは、なんだろ、大きくなったね。当たり前だけど――」
「アサミ、これはどういうことなの。なんで私はこんな、知らない所にいるの。なんであなたがここにいるの。そもそもあなたは――」
「落ち着いて、落ち着いて。気持ちは分かるけどさ。まず、わたしはあなたが知っている通りのアサミ。たぶんね。というのも、わたしは幽霊で、わたしもさっき『わたしがここにいること』に気づいたわけだから」
アサミは兵器からひょいと飛び降りて、器用に丘を滑り私の目の前に到着した。子供っぽく軽やかに、淑女のように優雅に。一挙手一投足が、私の記憶を刺激する。アサミとの思い出を呼び覚ます。
「最後に。わたしたちは多分、『地球による』神隠しにあってる」
アサミが笑う。状況とは裏腹に、蘇った私の光は好奇心に満ちて明るかった。
†
まず、
「神話でも、都市伝説でも、なんだっていいんだけど、そういう話にはそもそもの発端が存在する。地球史終盤、科学の発展によってあらゆる未知は解明され、たいていの不思議なことには理由がつけられるようになった。神隠しの言い伝えだって、痴呆のせいだとか誘拐だとか、色々と原因が考察されてきたわけだしね。実際、その大半は正しかったけれど、それだけが真実じゃない」
「うん、私もそれは知ってる。というか、アサミが教えてくれたんだっけ。新たな発見、新たな理論。宇宙開発という未知領域を解き明かしていく過程で、科学が超常現象の存在を証明してしまった。あるいは、作り出してしまった。『原因不明だけど、在る』ものの存在を、科学は認めざるをえなくなった」
「さすが。まさしくその通り。昔からこの手の話が大好きだったもんね――けど、もう何年も経ってるっぽいのに、よく覚えてたね」
忘れたことなんて、ないよ。言葉は喉でつっかえた。変わりに遠くを、兵器転がる地平線の向こうの夜空に視線を泳がせる。微妙な距離感を察してか、アサミは私に身体を寄せて、「ちょっと歩こっか」と、顔を覗き込んできた。
物言わぬ兵器群が立ち並ぶ荒野を二人で歩く。並んでみると、年月を嫌でも感じてしまった。あの頃は同じくらいだった背丈も、今では私の方が十五センチは高い。私の宇宙服が砂地に足跡を刻む。アサミの歩いた後には、何も残らない。
彼女は自らを幽霊だと言ったし、疑えるほどの証拠もなかった。そして、二人でこうして語り合う間は、そんなことはどうでもよかった。むしろ、その方がいい。
これが私の、独り善がりな妄想であるより、無意味な夢であるよりずっと。
「再発見された未知、可能性――それこそが、あなたが足を踏み入れた
「地球の、幽霊……?」
「そんな険しい顔しないでってば。正確には地球に焼き付いた、色んな思いや願いの
最終戦争のせいでそんなのが地球規模で廃墟が乱立したものだから、あらゆる場所同士が
「じゃあ……」
「そ、わたしも、空白地帯の共鳴によって成り立っている
そう言って、アサミは胸を指さすジェスチャーをする。
「触媒はそれね。その石を触媒に、わたしはこうしてここにいる。それにしても、幽霊として化けて出て、あなたを見つけた時はびっくりしたよ。明らかにヤバいものを開いてて、しかも止まらないんだもん。薬物中毒者を見つけちゃった感じ?」
「なんであれがヤバいって分かったの?」
「それはほら、幽霊センサー、妖怪アンテナ……」
「茶化さないで」
「分かったって。そもそも、あの部屋は
実際、アサミが目の前に幽霊として存在しているのも、あの青い石が私にとって思い出の品だったからだろう。ひどく直感的に理解できた超常現象に、私は少しあっけにとられた。対して、彼女は少し怒った様子で、
「まったく。わたしがいなかったらここから戻れないんだからね。あなたには死に急いでもらったら困るの。本当に気をつけてったら」
どういうこと、私がアサミに問うと、
「地球産と宇宙産――っていうのかな。わたしみたいに出自が違う幽霊は異物として弾かれるっぽくて。あなたを空白地帯から引き剥がすために、逆にその力を使ったりしてるんだけど……存在として不安定なわたしがあなたに触れると、少しずつ元の世界へ近づける。吐き気とか眩暈は反発の余波だから我慢してね。でも大丈夫。出口の近くまで飛べる」
さっきまで理解ができそうだったのに、すぐに理解が追い付かくなった私の手を、構わずアサミは握る。宇宙服越しなのに、温かく感じた。
「たぶん、次で最後だから」
彼女の言葉を最後に、また眩暈で何も分からなくなる。アサミの顔は笑っていたけれど、深蒼の瞳には迷いが滲んでいたように見えた。
†
振動と、ギギギ、という金属が擦れる音で目が覚めた。正面にはニヤついた顔で腰かけたアサミが居て、ここは小さなゴンドラの中だった。地平線も水平線も超えて、地球の果てまで見通せるほどの高度にあってそれでも上昇し続ける、これは観覧車であることに気づく。遠くの空は、夜闇を裂かんとする日の出の予兆に白んでいた。
「……もうすぐお別れみたい」
アサミが口を開く。ここで私はアサミと同じ、あの日。あの時の制服姿になっていることに気が付いた。背丈も変わらない。同じ目線で、あの日を再演しているような。
「最後の場所は廃遊園地、みんなが楽しんで、色んな思い出が詰まってて――もうみんなに忘れられてしまった、死んだ場所。もっとも、わたしのせいで色んなねじれが発生してるんだけどね。この観覧車だって、わたしが馬鹿みたいに大きくしたんだ。高さが必要だったからね。少しでも長くあなたといたくって、わがまま」
「頂上で、お別れ」
「うん。さすが、察しがいいね」
アサミが頷いて、日の出の近い地平線を眺める。手を口もとに当てる彼女は、表情を隠している。きれいな横顔、産毛が朝の金色に染まる。
「頂上を過ぎても乗り続けたら、また空白地帯に引きずり込まれてしまう。観覧車は元いた場所に戻るものだから。大丈夫。わたしとあなたなら、円環を断ち切って何処へだって行ける」
「でも」
私は、アサミの仕草の意味を理解している。彼女よりも長く生きてしまった私は、その手が隠した感情を知っていた。取り残された年月を恨めしく思う。死に急いだ年月を憎む。私は核心に切り込めてしまう。
「一緒には行けない……でしょう」
「……わたしは、死んでしまっている訳だからね」
「じゃあ――」
ここまで言いかけて、喉が凍りつく。だめだ、これ以上は。
彼女を、私の重力圏に縛り付けてはいけない。
私の衝動も、すべてを悟った様子で、あの頃から達観していた少女は、ただ「ありがとう」とだけ言った。決別の言葉。あるいは、決意の。
アサミは私の手を握り、正面から私を見つめる。僅かに、彼女の深蒼の瞳が揺れた。溢れるものがあった。それは波立つ海面のようで。衝動的に、私の口から言葉が溢れる。
「ずっと会いたかった。アサミに、会いたくて……ずっと死に場所を探してた。アサミの見せてくれようとした景色も、見ないままに。約束を果たさずに、消えてしまうところだった」
「……わたしも。本当は、あの団地でもっと早くあなたを止めることもできたはず。でもそうしなかったのは、わたしが地球の重力で、あなたを縛り付けようとしたから、なのかも。この場所であなたと、ずっと一緒にいられたらどれほど幸せかと思った。願ってしまった。――けれど、だめなんだ」
「うん。私たちはもう別れてしまっている。決定的に。これはただの延長戦で、余剰で……いずれ終わらなければいけないことだから。もう、交わることもない」
互いに、納得し、理解していた。この時間は超常が生み出した、私たち二人にとっての
「だから」
「最期の瞬間までに、伝えなきゃいけないことがある」
私は胸元から蒼い石のペンダントを取り出した。夜明け前の微かな光を吸収して、何よりも美しく輝いていた。
「ずっと持っててくれたんだよね」
アサミはそう言って、くしゃくしゃの笑みを浮かべた。
「私とアサミを繋ぐ、大切なものだから」
それは、相手を縛るものではなく。
「……あなたを連れていくって言ったのに。連れてこられたのは、わたしの方だったみたい」
アサミの照れくさそうな笑みは、今まで見たことがないほどの輝きで、そんな表情をするアサミは、やっぱりずるいと思った。
そして、今だ、とも。
「ねえ――」
大好き。
どっちが言ったのか、どちらも言ったのか。そんなことはどうでもよくて。私たちを縛り付けていた重力から解放されて、想いが通じた、それだけで充分だと思った。
心の底から身体が熱くなって、気づけば二人ともぼろぼろに泣いている。私の指と、アサミの指が触れ合い、絡み合い、涙は融け合って。
地平線の向こうがぱっと明るくなる。
暗い一帯が太陽に照らされて、ゴンドラの窓からふわりと風が舞い込んでくる。アサミの藍の髪が波打つように靡く。
きらきら、と。辺りは一気に輝きを増して、肌を温かな日差しが撫でていく。
黎明だ。
「きれい……だね」
「うん。そう、奇麗なんだ。だから見せたかった。証明したかった。こんな景色があるのに、終わりの象徴だなんて言われるのって、やっぱり寂しいから。――でも、もう寂しくない。あなたがいる」
「アサミ。その、あなた、って呼ぶんじゃなくて」
アサミはちょっと驚いた顔をして、頷いて、にこりと笑って私の名前を耳元でささやく。私の心臓が脈打つ音は、彼女に聞こえてしまっているだろうか。聞こえていて欲しいとすら思った。
また、向き合う。太陽のような、温かな笑顔。私も同じ表情ができていればいい。
唇が触れ合う。私たちは光の中に溶けて、互いの体温の中に消えて、境界があいまいになる。
そうして、観覧車は頂点に達した――。
†
目を覚ますと、元の団地に倒れ込んでいた。起き上がると体中に積もった雪がぱらぱらと崩れ落ち、過ぎた時間を伝えた。周囲は薄暗く、団地は閑散とした冷たさのままだった。未だに雪は降り続いている。だけど私はその光景に、以前のような陰鬱さを感じてはいない。
東の方角が一気に明るさを増した。日の光が差し込み、世界は一気に彩度を増す。到来、黎明。太陽の温かさを全身に受け、眩しさに目を細めながらも口角が吊り上がるのが分かった。新しい何かが始まる予感がした。
アサミの証明は、ここに完了したのだ。
私は太陽に向かい、また一歩、足を進める。
黎明と陰画の重力圏 前野とうみん @Nakid_Runner
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