20.BP達官邸突入、再会、ヘラの内なる欲望、そしてテルミンは

 はっ、と彼は飛び起きた。

 耳障りな音が、強く長く、連続して鳴っている。非常ベルの音だった。

 何ごとだ、とテルミンはすぐにベッドから降りると、椅子に掛けた、脱いだばかりの服を再び身に付ける。脱いだばかりだった。眠りについたばかりだった。

 一人で眠る夜は、短い方がいい。

 彼は目覚めたばかりで痛む目の裏を我慢しながら、慌ててボタンをはめ、ベルトを締めると、自室から飛び出た。そして廊下を挟んで斜め向かいのヘラの扉を叩く。中からはすぐに、返事があった。


「総統閣下」


 扉を開けてテルミンは安心する。ベッドサイドのスタンドの明かりの中の彼の上司は、無事だった。


「どうした。何があった?」


 ヘラもまた、目を覚ましたばかりらしく、その格好は、決してきっちりとしたものではなかった。だがテルミンと違い、ヘラは濃い灰色の寝間着の上下の上に、アイボリーのカーディガンだけに腕を通し、足にはスポーツ用の靴を履いていた。

 動くための格好だ、とテルミンは思った。見栄えではなく、動くための。


「まだ判りません。ですが、このベルが鳴るということは、おそらく、侵入者かと」

「侵入者」


 ヘラは表情を厳しくする。


「閣下はここに居て下さい」

「何処に居たって同じだろう?」


 そしてヘラは耳に手をやる。その仕草にテルミンは声をひそめ、ゼスチュア通りに耳を澄ます。ばりばり、と音が遠くから聞こえてくる。


「テルミンお前、銃を持ってるな。二つは無いか? 使えるな」

「無論です。あの時御覧になったでしょう?」

「そうだな。そして俺もだ」


 くす、とヘラは笑う。その表情が、ひどくテルミンには楽しげに見えた。


「でも一つしかありません。……それに、あなたにはこんなものでは軽すぎるはずです」

「ああそうだな。だがこの部屋には武器らしい武器は無いな。―――いずれにせよ一度出なくてはならないな」

「しっ!」


 テルミンは口に指を当てる。音が急に近づいてくる。ヘラはうなづくと、扉の内側に身体を隠し、目についたものを手に取る。テルミンはテルミンで観音開きのその扉の反対側に身を寄せる。

 耳を澄ます。向こう側でもこちら側を伺っている様子が判る。テルミンは銃を握る手に力を込める。

 乾いた音が、扉の外に響く。厚いこの扉は、一発二発でどうということは無い。

 気付いたのだろう。続いて、ばりばりと連射する音が、二人の耳に届く。ヘラはにやりと口元を上げた。

 ばん。

 音を立てて扉は開かれた。飛び込んで来たのは、四名。

 テルミンは後ろ向きに入ってきた一人の銃口を避けながら、その胸を狙った。乾いた、鈍い音が響いて、胸から血が飛んだ。

 う、と飛び込んだ仲間の急な死を目のあたりにした一人の顔に、花瓶が空を飛び、直撃する。入っていた花が、水ごと飛び散る。

 ヘラはそれに頭から体当たりする。うわ、という声と共に、総統閣下より頭一つ大きな男は、その場に倒れた。

 緩んだ手から容赦なく、ヘラは銃をつかみ取る。そして踏みつけたその胸に、迷うことなく、弾丸を撃ち込んだ。

 カーディガンが、赤く染まる。


「……!」


 叫ぶ間も無かった。鋭く回したその手から打ち出される弾丸に、二人目は、喉を打ち抜かれる。ひゅう、と音を立てながら、まだ若い侵入者は、その場に倒れた。

 残る一人は、既にテルミンが後ろ手に捕らえていた。ヘラはその生き残りの喉元に、ぐい、と銃口を押し付けた。目を大きく開き、開けられた口は、あわわ、と言葉にならない言葉を吐く。

 こんなに唐突に、この自分達の目的の対象が、あっさりと自分の仲間を片付けてしまうことに衝撃を受けているのは確かだった。

 確かに警備については、万全の体勢を整えてきたに違いない。だが、それ以上の危険が、そこにあったとは知らずに。


「ここに侵入したのは、お前達四人だけか?」


 ヘラはひどく静かに問いかける。その顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。捕らえられた男は自分の顔から脂汗が滴り落ちているのに気付いているだろうか。


「言わないのか?」


 くす、とその笑みの度合いが大きくなる。うう、と男はうめく。慌てて首を横に振る。


「誰か、まだ居るんだな。何人だ?」

「……」


 口が横に広がる。


「言え」


 ぐい、と喉に押し付ける力は強くなる。


「……ぃ、いとり……」


 引きつる声。それだけを、ようやく口にする。


「そうか。ではもう用は無い」


 そしてそのまま、喉から銃口をずらし、鎖骨の上から、下に向けて引き金を引いた。

 ゆっくりと、その場に身体が崩れ落ちる。ヘラは頬についた血を指でぬぐうと、顔色一つ変えずに、テルミンの方を向いた。


「始末しておく様に指示しておけ。それと、もう一人の探索を」

「はい。すぐに……」

「最後の一人は、殺すな。捕らえろ」

「いいのですか?」

「殺す方が、簡単だ。おそらく残りは単独行動を取ることを許されている。今のこの集団は、ダミーだ。本命の方が、より情報を握っているんじゃないか? 宣伝相」

「嫌味ですか」

「いいや本気だ。命令だ。生かして捕らえろ」


 判りました、とテルミンは一礼して、その場を離れる。

 ヘラはその後ろ姿を見ながら、銃の弾丸の残量を確認すると、倒れている、元々の銃の持ち主の懐を探った。

 案の定、その銃に相当する弾丸のカートリッジの換えが見つかる。しゃ、と音をさせて、カートリッジを取り替える。それは慣れた手つきだった。この銃の形式に、慣れた手つきだった。

 ヘラは血に染まったカーディガンを脱ぐと、ふらふらと揺れる寝間着の袖をも引きちぎった。むき出しになった腕は、夜の窓から入る衛星光のぎらりとした光に白く浮かび上がる。しなやかなその線は、その手にやや大きめとも思える程の銃を握りしめた瞬間、筋肉の在処をあらわにした。

 そしてヘラは、壁の一部分に手をかけた。



 かび臭い、とBPは階段の裏手の隠し扉を開けた瞬間に思った。

 一方が集団で陽動作戦を取っている間に、隠し通路に忍び込んで、総統の私室を狙う。

 それが今回の作戦の単純な形だった。無論、陽動が四人で済むとは思っては、BPも思ってはいない。何はともあれ、ここは「官邸」である。警備の量も半端ではない。

 侵入する時にも、ラルゲン調理長の情報をもとに、調理資材関係の搬入路と倉庫の抜け道をたどった。さすがにそこは、警備の対象外だったらしく、……簡単とは言わないが、巡回する兵士の目を軽く逸らさせただけで、何とか入り込むことに成功はした。

 BPはそこから単独行動に入った。

 だが元々彼は、一人で侵入することを主張していた。その方が、動きが取りやすいし、なおかつ被害も少ない、と考えていたのだ。確かに彼らは裏活動を何かとして居たことはあるらしいが、実戦経験の量が、自分とは違う。……と、彼は感じた。

 記憶では無い。「知識」が、銃を手にした途端、自分のすべき行動を、決定するのだ。その「知識」が、こんな作戦には、少人数であればある程いい、と主張する。

 だが「赤」も「緑」も、それは駄目だ、と主張した。

 自分の行動は、試されている。BPはそれに気付いた時、渋々ながらも了承した。

 だが。

 嫌な予感がした。

 先程から、何の音もしていない。少し前、この通路に入り込むまでは、何かしらの音がしていた。足音。騒ぐ声。銃声。号令。

 なのに、この通路に一歩入った瞬間、それが、まるで無かったことの様に、ひっそりと辺りは静まりかえる。空気の色も違う。明かり一つ無いその通路の壁に、彼はそっと手を当てる。ひんやりと、冷たい。

 目をそっと伏せて、耳を澄ませる。


 こんなことが、以前にもあっただろうか? 


 彼は自分の中の細い細い糸をたぐる。蜘蛛の糸の様に、細いそれを、切らさない様に、そっと、ゆっくりたぐっていく。

 冷たい壁。湿った空気。かび臭い通路。

 ライから戻ってから、実戦に数度出たことはある。だがそれは、大概が街路やビルの中だった。陽の光の中ではないが、決して暗い中で行う戦闘では無かった。

 だが確かに、こんな暗闇の中で、自分は息を殺して、敵の気配をたどっていたことがあった、と彼は思う。

 敵。

 そう、気配が、この大気の中にはあった。それは、彼のむき出した腕の上をぴりぴりとかすめていく。


 ……何処だ?


 彼は内心つぶやきながら、ゆっくりと足を進めていく。

 広い通路ではない。だが足元が見えないくらいに暗い通路だから、彼は側の壁に手を当てて、ゆっくりと進んでいく。

 ふと、やがてその視線の先に、ぼんやりと光の様なものが見えた。


 何だろう?


 青白い光が、ぼんやりと壁の灰色を浮かび上がらせつつあった。道が曲がっている。腕に感じる違和感にも似た感覚が、次第に強くなってくる。

 光の在る方へ。彼は近づいていく。

 そして突然、目の前が開けた。


「……なるほどね」


 声がその空間に響いた。

 乾いた声だった。

 誰かが居る、と彼は思った。確かに居る、と。

 だがその「誰か」の姿は、逆光で見えない。

 大きな高い窓が、その突き当たりにはあった。その窓から差し込む衛星の冷たい青白い光が空間を満たしていた。だが窓を背にして、その聞き覚えのある声の持ち主の顔は、見えない。

 聞き覚え。政見放送で。聞こえてくるラジオで。

 その姿がそこにあった。たった一人で。

 そのつと伸ばされた手には、銃が。

 彼もまた反射的に銃に手を伸ばした。

 だが、撃つのではなく、まず身を伏せた。

 頭上を鋭い風が過ぎる。音はその後に続く。伏せたまま彼は、引き金を引いた。素早い動きで相手は避ける。かしゃん、と軽い音を引いて、窓ガラスの端が割れた。

 立ち上がると彼は、数回引き金を引いた。その度に、相手は素早く身をかわす。光の具合で彼にとって死角になる部分に入り込んでくる。


 確かにこんなことがあった。


 彼は頭の半分で思った。


 そして、こんなことが得意な奴が。


 その一瞬のスキが、彼の動きを鈍らせた。

 すっ、と死角の闇の中から、相手は伸び上がってきた。

 BPは銃を向けようと思ったが、相手の方が一瞬早かった。

 両手が、彼の手の中の銃を突き上げていた。弾丸が、窓ガラスの真ん中に命中した。派手な音を立てて、ガラスが弾けた。


 落ちる―――


 何が、という訳でない。ただ、落ちる、と思った。

 だが、落ちたのは、自分の身体であることにBPが気付くにのは、やや時間がかかった。

 何が起こっているのか、彼にはすぐには判らなかった。

 自分が相手の銃で撃ち殺されるだろうことは予想できた。だがその気配は無い。

 相手の両手は塞がっている。

 自分の両肩を押さえ込んでいるから、塞がっているのだ。


 何でこんな力が。


 華奢そうな腕。あり得ない。

 そしてその時、相手の顔が、はっきりと見えた。衛星光に半分照らされた、その顔の輪郭が、くっきりと判った。


「……お前は」


 総統ヘラ・ヒドゥン。

 まず彼は思った。あの並んだポスターの中で、一枚、くっきりと鮮やかなその顔を浮かび上がられたその顔。

 何度も繰り返される中央放送局の政見放送の中、政府公報のCFの中、どんな俳優も歌い手も顔色を無くしたというその整った顔が、目の前にある。

 だが一方、彼の中で奇妙な映像が、オーヴァラップする。


「誰だ」


 彼はつぶやく。


「お前は、誰だ?」


 それは、長い髪だったはずだ。ゆらゆらと、長い髪を揺らせて、上目づかいに自分を見上げた。ひどく悔しそうな顔で、ひどく悲しそうな顔で。

 どうして、と彼は再びつぶやく。

 だって。

 ぼとん、と水滴が、自分の頬に落ちるのを、彼は感じていた。

 一滴ではない。ぼたぼたぼたぼたと、幾つも、幾つも、水滴は、自分の上に落ちてくる。

 一体これは何処から落ちてくるのか、と彼は不思議に思う。確かに目の前の相手から、流れているものなのだけど。

 相手の大きな目から、流れて落ちてくるものなのだけど。

 じゃあこれはあの映像の続きなのか、と彼は、ふと考える。

 だから、彼は、その時に聞いてみたかった言葉を投げた。


「何で泣いているんだ?」

「お前が馬鹿だからだ」

「そうなのか?」

「そうだ。大馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。救いようも無い馬鹿だ」


 そして相手は自分の上にのし掛かったまま、首を抱え込む。

 やはりあの映像の続きに違いない、と彼は感じる。でもそれはおかしい。一体今はいつで、ここは何処だ。


「……や…… めろ……」

「止めない。お前にあの時、何で何もできなかったんだ。俺は一体何をしてたっていうんだ、ザクセン」


 その名前は、と聞こうとした。

 だが出来なかった。

 呼吸が塞がれる。これは相棒のものではない。柔らかい感触が、口を被い、柔らかな舌が、その間から侵入してくる。これは違う、相棒とは。


「……や…… めろ!」


 彼は思い切り背中に力を入れて、起きあがった。手に力を入れて、相手の身体を押し戻した。


 がちゃん。


 金属が床に落ちる音がした。それが銃だということに気付くのに、少しばかり時間がかかった。

 手に取ろうとする。だが相手の足がそれを蹴り飛ばす方が早かった。

 どちらの手にも銃は無い。そしてどちらも、体勢が崩れている。ある意味互角。

 だが相手からは、殺気が感じられない。

 BPは戸惑った。一体こいつは何を考えている?


「なるほどやっぱりお前はライへ送られたんだな」

「何?」


 乾いた声は彼に対して、会話を求めていた。少なくとも、BPにはそう聞こえた。


「そして全く忘れてしまったんだな?」

「だから何を」

「全てを。お前がお前である全てを。そして俺のことも」

「お前のことも?」

「忘れてしまったんだろう?」


 くくく、とヘラは笑う。


 一体誰だと。


 相手は自分のことをザクセンだと呼んだ。では本当に、この「総統閣下」は、あの「赤」のメンバーが言った、「アルンヘルム」だというのだろうか。

 だがその名前を口にするのは、彼にはためらわれた。


 違う。俺はそう呼んでいたのではない。


「何で……」


 そして無意識に、そんな言葉が彼の口から流れ出していた。一度顔を両手で被い、息を詰め、ゆっくりとその手を顔から引き剥がす。

 どうしてそう言おうとしているのか、自分でも訳が判らない。だが。


「何で、お前……」


 相手は自分の目の前で、くくく、と笑い続けている。何だよ、とヘラは笑いながら問いかける。


「何でお前、泣いてるんだよ、―――ヘル」



「居ません。何処にも……」

「よし今度は、こちらへ廻れ」

「は」


 二人一組の警備兵は、一礼するとすぐに所定の位置へと駈けだして行く。

 テルミンは次々に集まってくる警備兵の報告を聞き、図面をモニター室の大きなデスクに広げながら、別の箇所を指示していた。

 普段の警備の人数はそう多くは無い。だが一声かければ、その数は数倍に膨れ上がる。その人員をもって、この複雑怪奇に絡み合った様式の詰め合わせの様な官邸を、これでもかとばかりに彼は捜索させていた。

 しかし結果ははかばかしくない。たった一人のねずみをいぶり出すだけなのに、何故こんならはかどらないのか。テルミンはやや苛立ちかけていた。元より睡眠が足りないことが、彼の神経をささくれ立てていた。

 そしてその時、彼の神経をより逆撫でするものが飛び込んできた。


『こんばんわこんばんわも一つおまけにこんばんわ。親愛なる総統閣下お元気であられましょうか。衛星光が綺麗ですね今夜は。同じ光を浴びてらっしゃるのでしょうか?』


 笑い混じりの、奇妙に響く声が、彼の耳に飛び込んで、頭の中をかき回す。切ってしまえ、と叫びだしたい衝動が、あった。


「どういたしましたか?」


 心配そうに、まだ若い警備兵の一人が彼をのぞき込む。ああいけない、とテルミンは思う。疲れや苛立ちを、彼らの前で見せる訳にはいかないのだ。大丈夫だ、と手を振って、彼は笑顔を作る。


「しばらく私室に居る。見つけたらすぐに連絡しろ」

「はい。ですが宣伝相閣下、一応お持ち下さい」


 兵士の一人は、彼に麻酔銃を差し出した。生け捕りにしろ、とヘラが命じたことから、テルミンは彼らにそれを持たせて捜索させていたのだ。


「判った。まず私が使うことはないだろうが」

「しかし」


 にっこりと笑い、テルミンはそれを受け取った。渡した兵士も、それにつられてにっこりと返した。

 だが部屋に入った途端、疲れが体中に押し寄せてくる。それは寝不足や日々の疲れの蓄積からだけではなかった。体中を襲う、無気力に近いものだった。

 あの帝都からの派遣員が帝都に戻ってからというもの、彼は慢性の寝不足に悩まされていた。全く眠りが無い訳ではないが、浅く、起きた時にひどい倦怠感を伴うもので、休んだ、という感触がひどく少ないものだった。

 そして夢をよく見る。

 それはひどく曖昧なもので、何をどうというものが、具体的に現れる訳ではない。いや、現れる時もあることはある。例えば彼の敬愛なる総統閣下。彼の親友。彼の女友達。その中で、テルミンは上手くものごとを回している、というイメージ。イメージはイメージだった。だから何をしている、という具体的なことではない。ただ「上手くやっている」という感覚だけがそこにはある。

 だが、「上手く」やって笑い合うそのイメージは、いつでも何処か薄ら寒いのだ。

 誰かが、居ない。

 それが誰であるのか彼は知っていた。そして呼ぼうとすると、目が覚める。手を伸ばす。だがその手は何にも触れることもなく、ただ夜の闇をかき回すだけだった。

 寝具をかき寄せ、自分自身を抱きしめてみても、何も変わる訳ではない。そしてただ、じっと朝が来るのを待つのだ。

 しかしどうやらこの夜は、そんな風に待つことはしなくてもよそさうだった。だが倦怠感は続いている。何とかしなくては、と彼は私室の隅の簡易キッチンへ立ち、専属のハウスキーパーが毎日用意しているコーヒーポットを火にかけた。半分も呑まないうちに取り替えられるそれが、無性に今は欲しかった。

 こぽこぽ、と音をさせて沸騰を始めたそれを火から下ろし、彼は胃に良くないな、とミルクを少し入れてかき回す。部屋中に、コーヒーの香りが広がった。両手でカップを持つ。口をつける。暖かい。

 ふう、と彼はため息をついた。


 その時だった。


 気を抜いたから、耳が敏感になったのだろうか。彼はふと、銃声を聞いた様な気がした。

 立ち上がる。それはどちらからだろう。耳を澄ませる。だが部下からの連絡は無い。

 再び、銃声が細く糸を引いて、彼の耳に飛び込んだ。

 まさか。

 テルミンはコーヒーを飲み干すと、かたんと音をさせてカップを置き、そのまま部屋の奥へと足を動かした。クローゼットの奥を開くと、ここ数日足を踏み入れなかった、湿った空気が漂う通路が開く。

 ヘラから返してもらった小さな懐中電灯で、足元を照らしながら、音のしたと思われる方向へと彼は足を進める。

 確かにこの方向だった。

 がしゃん、と何かが落ちる音がする。彼は肩を震わせる。窓ガラスが、落ちた?

 足を速める。灯りを消す。もうこの辺りなら、自分の足は慣れているはずだ、と彼は思った。

 そして視界が開ける。きらきらと、床が、衛星光にきらめいている。何故だ。ガラスの破片が、散らばっている。

 それだけでは、なかった。

 彼は自分の目を、疑った。

 誰かが、誰かに抱きついている。べったりと床に尻をついたまま。逆光でよく見えない。だが、その小柄で華奢で、特徴のある体つき。すんなりとした腕が、まっすぐ伸びて。

 あれは。


「何で、俺が泣いてたかって?」


 ヘラは腕をだらりと垂らしたままの相手に抱きつきながら言う。何かを、この誰かはヘラに言ったのだろうか、とテルミンは奇妙に乾いた感覚で考える。変だ、と思う。何で俺はこんなに平静に言葉をつないでるんだ。


「悔しかったんだよ。何でお前にずっと、こうしなかったかって。自分のふがいなさに、俺はひどく、悔しかったんだ」



 ああ、そうだったのか、とBPは思った。

 あの泣き顔は、そういう意味だったのか、と。予想だにしていなかった。

 相手は、そしてもう一度、唇を合わせてきた。先程とは違って、軽く、重ねるだけのものだった。彼はそれを避けることはしなかった。


「……避けないんだな」


 相手は首に手を回したまま、そうつぶやく。実際不思議だった。何故自分はこの手を振り解かないのだろう、と。確かに向かし相棒だったのかもしれない。だが現在は、自分達にとって、「敵」であるはずのこの相手を、どうして。

 それだけじゃない。あの相棒では無いはずなのに、自分はそれが平気なのだろうか。

 あの冬の惑星に居た時、それでもふざけて彼にキスの一つでもしようとした奴が居ない訳ではない。無論相棒の知らないところだ。だが、そのたび彼は、その相手にひじ鉄どころか、拳と蹴りの一つも加えたはずである。

 なのに。


「お前は誰なんだ」


 自分にとも、相手にともつかない質問を、思わずつぶやいている。すると乾いた、途切れそうな程の声が、それに答える。


「俺は、ヘルだ。お前が奴だというなら。お前の相棒で、友人で」

「お前は俺を好きだった?」

「ああ」


 彼は首を横に振る。そんな訳がない、と。


「だが事実だ。少なくとも、俺はそうだった。お前を守りたかった。俺にできることはしたかった。……お前が生きていれば、それで良かった」


 「赤」の内部で得た情報によると、かつてこの総統ヘラは、首相ゲオルギイの愛人だったという噂がある。仲間を売って、身の安全を買ったのだ、という噂もあった。BPはそれがにわかには考えにくかった。別段根拠というものはない。ただ何となく、考えにくかった。

 何となく。


「奴は、生きたいか、と俺に聞いた。俺は別に、と答えた。実際どうでもよかった。馬鹿馬鹿しかった。こんなところで足元をすくわれるとは思わなかった。一人だったら、何とかして脱出できると思っていた。奴は俺を拘束らしい拘束はしていなかったからな。だが奴はなかなか俺が強情だと判ると、こう言ったよ。『お前の相棒の命を助けたくはないか』」


 BPは顔を上げた。


「奴は交換条件を出してきた。お前の命は助ける代わりに、自分のものになれと言ってきた」

「そんな……」

「事実だ」

「それで――― そうしたというのか?」

「お前は今、生きているだろう?」


 そういうことだ、とヘラは付け加える。


「どんな姿になろうと、記憶を無くそうと、とにかくお前が生きていれば、良かった。それでどうなるかはどうでもよかった。生きてれば、何とかなる。いつか、何処かで会える。俺はそう思った。だから、奴の要求を呑んだ。俺は後悔してない。別に捨てて惜しいものは何もなかった。欲しいものも何も無かった。ただ、いつか」


 く、と目の前の相手は笑う。BPはその手が頬に触れるのを感じた。


「皮肉だよな。それでお前は俺の敵になるのかよ」

「……」

「あの時、奴の『特別のお達し』とやらで、『ザクセン』に最後に会った時、俺は馬鹿みたいにぼろぼろ泣いたよ」


 今の様に? 彼は思った。だが口には出さなかった。


「馬鹿馬鹿しくて、泣いたよ。何で、こんなことになるのなら、もっと早く……」


 ああまた、だ。彼はその乾いた感触に、そんなことを思う。


「だけど、お前、避けないんだな」

「俺は、避けていたというのか?」

「誰よりも、そういうことを、嫌がっていたくせに。戦場で、他の奴が、お前にちょっかい出そうとすると、たちどころに殴りつけたくせに」

「わからない……」


 最初から、あの相棒には、違和感は、無かったのだ。そんなものかな、と奇妙に納得していた自分が居たのだ。


「あの時、ひどくびっくりしていたくせに……」


 あの時?


「……あの時、お前……」


 つながった、と彼は思った。



 だから、訳が判らなかったのだ。

 ずっと、拘束されて、尋問を受けて、度重なる追求と、時には殴る蹴るの暴行。喋ることなど何も無い。それはそうだ。自分は何も知らないのだから。

 ただ、そこに居合わせただけだったのだ。……相棒と共に。

 だけど居合わせたのは偶然ではない。俺達は、呼び出されたのだ。普段あまりいい雰囲気ではない、その首府警備隊の若手士官達に。

 自分達は、戦場のたたき上げだった。その腕を買われて、近年次第に力をつけていた反政府組織に対する実働隊として、相棒と共に、あの辺境、毎日が戦場の地から引き抜かれたのだ。

 それは彼にとっては、結構な出世に最初は思えた。相棒同様、決して俺も裕福な出ではない。ただ、それでも軍隊に入れば、少しでも上を望める、と思っていた。

 しかし実戦に強くなればなるほど、その期待は薄れていった。軍は自分達を、ただ利用しているだけじゃないか。

 そうこぼす彼に、相棒の言葉はいつもあっさりと、乾いていた。だけど仕方ないだろ、と言う言葉の中に、あきらめと、そして居直りの様なものを感じて、いつも感心していた。強いな、と思っていた。

 見かけでは、決して判断してはいけない、危険な相棒。もし本気で対戦したなら、自分は絶対に負けるだろう、と彼は思っていた。何故なら彼は、相棒は決して殺せない。

 だからその相棒と共に首府警備隊に転属を命じられた時には彼は嬉しかった。素直に、嬉しかった。

 相棒はやっぱり乾いた声であっそう、と言っただけだった。

 そして相棒の反応の方が正しかった。

 首府警備隊は、結局エリートの通過点の様な場所だった。実戦など参加したことの無い様な、士官学校出の連中が、真面目に勤め上げるとそこを抜けて、上の職場へと行ける、そんな通過点。そこで手を汚すことなど考えもしない連中の吹き溜まりだった。失望した。だが相棒はそんなものさ、と乾いた声で彼に言った。正しかった。

 自然、その中に溶け込むことはできず、彼らは浮いていた。だが実戦において、彼らに勝てる者はいなかった。

 それが、周囲の恨みを買うことになるとは、彼は気付いていなかった。相棒は気付いていなかったのだろうか? いや気付いていたのだろう。

 気付いていて、ばーか、とその乾いた口調で奴らの背後から言っていたに違いない。声にしていなかったにせよ。

 それが、連中の気に障っていたことだけが、彼も相棒もお互いに同じくらいに気付かずに。

 自分達が馬鹿だったとすれば、それだった。

 別世界の住人だと思っていたから、この「同僚」達にやがて関心を持つのもやめた。彼らはきっとこの首府警備隊の実戦部隊として飼い殺しにされるのだろう、と思っていた。

 だが向こうにはそうではなかった。奴らはいつも足元をすくわれるのを恐れていた。ただそれに、彼らが気付かなかっただけだ。

 そしてそれは、奇妙な形となって現れた。

 ある日彼らは、ちょっとしたことで、部隊の「同僚」の一人といさかいを起こした。理由は簡単だった。相棒の美貌とも言っていい程の姿に、その姿で取り入ったのだろう、と悪態をつく者が居たからだった。

 またいつものことだ、と彼は思った。

 だが不思議なことに、その時、仲直りを向こうから申し出てきた。彼と、相棒の二人に。

 奇妙には思ったが、そんなものだろう、と彼らは、誘われるままに官舎へと向かった。

 だがそれが、いけなかった。

 ものものしい雰囲気が、入った官舎の中に漂っていた。やあ、と向こうは愛想よく喋りかけてきた。

 ひとことふたこと、言葉を交わすうちに、相棒の表情が変わってきた。高揚した視線。高揚した声。高揚した言葉。


「……こいつら、おかしい」


 乾いた、小さな声が、彼の耳に飛び込んだ。それは彼自身も感じていた。酔っているのか、と当初は思った。愛想の良さも、言葉の調子も、明らかにそれは酔っている者のそれだった。

 実際、彼らは酔っていた。しかしそれは酒ではなかった。

 クーデターという夢に、酔っていたのだ。

 そのための駒に、彼らが呼び出されたことに気付くのは遅くはなかった。だが、気付くのが少し遅かった。

 いつ誰が何処で通報したのだろう? 夜が明ける前に、その場所は包囲されていた。

 違う仲間じゃない、と言っても、問答無用で後頭部を殴られ、気が付いた時には、留置所の中だった。相棒の姿を彼は目で探した。だが見つからなかった。一緒に放り込まれた連中を、普段はしない、脅す様な口調で彼は問いつめたが、誰も知らない、と言った。

 そして尋問が繰り返され、やがて相棒のことを訊ねる気力さえ失くなっていった。食事もろくに与えられない上に尋問。当然だろう、と彼は思った。もしも問われていることが事実だったら、自分達は殺されるためにその場に居るのだ。食事など与えられる訳がないだろう、と。だがそれでも尋問のために水くらいは与えられるのだろう、と。

 そのまま自分は殺されるのだろう、と弱気にも彼は思っていた。身体も自分も、どうにもならない程、沈み込んでいた。

 だが気が付くと、周囲には誰もいなくなっていた。

 同じ房の中にも、隣の房の中にも、気配は無かった。

 ぼんやりする意識が、ふと開く扉を認めた時、相棒の姿がそこにあった。

 幻覚か、と思った。

 だがその幻覚は近づいてきて、何も言わず、ぼろぼろと涙を流し、彼をにらみつけた。

 そう、にらみつけたのだ。

 相棒の涙など、それまで彼は見たこともなかった。だからこれは夢だ、と思った。

 あの長く伸ばしているくせに、邪魔になるといつも束ねていたはずの髪を、どうしたのか、ゆらゆらと広げたまま、抱きついてくる。

 だからこれは、夢だと。

 そんな訳は無いのだ、と。

 相棒は何かを言おうとする。だが何を言っていいのか判らない、という様に、口だけをぱくぱくと動かして。苛立たしげに首を横に振り。

 何を言いたいのか、と彼は訊ねた。……と、思う。実際には何も言っていないのかもしれない。

 だがその時、相棒は、一度、抱きついた腕を放すと、彼の首を抱え込んで。

 あれは。

 何故だ、と。

 彼は、混乱して。

 相棒は、走り去り。

 ぼんやりと、行為の意味を理解しかねて奇妙に空回りする頭のまま、両腕を引き上げられ、身体が引きずられるのを感じて。


 ……そのまま麻酔をかけられた。



「……そういう、意味だったのか……」


 BPはつぶやく。

 記憶の処置は、「抹消」ではない。記憶の筋道を混乱させるものなのだ。

 だから、「鍵」が誰もの中に残る。ただ、その「鍵」は、冬の惑星の収容所に住む人間には現れる訳がない。記憶の中で、最も強く焼き付いているもの。それが記憶の正しい筋道へとつながる最大の「鍵」なのだ。

 そして彼の目の前には、その映像そのものが居た。

 「鍵」は開かれた。

 連鎖反応の様に、次々と、映像が彼の頭の中を流れていく。

 だが無論、流れたからと言って、その全てをすぐに把握できる訳ではない。すぐにその意味を理解できる訳ではない。

 だが、それが自分の記憶なのだ、ということだけは彼にも理解できた。あれが、自分の記憶なのだ。

 そしてあの時、記憶をかき乱される最後の時まで、彼の中では、そうなのだろうか、という疑問が残った。

 だからあの時、冬の惑星の収容所で最初にあの相棒が――― リタリットが自分を指し示した時、抱え込んだ時、くちづけた時、そんなものだ、と納得した。そういうものなんだ、と彼は納得してしまった。


 ではそこに、この目の前の相手が居たなら?


 BPは自問する。だが答えは出ない。納得した時にそこに居たのは、リタリットであり、ヘラではないのだ。 


「お前、ヘル、俺を、そういう意味で、好きだった?」

「好きだった」


 乾いた声が、耳に届く。そうだこの声だ、とBPは思う。

 あの戦場で一緒に戦った仲間だった。他の皆誰もが散っていく中でも、二人で組んでいれば負けるはずは無い、と信じていた相棒だった。

 ずっと一緒にやっていけると、そう思っていた相棒だったのだ。


「俺を、どうしたかった?」

「無茶苦茶に、してやりたかった」

「どうして?」

「判らない。でも、もの凄く、俺はそう思っていた。誰にもそんなことは思ったことはない。俺をどうかしたいと思った奴は幾らでも居たけど」


 そうだったよな、とBPは思う。そしてそのたびに、この姿からは想像のつかない方法で反撃して、相手に二度とそんなことを言わせなかったのだ。


「本当に、そんなことをしたかったのか?」

「したかった」


 そう言って、相手は再び彼の首を抱え込んだ。彼はかくん、と首を後ろに倒した。

 上げた視界に、割れた窓が見えた。衛星の光が、流れていく雲に、とぎれとぎれになる。同じ首府の空の下に、あの相棒は居るはずだ。電波に乗せて、あの声を飛ばしているはずだ。やはり乾いているけれど、何処かの配線が壊れたような、奇妙に響く、あの声を。

 なのに、のし掛かってくるこの相手の、むき出しの腕から伝わってくる、自分より少し低い体温をも、覚えている自分が居る。

 判らなくなっている。

 判っているのは、一つだけだ。結局自分は、この相手を――― 「総統閣下」を殺すことはできない。「相棒」を殺すことはできないのだ。どんな状況であったとしても。

 そして彼が、そんな自分の中を素通しにしてしまうような、容赦無い衛星光から目を逸らした時だった。

 彼は、思わず相手の身体を強く押し戻していた。


 螺旋階段の上に、誰かが居る。


 彼の視線の先に気付いたのか、ヘラもまた、その人影を認めた。そしてこうつぶやく。


「……テルミン、お前……」


 その人影は、銃を構えていた。口を一文字に結んで、黙ったまま。

 鈍い音が二発、その場に落ちた。



 ブザーの音が聞こえたので、ケンネルは目を覚ました。時計を見ると、夜明け近かったが、さすがにまだ起きるには早い時間だった。

 誰だこんな非常識な時間に、と思いながらも、ケンネルはパジャマの上にガウンを羽織り、階下へ降りていく。この時期、夜明け前のこの時間のこの広い家は、ひどく冷え込む。もっとも、この科学技術庁長官自身、この首府に帰還した時には、なかなか非常識な時間に友人の居場所を訪問したのだが。

 だが扉の窓から相手の姿を確認して、ケンネルはひどく驚いた。静かな、朝もやを背に、そこには私服を身に付けた友人の姿があった。

 慌てて扉を開ける。間違いなく、友人の姿がそこにはあった。


「……どうしたんだよ……お前こんな時間に……」

「お早う。入っても、いいかな?」


 ひどく力の無い声で、テルミンは友人に問いかけた。何って顔をしているのだろう、と彼は思う。何でそんなに、驚いているのだろう?


「……早く入ってくれよ…… ここでは寒いだろうし……」


 うん、とうなづくと、テルミンは大きく開けられた扉をくぐる。だが彼が入る時に、背後の車にちら、と視線を投げるのをケンネルは見逃さなかった。こんな車にケンネルは見覚えが無かった。


「ずいぶん殺風景な家だな……」

「別に、俺一人と、研究物を置くばかりの家だからね…… とにかくそこに座らない? お前、ずいぶんひどい顔色してるよ」

「あ? ……ああ、そんなに、ひどいか?」


 テルミンは自分の頬をつ、と指でたどる。確かに、妙に肌がざらついている様な気がする。あれから、眠っていない。


「待ってろ。暖かいものでも煎れるから」


 朝の光は窓から差し込みつつある。その光の透明さと強さに、彼はふと目の裏に痛みを感じる。肩と首に虚脱感が溜まっている。自分の身体がスポンジになってしまったかのようだった。水を含んだ、そんなものの様な気がしていた。


「こんなものしか無いがな」

「科学技術庁長官が、ハウスキーパーの一人も雇わない?」


 ほこりよけのカバーがされたままのソファの一つに座り込むと、渡される大きなカップを受け取りながら、テルミンは訊ねる。


「必要は無いからね」

「そんなこと言ってると、この屋敷が廃墟になるよ」

「ああ、お屋敷だったのね」


 らしいね、とつぶやくと、テルミンは受け取ったカップの中身を確かめる。ミルクを半分以上いれた紅茶であることは、その色が証明していた。口をつけると、少し強いくらいの甘味が広がった。

 いつも、じゃない。こういうものを口にすることは滅多にない。だが、どうして、それがひどく口に優しく感じてしまうのだろう。

 この友人は、いつもそうだった。

 半分くらい飲み干すと、彼はカップを低いテーブルの上に置いた。


「頼みがあるんだ」

「うん」


 そんなことだと思った、とケンネルは静かにつぶやく。


「お前がそういう顔してくる時には、いつだってそうだったよな」

「そう。……そして、先輩にしか、どうしようも無いことになってしまった時」


 そうだった。いつも、自分はこの先輩に対して、そんな事態の後始末をつけてもらっている様なものだった。

 科学技術庁長官の地位は、確かに持ち駒に主要な役所を頼みたい、というのもあったが、そんな普段から世話になっている友人に対しての、せめてもの恩返しの意味もあった。

 だが結局は、その地位そのものにまた、自分は頼ってしまうのだ。


「ごめん。先輩。どうして、俺はいつも……」

「いいよテルミン、俺は別に。いつだって、俺はそれでどうだった、ということは無い」

「うん。先輩はいつもそうだった」


 そして自分が努力しても得られないものを、ただそうやって存在するだけで、あっさりと手に入れて。そんな友人のスタンスに彼は嫉妬しなかった訳ではない。

 どうにもならない資質というものがあるのだ。ヘラが何もしなくとも人々の視線を集めてしまう様な容姿を持っていたように、この先輩にもまた。

 だが今はそんなことにこだわっている場合ではなかった。


「お前、あんな車持ってたか?」


 テルミンは首を横に振る。


「だよな。あんな小さな四角い車、最近のお前が乗ってるの、見たことが無い。あれは昔お前が好きだった奴じゃないの? おまけに私服だ」


 全くもってその通りだった。

 テルミンは宣伝相という地位についてからも、ずっとあの紺色の軍服を普段から身に付けていた。確かにそれは他のどんな服よりも彼に似合っていたし、宣伝相というそれまでに無かった、そして総統のそばに居る新しい地位を印象づけるには良い小道具でもあったのだ。

 車もまた同様だった。特にそれが好きという訳ではないが、「宣伝相」という役割にふさわしい、大きな派手な車に彼は運転手付きで乗る様になっていた。それもまた、小道具だったのだ。

 だが今ここへやって来る時に乗ってきたのは、そんな人目につかせる様な車ではない。昔、士官学校を卒業して、生活するだけより少し多めの給料をもらう様になった時に、遠出を楽しむために買った、そんな小さな車だった。


「……で、何なんだ?」

「先輩に、託したいものがあるんだ」


 そう言うと、テルミンは立ち上がった。


 車をガレージに入れ、扉を閉める。そしておもむろにテルミンは、後ろのトランクの扉を開けた。


「……!」


 ケンネルは息を呑む。

「手を貸して。大丈夫、死んではいない」

「死んではいないって、お前……」


 既にテルミンは、その中身を一つ、ずるずると引き出していた。だらりと垂れ下がるむき出しの両の腕。閉じたまぶたにも、影は深くつく。

 

 彼らの総統閣下がそこには居た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る