「ほら、見て。あそこに浜梨に似た花が咲いているわ」

「本当ですね、姉上」

 染めの新しい薄紅のに、緑の背子はいし。さらに紅の紕帯そえおびと締薄絹の領巾ひれであでやかに装った嬢子が唇をほころばせれば、角髪みづらに結った髪が初々しい少年もまた微笑む。

「でも、花弁が白いのね。これはこれで清らかで良いものだけれど、わたしはやはり浜梨の方が好きだわ」

 結果として、浜辺郎女と稚彦だけではと兄が勧めた従者は断って、姉弟二人だけで散策に赴いたのは正しかった。

 緑滴る初夏の山に立ち込める気は爽やかで。一呼吸するごとに、身が軽くなった気さえする。齢のせいか、それとも生来の性なのか。普段は憂いを帯びた顔ばかりの弟も、幼子のごとく笑っている。まるで、幼き日に、二人して故郷の浜で駆けあった頃のように。

「ねえ、あちらの方にも行ってみましょうよ。あちらの方にこそ浜梨が咲いているかもしれないわ。そして見つけたら、兄上への手土産にしましょう」

「そうですね。きっと養母殿も喜んでくださいます」

 浜梨の咲き乱れる里で生まれ育った郎女と弟は、あの紅の可憐な花は、多くは浜辺で自生するものだとはつゆ知らなかった。山の天気の移ろいやすさも。ために夢中で浜梨の花を探す姉弟は、若々しい頬が大粒の雨を弾いて初めて、空を覆う黒雲に気づいたのである。

 姉弟は、今度は浜梨ではなく雨をしのぐ場を探し求めた。そうしてやっと山岳でのぎょうに用いられるらしき小屋に駆け込んだ折には、真新しい衣や豊かな髪はたっぷりと水を吸ってしまっていた。

「ごめんなさいね。わたしが浜梨を探そうなんて誘ったから、こんな風になったんだわ」

 自分はともかく、可愛い弟に風邪をひかせてはならない。

「な、なにをなさるのですか」

 火打石はないがせめてと弟の衣の水を絞らんと、浅葱から藍に色を変えた袍に手を伸ばすやいなや、稚彦はなぜか気色ばんで飛び上がった。

「何を、って。このままでは、乾くものも乾かないじゃないの」

「ならば姉上は、まずはご自分のお召し物を……」

「わたしのことは後でいいのよ。それに、何も全て脱がそうとしているのではないのに、どうしてそんなに恥ずかしがるの」

 狼狽える弟を揶揄うのは愉しくて、郎女はふと我に返った時には、弟を小屋の隅にまで追い詰めていた。

「ほら、もう諦めなさい」

 嫋やかな指は躊躇いなく項垂れた少年の衣服を解いた。郎女は、男の衣を脱がせるのには慣れているのだ。

「……姉上」

 母がよく歌っていた子守歌を歌いながら青い衣を絞っていると、親しんできたはずなのに耳慣れぬ声が紡がれて。

「姉上は、これまで夜に通い来た方々にも、このようにされてきたのですか」

 これまで言葉ではただの一度も、郎女の振る舞いを謗らなかった稚彦である。いったいどんなつもりかと呆気に取られている間に、郎女は傷んだ床に押し倒されてしまった。

「……姉上。僕は姉上が分からない」

 郎女に圧し掛かる弟は、幾度となく見えてきた男の眼をしていた。

「数多の男と浮名を流し、散々僕を苦しめておいて、あんな、子を慈しむ母親のような目を向けて来るだなんて……」

 溜めに溜めていただろう憤りを吐き出すが早いか、少年は細い項に吸い付いた。露わにした白く輝く胸元や、蜂のごとくくびれた腹。触れれば掌にもっちりと吸い付く腿にまで。


 季節外れの野分のわきが終わった頃には、雨も止んでいた。

「……あ、姉上。僕は……」

 これが先程力任せに押し入ってきた男とは俄かには認めがたいほど縮こまった弟は、まだ乾かぬ衣を被って小屋の戸に手をかける。

「僕はこの罪を生涯背負いますが、姉上は忘れてください。僕はきっと、どうにかしているんです……」

 外に出せばたちまち崖から身を投げそうな顔をした弟を、どうして放っておけようか。郎女は裸の胸を引き締まった背に押し付けて、肩を震わせる弟に抱き付いた。

「まだ衣は乾いていないのに、こんなところに姉さまを独りにするだなんて。冗談でも言わないでしょうね」

 自分のそれとよく似た形の耳に唇を近づけると、腕の中の肢体はぶますます慄く。

「確かに雨は治まったけれど、またいつ降りだすか分からないわ。しばらくはここでおとなしくしていましょう」

 今度は郎女が弟の上に乗り、邪魔な衣を取り去る。

「ですが、同母のきょうだいが目合まぐわ うのは、」

軽皇子かるのみこ衣通姫そとおりひめにならなければいいのよ」

 軽皇子――木梨軽皇子きなしのかるのみことは、第十九代允恭帝と皇后の第一皇子である。しかし皇太子ひつぎのみこでもあった彼は、その美しさが衣を通して現れるようと讃えられた同母妹と通じていたことを暴かれ、廃された挙句に伊予いよに流された。そして皇子は最期、兄を慕って追いかけてきた妹と共に自害するという、哀れな末路を遂げたのである。

 もしも此度の交合を誰ぞに垣間見られれば、郎女たちはあらゆるものを失い、非業の死を遂げた古の高貴な兄妹が踏み固めた道を辿ることになろう。しかし郎女は、若木のごとき体を弄る手を止めるつもりはなかった。

 つばきで湿らせた掌で包み込むと、それはますます硬く、大きくなる。

「しかし、」

 愛しい唇を一時己が唇で塞ぐと、怯えが滲む双眸には悦びで蕩けた。

「わたしは汝弟なおととこうすることができてとても嬉しいわ。今までで一番幸せよ」

 咥えこんだ弟を締め付けながらよく実った腰を振れば、滑らかな背には珠の汗が流れた。

「ね、汝弟もわたしと同じ気持ちなら、もっともっと突いてちょうだい」

 しばしの後、郎女の中では熱が、脳裏では白い光が弾けた。

 上になり下になり、また野のけものを真似て重ねられていた二つの身体が、ゆるゆると離れる。心地良く疲弊した身体に乾いた衣を重ね小屋から出ると、天は翠鳥そにどりの青を湛えていた。

「夏草の深きおもひをわせどもわれ惜しむなり浜梨無きを」

 夏草のように深い想いを交わしたけれど、ここに父が母に贈ったという浜梨の花がないのが残念でなりません。

 ふと胸を突いた想いを口ずさむと、傍らの弟は気恥ずかしげに双眸を伏せながらも応えてくれた。

「さにつらふいもは要らまじ浜の花汝こそ花なりくは吾妹子わぎもこ

 照り輝くように美しい、愛しい貴女には、あの花はいらないでしょう。

 まさしく面に茜を射して喜んだ郎女は、自ら整えた角髪の側の、こちらも茜が射した耳に囁いた。

「今度はいつ山歩きに行きましょうか」

 

 養母の屋敷に帰った途端。覚悟していた通り、郎女たちは養母や異母兄に大いに叱られた。が、それでも二人だけで山歩きに行くのは止めなかったのである。

 始めは呆れていた家人も、稚彦が年頃の少年らしく健やかに活発になり、また浜辺郎女が以前よりもおとなしくなるにつれて、まあ良いかと考えを改めた。それを良いことに郎女と弟はますます不義に溺れ、屋敷の中ですら情を交わすようになったのである。郎女の室から声と気配が漏れたとしても、皆気にも留めないのだ。

 一方で、もしやとの危惧は、焔の勢いをいや増した。ある夜、稚彦に貫かれている最中に兄の足音を聞いた折なぞ、一瞬息の根が絶えかけたぐらいである。けれども弟が異母兄への妬心ゆえにか激しく、いっそ荒々しいほど腰を打ち付けてきたから、郎女ははしたなくもがり続けた。そうして弟と共に高みに登りつめている間に、兄は踵を返していたのである。

 日毎背丈が伸び、逞しくなっていく稚彦の麗しさは姉の郎女の胸をも切なく締め付けた。あの長い睫毛に囲まれた涼やかな目が映すのは、温かな腕が抱くのは、自分だけであってほしい。ああ、どうか今宵も吾が許に忍び来てくれないだろうか。それとも、郎女が足音を殺して弟を尋ね行こうか。

「今度のお前の恋人は、よほど佳い男らしいな。最近お前はとみに美しくなった」

 年が明ければ十五になり、妻帯も許されるようになる弟への、朝髪の乱るる想いに郎女は嘆息する。らしくなくしおらしい郎女の顔を覗き込む異母兄は、初めて見る張りつめた顔をしていた。

「お前は今まで、恋多き女と囁かれながらその実、恋などしたことはただの一度もなかっただろう」

「……ええ、その通りですわ」

 胸の裡を見透かされていた気恥ずかしさ、気まずさを漆塗りの器に盛られた蘇を摘まんで繕っていると、兄は先程の郎女よりも一層苦しげな息を吐いた。

「そのお前をここまで狂わせる男との仲を認めてやれぬのは、兄として残念でならぬ」

「一体、何を言いだしますの、兄上」

 もしや、自分たちの関係も見透かされていたのか。身を堅くした浜辺郎女に、兄は口元をますます引き結んだ。

「とある貴人が、稚彦と共に居るお前を見初めたのだそうだ。始め稚彦とお前は妹背いもせであろうと諦めたが、姉弟であると知って、いかな手を取ってもお前が欲しくなったのだと。それで、お前を吾が後妻うわなりにしたいと、俺の許に直々に話を付けに来たという次第だ」

 郎女を望んでいるという男の位を訊ねれば、帝の一族ではあらねども、対面すればこちらが足元に額ずかずにはいられない高さである。拒絶すれば、異母兄や養母、さらに養母の一族の者どもまで憂き目に遭おう。だが、郎女が快くかの男と縁を結びさえすれば、夫となる男は郎女のかねての願い通り、稚彦をも共に引き取ってくれるのだという。これでは、断れるはずがないではないか。

 長年の望みが叶いかけているというのに、どうしてこんなに哀しいのか。頬を濡らしながら己が室に戻った郎女は、夕餉も摂らずに嘆き続ける。

 兄に言い含められたのだろう。覚束ない足取りで室に入って来た弟が、自分と同じかそれ以上に蒼い顔をしている様を一目見ると、郎女は居ても立っても居られなくなった。

「軽皇子は衣通姫に、最期はのどちらで呼ばれたのでしょう。僕は一度でいいから、姉上に汝弟ではなく汝兄なせ――あなたと呼ばれてみたかったものです」

「ならばこの時だけは、妹背と呼び合いましょう。愛しき我が汝兄の君よ」

 共に滂沱の涙を流しながら、郎女と弟はこれが最後と情けを交わした。というのも、弟は養母の屋敷に留まることを自ら望んだのである。

「僕は、他の男の隣にいる汝妹あなたの姿を見たら、きっと正気ではいられない。人目もはばからず汝妹を搔き抱いて、衣通姫にしない自信がないのです」

 最後の寝物語でぽつりと呟いた弟の横顔が、何故だか母に重なった。


 夫となった男との最初の夜から月が二つ過ぎるのを待ち、郎女は夫に身籠っていると告げた。

「ああ、なんとめでたいことだろう。この年になって巡り合った吾妹わぎもとの間に、子をも授かるとは」

 郎女の兄よりも年嵩の息子がいる老いた夫は、目に涙を溜めて喜んだが、此度の懐妊は郎女にとっても喜ばしかった。

 弟の逞しく引き締まった腕に抱かれる歓びを知る郎女は、でっぷりと肥った夫に抱かれても退屈なだけ。何も都と出羽に分かれているのではなく、同じ都に暮らしているのだ。郎女と稚彦が逢瀬を重ねるついではあろう。

 どうにか弟を邸に招き入れ、夫の寝床でことに及ぶのも良いかもしれない。ただし、その際も弟を軽皇子にしないよう気は配らねば。

 日々丸くなる腹を愛おしみながら、郎女は弟との逢引の算段を立てた。月満ちて子が生まれれば、稚彦にも抱かせてやらねば。きっと、あの子は喜んでくれるだろう。

 しかし、郎女の密かな願いは酷く絶たれた。

 稚彦は郎女が夫の邸に移ったその日から、気鬱の病に罹り、更に別の――胸の病を拗らせた。そして、郎女が産みの苦しみに悶えている間に、父母が待つ黄泉へと発ってしまったというのである。

 郎女が弟の死を知らされたのは、弟がひとまず都の外の墓所に埋葬された後だった。あの忘れ得ぬ夜、弟と母が重なったのは、見間違いではなかったのだ。稚彦はやはり、父を恋うるがあまり儚くなった母の性分を受け継いでいたのである。

「どうして、どうしてわたしに教えてくださらなかったのです……。わたしは稚彦のためならば、這ってでもあの子の枕辺に向かったものを……」

 弟の危篤を伝えに来た異母兄の家人けにんを追い返し、更に三月も弟の死を隠していた夫を、郎女は声が続く限り詰った。二月も早く始まった出産に長く苦しめられた末に、二度と子を望めぬ身体となった郎女を、これ以上気落ちさせてはとの夫の配慮だったのだと察していても、なお。

 最愛の弟を喪った郎女に残された唯一の希みは、月足らずで生まれたはずの娘が、丸々肥った愛らしい児であること。そして郎女の傷を癒したのは、吾子の成長と夫の細やかな心遣いだった。

 夫は時が許す限り産褥の床で涙にくれる郎女に付き添ってくれた。付き添いが叶わぬ日があれば、使いに水菓子や唐菓子を持たせては、郎女を労わってくれたのである。

 夫の心配りの甲斐あって、娘を産んで半年の後には、郎女の身体は子を育む力を除けばすっかり健やかになった。夫はまた、ただ独りの己が手元で育つこととなった子を、珠のごとく慈しんでくれたのである。

 年は親子以上に離れているし、風采も決して秀いてはいない。それでも娘には優しい父であり、郎女には良い伴侶である夫を、どうして慕わずにいられようか。それがたとえ、未だ郎女の胸を焦がす、弟への思慕とは似ても似つかぬものだったとしても。

 弟は死の間際、いつか己が骨を故郷に、浜梨が咲き乱れる野に葬ってほしいと言い遺したのだという。ゆえに郎女は娘が七つを越えるのを待って、長子に後を任せて位を退いた夫と娘と共に、懐かしい故郷に赴いたのだ。

 夫と子と共に、自ら洗い清めた弟の骨を埋葬した郎女は、青く澄んだわたつみのどよめきに耳を傾けていた。

 久方ぶりに額を寄せ合った縁者たちに、折々に触れて弟の墓に浜梨を供えてはくれまいかと、既に頼み終えた。これから輿で都に帰る郎女が、在りし日の弟と並んで見入った、白妙の波立つ海原を眺めることは二度とない。

「吾妹よ」

 浜辺郎女は袖を振って己を呼ばう夫に微笑みでもって応えた。この夫の権勢と、弟の御霊の加護があれば。娘やいずれ生まれ来る孫のみならず、郎女の子々孫々に至るまでは、とことわに栄えるだろう。

「お母さま」

 射干玉の髪に浜梨を挿してはにかむ娘は、弟によく似ている。

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はまなし野 田所米子 @kome_yoneko

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