13.「テルミンが聞いたら泣くようなセリフだね」

 疲れた足をひきずる様にして、彼はクローゼットを通り抜け、通路に出た。

 通い慣れた、ほこりっぽい通路の中は、いつでもひどく暗い。彼は口紅ほどの大きさのライトを持って、足元を照らす。ひどく静かで、自分の足音だけが、妙に大きく聞こえる。

 もう、どのくらい、こんなことを続けているのだろう、と時々テルミンは考える。

 いちにい、と頭の中で数えてみる。もう五年だ。五年もの間、あの帝都からの派遣員と、ずっとこんな関係を続けている。

 最初はどうだったろうか、と彼は時々思い出す。あれは、前首相とヘラの情事の光景を見せつけられた時だ。この通路を通って、この官邸の閉ざされた屋根裏に、連れられて行ったのだ。

 だが彼は思う。どうしてついて行ってしまったのだろう。

 あの時、スノウが自分にとって、危険な人間であることは気付いていたはずだった。図書館の書庫で、ひどく自分を試す様なことを繰り返すから、まともに向き合うことを避けるように、自分自身に危険信号を出していた程だ。

 確かにヘラのこともある。だが、それだけなのだろうか?

 闇は駄目だ、と彼はそこまで考えて頭を振る。

 自分が何をどう思ったところで、相手は、自分を駒として考えているのだろう、とテルミンは思う。おそらくは、自分の前にも、何かと手を打っているはずなのだ。この男は。

 それがどんな手であるのか、何となくおぼろげに見えてきた様な気はする。だが決め手は無い。

 そしてまた、それを知ってどうする、という気持ちもしていた。知っていた方がいいのは判っている。派遣員が不意に方針を変更した時にも、自分やヘラが生き残るためには。

 なのに、それを知ろうとすることを、ずるずると引き延ばしている。

 この気持ちには覚えがあった。だが、それが何だったのか、彼には上手く思い出せないのだ。

 彼は立ち止まり、ふう、と息をつく。

 するとふと、彼の耳に、ほんの僅かに、くすぐるような笑い声が聞こえた。

 何だろう、と彼はその声がする方に耳を傾ける。それは、壁の向こうからだった。彼は頭の中でこの官邸の配置図を思い浮かべる。その壁の向こうは、彼の唯一の上司の私室であるはずだった。

 かつてこの部屋の上で、彼はあの姿を見、派遣員と関係を持ってしまったのだ。

 そのかつてはゲオルギイ首相の私室だったそこを、現在はヘラが使用している。この官邸の主の部屋だ。なのに、そういう部屋に限って、壁や天井が薄かったりするのだろうか。テルミンは一度調べなくてはな、と思いながら、そこから立ち去ろうとして、―――はっと足を止めた。


 こんな時間に、笑って?


 ヘラは朝決して強くはないのだが、夜とてそうそうだらだらと起きている訳ではない。かつてと違い、夜は眠るための時間であるはずだった。

 それに、一人で笑い転げるというタイプではない。それは五年以上も側に居れば、彼もよく知っている。


 ―――誰か、居るのか?


 気が付くとテルミンは、あの道へと足を向けていた。いつも暇ができると人目を避けて陽の光の中でまどろむ螺旋階段を上り、通路と同じくほこりっぽい部屋の扉を開けた。

 窓の外からは、衛星の光が冷たく入り込む。彼はライトをしまい、衛星の光だけで、そっとあの穴のあった場所まで音のしないようにゆっくりと近づいた。

 夜で良かった、と彼は思う。昼間着る服ではないが、それでもこの部屋の床に積もっているほこりにまみれてしまう自分の姿はそう好きではない。

 そして彼はあの時の様に、床に空いた穴から下をのぞき込んだ。


 あ。


 声が出そうになる。


 何で。


 彼は両手で、自分の口を強く塞ぐ。そうでもしないと、叫んでしまいそうだった。


 何故彼が。何故彼らが。


 自分の目が、信じられなかった。


   *


 はあ、と大きな息をついて、その細い腕が、ゆっくりとシーツの上に落ちていく。相手の大きな手が、汗をかいた額についた、やや長めの前髪をかきわける。

 大丈夫? と相手が訊ねる。何が、と―――


 ヘラは、問い返した。


 そしてその一度力を無くして落とした腕を伸ばし、相手の首を抱く。


「そんなふうにな、すぐに離れるってのは、女の子に嫌われるんだよ?」

「だけどあんたは女の子じゃないでしょ」


 やや高めの声が、「総統閣下」であることなど全く意にも介さない様な口調で返す。


「ああ言えばこう言うんだな、この科技庁長官は」

「総統閣下が、そういうこと言うなんて、誰が考えるでしょ」


 よいしょ、とケンネルは相手の腕をていねいに自分の首から外した。


「そもそも、あんたがそうくるとは、俺全く思わなかったもんね。いきなり『暇ならしよう』なんて、誰が?」

「俺のすることに、文句あるの?」

「ありませんね。総統閣下」

「やな感じ。お前テルミンの友人にしちゃ、ひどく性格悪いじゃないの?」

「テルミンは性格がいいでしょうね。俺なんかよりずっと。あんたの事がずっと好きだし」

「判ってる、けどさ」


 よいしょ、とヘラはゆっくりとその場にうつ伏せになる。


「けど、テルミンは俺を抱きたい訳じゃない」


 ふうん? とケンネルは近くに置かれた服の中から煙草を出そうとした。それを見たヘラは吸うなよ、と短く釘を刺す。


「あんたも吸うでしょうに」

「俺もう半分眠いの。寝る時と眠ってる時に吸われるのすごい嫌いなんだよ。だから吸うな」


 へいへい、と肩をすくめ、ケンネルは出しかけた煙草をしまった。


「それで? どうしてそんなこと、判るの?」

「別に、奴が手を貸すと言った時に、奴がそうしたいと言うなら、俺はしても良かった」

「そうなの? テルミンの話じゃ、何か嫌なことはてこでもやらん、って感じだったけど」

「そりゃそうだ。でも生きてく時には別だ」

「それで、ゲオルギイ首相の愛人をしてたんだ」

「よく知ってるじゃないの」

「あいにく、記憶力いいんだ。頭いいの、俺」


 何を言ってる、とヘラは相手の額をべし、と打った。


「でも科技庁長官だもんな。今何進めてるの」

「総統閣下の命令って聞いてるけど?」

「俺が知る訳ないだろ。テルミンはお前に何を依頼したの」

「へえ、奴は言わなかったの? 二つあるんだけど。一つは、クローニング。もう一つは、パンコンガン鉱石のこと。結局やることは、ライに行く前と全然変わってないね」

「へえ、そんなこと昔からやってたの。クローニングって、アレだろ? 人間の複製。そんなことして、何するつもりだった訳?」

「前の首相閣下の時、影武者を作れ、って依頼があったのよ。研究所に。簡単に言ってくれるよね、と思ったけど」

「で、できた訳?」


 肘をついて反り返す様に身体を少し起こしたヘラに対し、ケンネルは首を横に振る。


「そう簡単に出来る訳がないでしょ。一人の人間を作るんだよ? まあ百歩譲って、外見は同じものができたとしても、中身はそうも行かないだろうし。記憶の移し替え、なんて、そう簡単できないし。だいたい『移し替え』たところで、それはおんなじ人間?」

「まあそうだよな」

「俺はだからそっちには熱心じゃなくて。鉱石の方ばかり結局見てる様になっちゃったんだけど。そしたら、ライに送られちゃったんだけどさ」

「……ライか」


 ヘラは、ふと目を伏せた。


「俺も下手すると、行ってたところだ」

「ふうん、そうなの」

「ふうん、で済むあたりが、ケンネルはいいね」

「だってそうでしょ。あんたはここに居るんだし」

「でも、行く可能性はあったよ。そうじゃなきゃ、あの広場で血塗れになって転がっていたか。結局はここに居るのは、お前の言う通りだけどさ。でも、もしかしたら、ライに送られたかもしれない奴ってのが居て」

「ふうん?」

「いつか探そうか、と思ってたら、一斉に脱走したって言うし。もうそれっきり。俺は探すことができない」

「それは、総統閣下の、好きな人だった訳?」

「どうだろ」


 肘を伸ばし、再びその顔はシーツの中に埋まる。


「ライは、どういうとこだった訳? ケンネル」

「どういうとこって――― 寒かったよ」

「どのくらい?」

「めちゃくちゃ。外に出てオシッコしたら、そのまますぐに凍り付いてしまうくらい。吐いた息がそのまま白く粒になって落ちてくくらい。……防寒具無しで放り出されたら、間違い無く死ぬくらい」

「へえ。そういうとこだったんだ」

「そういうとこだよ。あるものと言えば、たくさんの鉱産資源と、パンコンガン鉱石くらいなもので」

「俺結局、パンコンガン鉱石って、どういう価値があるのか、よく判らないんだけどさ」

「でもあの時、あんたは帝都相手に上手くやっていたじゃない」

「あああれは、決まってたんだよ」


 あっさりとヘラは言う。


「俺は、所詮傀儡だ」

「ふうん?」

「ライから脱走した奴のことだって、そうだ。テルミンなら判ると思うけど、俺にはさっぱり判らない」

「だったらテルミンに探させればいいのに」

「誰を、って言う?」

「誰なの?」


 ケンネルは半分伏せたヘラの目をのぞき込むようにして訊ねる。


「俺の、友人」

「友人」

「相棒。俺の、一番楽しかった時期を一緒に過ごした、戦場での相棒だった」

「戦場に、いたの? あんたは? 首府警備隊だったって聞いたよ俺は、テルミンから」

「その前があるんだよ。それはテルミンは言わなかった訳だ? 俺は元々、何ってことないただの兵士に過ぎなかった。ほらあるだろ? 地方の貧乏な子沢山の家の何番目かのガキは兵隊になるって。俺のとこはそう多い訳でもなかったけど、食ってくのに精一杯の場所だったね。おまけに見かけがこれだ。それがましかどうかも判らなかったけど、俺は住んでたとこよりはましか、と志願兵になった。そしたら結構性に合ったようだね。この外見に騙されて、見くびった奴らを俺は蹴散らして行った。それはずいぶん楽しいことだったね」

「へえ。そう言えばあんたがあの首相の暗殺現場で犯人と戦って勝ったんだっけ」

「身体がなまってはいたけど、あの程度なら大したことはないさ。俺はそんな中でやっぱり同じ様に出てきたそいつと出会った。何でかな。そいつも俺も下手にそういう趣味の奴から目をつけられてたからかな。妙に気が合って、一緒に命令違反なんかもして、それで激戦区から生き残ってきたりもした」

「そういうこと、してたんだ」

「してたんだよ。さすがに襲ったら殺すぞとマジで機関銃撃ったら誰も手出さないけどさ」


 くくく、とケンネルはそれを聞いて笑った。


「だけどそんな兵士は、普通の隊じゃ邪魔だ」

「そりゃそうだ。軍隊は上官の命令を厳守。そうしなくちゃ作戦には使えないからね」

「そりゃそうだ。だけどそんなこと言ってたら、身体が幾つあっても足りないさ。俺も相棒も、とにかく生き残ることにだけは貪欲だったね。そんなこんなしているうちに、俺達はあちこちの負け近い激戦区にお客の様に行かされる様になった」

「勝てばよし、負けてもよしってか?」

「そ。やっぱりケンネル、頭いいね。勝っても負けても地獄行き、なんてこと、俺がよく言ってたのもその時分で、俺がそんなこと言うから、相棒は、俺のことをヘルって呼んでた」

「それが本当の名じゃないでしょ」

「本当の名をもじってはあるけどさ。まあどうでもいいさ。あの名前は俺は好きじゃなかった。だからあの呼び名は結構面白いと思ったね。だけどゲオルギイはそれをわざわざ女のものに変えやがった。それで言う訳だ『嫉妬深い女神と同じ名だな』何言ってんだバーカ、って感じだったけどさ」


 ぽりぽり、とケンネルはこめかみをひっかく。


「同じバカでも、相棒のほうが、良かった?」

「当たり前だろ」


 あっさりとヘラは言う。



「相棒も、かなりの馬鹿だったけど、でもあれは、天然の馬鹿という奴だったから、ゲオルギイの様な悪意のあるのとは違うさ。時々壊してやりたいと思うほど、天然だったよ」

「壊してやりたいって、思った?」

「思ったね。俺さ、ケンネル、別にゲオルギイが最初って訳じゃあないよ? でも女とやったことが無い訳でもないけどさ。嫌いじゃあないよ、こうゆうことは。ゲオルギイは好かなかったけどさ。あの野郎は、俺にこうゆうことしなかったら、結構いいおっさんだったかもしれないけどさ、何だってそういうこと、考えちゃうんだろね」

「人間ってほら、皆馬鹿だから」

「その中にはお前も入るでしょ」

「そりゃあ当たり前。俺もかなりの馬鹿でしょう」


 くすくす、とヘラは笑った。


「ただあんたに惚れたことは、前の首相閣下も馬鹿だったね、と思うよ」

「だけど、奴は俺の相棒を約束通り生かしてはおいたらしい。それだけは感謝してる。それと奴を陥れたのとは別だけどさ。相棒は、俺が唯一、やりたいと思った奴だからさ。俺が、だよ?」

「へー」


 ケンネルは軽く、だが心底意外そうな顔で、ヘラの方を見た。


「何その顔」

「それさ、聞いてもいい?」

「何を」

「それはさ、あんたが抱かれたいと思ったってこと? それとも、あんたが」

「後の方さ」


 ヘラは当然のことの様に言った。


「そんなに可愛い奴だった訳? あんたのその相棒っていうのは」

「可愛かったね。別に俺より小さいとかそういうのじゃないさ」

「そりゃあそうでしょう」


 ぺん、とヘラは相手の頭を、指を思い切り広げた平手ではたく。


「痛いじゃないの」

「はたかれる様なこと言う奴が悪い。そりゃそうだ。俺の様な美人がそうそう居るかって言うの」

「自分でそんなこと言う?」

「俺は言ってもいいんだよ。俺は総統閣下さまさまなんだから」

「それはともかくとして」

「何でそこではしょるんだよ」

「それはともかくとして、あんたにはその男は可愛かった訳ね。どんだけ図体がでかかろうと」


 そう、とヘラはうなづいた。


「俺だけじゃあなかったさ。でも俺と違って、別に、外見は普通のにーちゃんだったから、本人、何も気付いてないの。俺はさ、こうゆう見かけだから、周りもそういう目で見るし、俺は俺で、そう見られてるってのが判る。だからそれを時には利用してやることもできる。色仕掛けだって使える」

「やられた方は不幸な巡り合わせって訳?」

「お前どの面下げてそんなこと言う訳?」

「こんな面」


 べー、とケンネルは両手で顔を引っ張った。ぷ、とヘラは吹き出す。


「お前本当に科学技術庁の長官?」

「あんたが総統閣下である程度には冗談だよ。それで、その彼氏は本当に、何も気付いてなかった訳?」

「全く。故郷がそういうとこだったんだろうね。辺境から配置換え出来て街の方に出られたら、いい女の子見つけてどーの、なんてすごく真っ当なこと言ってた。自分の資質をちゃんと見つけてからそんなこと言えって言うの。俺には判ってたけどさあ」

「それで、あんたは行動に移した訳?」


 いいや、とヘラは首を横に振る。


「何で」

「俺に聞いたってそんなこと判るかよ。別にさ、俺は気に入った奴には結構適当にやらせてやったこともよくあるし、別にそれがどうってこともないことは知ってる」

「暇つぶしとか?」


 ふふん、とヘラは上目づかいに笑った。


「ま、ね。だから俺は、正直、どーだって良かったんだ。何もかも。滅茶苦茶強烈に生きたいとか何とやら思うことも無かったし、けど死ぬのも馬鹿ばかしいし、俺がそんなとこで死ぬのも嫌だし、そんなの、悔しいやら憎らしいやらあるから、前線では何とかして生き残ってきて、気が付いたら、何かやけに強くなってた」

「ふうん」


 ケンネルはそう言って、細い腕を取る。


「そうは全然見えないけど?」

「お前一人くらい、すぐに殺せるけど?」


 くくく、とヘラは笑う。


「それも、面白いけどな? 総統閣下、ご乱心か」

「心にもないことを。よせよせ。殺すよりは、お前にはキスする方が面白い。跡がすぐつくし」

「それはどうも」


 そして言葉の通りに、ヘラは相手の頬にキスを落とす。


「それで、その相棒は、どう可愛かったの?」

「何って言うか、馬鹿だったよ」

「へえ」

「頭はいいんだけどさ、時々それが変に空回りしてすべる。考えすぎて、簡単なことまで難しく言ってしまったりして、周囲をしらけさせる。だけど本人はひどく真面目で、俺はそういう奴を本当に馬鹿だなあと思いながら見てる訳だ」

「何かその図が目に浮かぶね」

「だろ? なのに、あの馬鹿は、銃を取らせると本当に滅茶苦茶強い訳だ。この落差に皆訳が判らなくなる。言葉はいつも的を外してたのに、銃の的は外さない。それでいて、人を殺すのが大嫌いで」

「それでよく生き残ったね」

「人殺すのが嫌いだから、銃の腕が上手くなったんだよ」

「と言うと?」

「とにかく足とか手とか、じゃなかったら持っていた銃しかし狙わなかった。致命傷になる頭や心臓や腹はとにかく避けてた。それで動きが止まったら、とにかく後はすばやく動いて、次へ次へと足を進めていた。俺なんかとは違う」

「あんたはどうだったって言うの?」

「俺?」


 ヘラは目を伏せる。


「俺は別に。自分が生き残るのが一番なのに、そんな、人のことなんか考えてられるか。足を撃たれても、手が銃の引き金を引くかもしれない。手をやられても、口で手榴弾の信管を抜いて道連れにされることだってあるんだ」

「容赦なく」

「そう、容赦なく」

「怖いね」

「そう、俺は怖いんだよ」

「そんなあんたが、どうしてゲオルギイ首相を殺してでもここを出なかったか、俺は疑問に思ってもいい?」

「いいよ。でもお前その理由は判るんじゃない? 頭いいんだから」

「あんたは、相棒の行方を気にしていた?」

「ああ」


 あっさりとヘラは言った。


「ライに行ったかもしれない、とは思っていた。追放だったら、それはそれだけでもいい。だけどライに行ったんだったら、俺が何かした結果で、奴がそっちで殺される可能性はあった。だから、それはしなかった。お前の言う通り、俺はゲオルギイを殺して、ここから脱走することくらい、できたさ。難しいことじゃない。ここの建物がどんな作りになっているかも、俺はよく知ってる。伊達に長い時間を暇ひまに過ごしてきた訳じゃない。俺はこの壁の向こうに通路があることくらい知ってる」

「へえ、そんなものあるんだ」

「屋根裏もある。地下室もある。何かよく判らないけど、格納庫まである。一体いつの誰がそんなもの作ったか知らないけど、そんなものを利用すれば、逃げ出すのは難しくはない。過信してる訳じゃないさ。俺は、知ってるんだ」

「だけど、逃げ出さなかった」

「馬鹿じゃないかって、俺も思うけどさ」

「……本当に、馬鹿だねえ」

「だけど、仕方ないだろ?」


 ふっ、とヘラは笑う。ケンネルはすっと手を伸ばすと、指先で、相手の頬に触れた。


「でも、あんたは、そいつと結局寝たことは無いんだろ?」

「そうだね」

「損したって思わなかった?」

「思ったよ」


 指は、ゆっくりと頬から耳へと移動する。少し大きめの、だけどそれ自体が何処か奇妙に顔にアクセントを与えている耳に、ケンネルはゆっくりと触れる。


「あんなことに、なるなら、よっぼど前に無理矢理でもやっちまえば良かった、って思ったね」


 ケンネルは苦笑する。


「想像ができないよ、俺には」

「俺にだってできない。だから結局できなかったんだと思う。奴が、俺をそういう目で少しでも見ていりゃ、俺も何とかしようがあったかもしれない」

「ふうん。至極真っ当な奴だったんだね」

「失礼だね、お前」

「まあそれはおいておいて」

「……おいておいて、かよ。……!」


 耳をゆっくりたどる指が、その裏側に一瞬力を込めた。


「しごく真っ当な奴、でもさ、あんたには負けると思うけど」

「俺だって思ったさ」


 ヘラはその手を払おうとする。だがそれは逆に相手に自分の手を掴ませてしまう結果となる。


「でも、三年、そうだった。結局俺には何もできなかった。そうした時、俺と奴の上手く行っていた関係は終わると思ってた。奴は俺がそういう奴だ、って知っていたのかもしれない。だけど、俺から言うことはできなかった」

「好きだったんだねえ」

「そうだよ」


 力を込めて、ヘラは言い放つ。


「本当に、そうだったんだよ。俺にはさ」

「テルミンが聞いたら泣くようなセリフだね」

「全くだ」


 そして起こしかけていた身体は再び沈んだ。


「奴は、あんたにこうゆうことしないんだ」

「不思議なくらいに」

「何でだろう? 俺だったらすぐに落ちる」

「そうだよな。あっさりとお前、落ちたし」

「落ちない方がおかしいよ」

「奴には、他の誰かが、居るからさ」

「それは、あの放送局の監督さん?」


 いいや、とヘラは首を横に振った。


「違う、と思う。誰かははっきりとは判らないけど、奴は」

「あんたでも、判らないの?」

「予想できないことはない。だけどテルミンは、俺に言わないことがたくさんある」

「信用できない?」

「信頼はしている」


 なるほど、とケンネルはつぶやいた。


「奴は、知ってるはずなんだよ? ケンネル。俺があの時の、クーデターの25人の中に入っていて、処刑されたのが23人。そんなこと、奴は何処からか探してきて、俺をけしかけた。俺を自由にしてやりたいって気持ちは判るよ? 俺も馬鹿だけど、その程度には判る。だけど、じゃあ、何で俺が、そのもう一人と関係があるって、気付かないんだ?」


 それは、とケンネルは言葉に詰まった。


「俺のことを思うなら、どうして、俺がここに居続けたのか、気付くはずだろうに? なのに、奴はライに当時送られた人間のリストを挙げることもしなければ、俺にほのめかすことすらしない。その部分にフタをして、隠しているつもりだ。それが俺が自由より欲しかったものだって言うのに。でも、ライでは、集団で脱走した、って知らせが入った。俺はゲオルギイを生かしておく理由が失せた」

「……本当に、怖いひとだね」

「さっきから、言ってるだろ? 俺は怖いひとなんだよ?」

「ふうん。じゃあ、これは何?」


 つ、とケンネルは相手の目のふちに指を軽く触れる。乾いた感触にヘラは反射的に目を細めた。


「……知らない」

「ふうん」


 そう言って、ケンネルは指についた液体をぺろ、と嘗めた。


「塩辛い」

「……意地悪だなあ」

「俺は意地悪よ。テルミンと違って。ねえ、もいちどいいかなあ?」

「俺は眠い」

「別に、寝転がってるだけでもいいよ?」


 呆れた、という様に、ヘラは肩をすくめた。それを了解ととったのか、ケンネルは再び相手の華奢な身体を抱きすくめた。そして目を伏せる相手の端正な顔のあちこちを、軽くついばむ。くすぐったそうな顔をしてるが、決してそれは嫌ではないらしい。


「結局、俺が奴にできたのも、その程度だったなあ」

「そうなの?」

「俺がゲオルギイの条件を呑むことを了解して、奴が一般の政治犯と同じ扱いを受けて記憶処理を受ける前だった。一度だけ会わせてやる、って俺は奴が捕まっていた独房に連れていかれて、五分間だけ、とかそんなふうに言われて二人にされた。でも五分で何ができる?」

「五分で、ねえ」

「今更その場に及んで、お前が好きだったどうしても好きだったしょうもなく好きだった滅茶苦茶にするくらい抱きたかったとか言ったところで、奴は訳判らなかっただろうと思う。だいたい奴も結構な取り調べの中で、疲れ果ててた。俺もそんな奴の姿見たら、結局言いたい言葉の一つも見つからなかった」

「そういうもの?」

「そういうものだよ。俺達はずっと、お互いがそんな姿になることなんて、想像もしてなかった。俺達は二人で居れば無敵だった。そう信じていた」


 ヘラはそう言うと、言葉を切った。


「でもそれは、俺が勝手に思ってた幻想だった」

「そう思うの?」

「無敵の筈の俺達が、結局足元を救われたのは、馬鹿馬鹿しい、絶対成功するはずのないクーデターに『居合わせた』それだけのことだよ? あんな、首府警備隊なんて、頭でっかちの馬鹿ばっかりってことに気付かなかった。それが俺達の敗因だ。どんな悪条件の戦場でも生き残ってきたのに、俺達は、そんなとこで、自軍から殺されそうになったんだよ?」

「俺が、首相のクローン研究を提示された頃だな」

「皆、馬鹿ばっかりだ」


 吐き捨てる様に、ヘラは言った。


「結局俺は、何もできなかった。言う言葉も見つからなかった。言いたくても、何も言えなかった。胸が詰まって何も言えない、なんて、俺は信じてなかったけど、さすがにその時、そんなことがあるんだ、と思ったね。悲しいんじゃなくてさ、ひどく悔しかったんだよ? 俺は」

「悔しかった?」

「何で、こんなことになるんだったら、本当に、少しでも、奴を何とかできなかったんだろう、って自分自身が情けなくて、俺達を追い込んだ馬鹿どもが憎らしくて、それでいて、そんな馬鹿どもに足をすくわれた自分が情けなくて。もう何も言えなくて、ぼろぼろ、涙が落っこちてくのを見てるんだ。俺は驚いたよ。自分の中に、こんなにたくさん、涙があるなんて知らなかった」

「へえ……」

「そうこうしているうちに時間が来る、って言うから、俺はもう、どうしようもなくて、奴の首をいきなり抱えて、思い切り強くキスしてやった。血の味がした。まだ覚えてる。口の中が切れてたんだ。唇の端の、腫れた熱やら、口の中の傷跡だとか、そんなのが、未だ思い出せる」

「それで、そのひとは、あんたの気持ちに気付いたの?」

「さあ。ひどくびっくりした顔はしていた。でもその後に待ってたのは、記憶処理だよ? 何が残るって言うんだろうね? 気付いても、それで、そこで終わりだ」

「それでも、生きていて、欲しかった?」

「もちろん」


 ヘラは断言した。


「別に、そういう風に好かれなくても、どうだってよかった。俺は奴という馬鹿が、ひどく好きだった。だからあれが死ぬのは、嫌だった。それだけ。それだけだよ」


 うん、とケンネルはうなづく。そしてその続きは言わせなかった。



 くらくらする頭を抱えながら、テルミンは螺旋階段を降りた。

 二人が何を喋っていたかは、高い天井の上の彼には聞こえなかったが、それでも、普段自分と話す時の様子とは、明らかに違っていたことは確かだった。

 あの時とは、確実に違う。ゲオルギイにそうされている時のヘラは、そんな時間が過ぎてしまうのをただ待っているだけの様に見えた。彼は、そんなヘラの姿を見て、自分の中で何かが目覚めてしまったことを知ったのだ。

 だが今さっき見たあの姿は。

 いつの間にそうなったのか、友人と絡むヘラの姿は、ひどく楽しそうだった。息が止まりそうだった。そんな光景がある訳ない、と彼は思っていた。

 だが、何故そんなことを思っていたのだろう、と彼はだらだらと流れる脂汗を拭きながら思う。

 ヘラは、そうあるべきだ、と自分は思っていたのだろうか。

 気持ちわるい、と彼はふらつく足で通路を歩きながら、思わずみぞおちの部分に手を当てていた。


 どのくらいそうやって歩いていただろう? 気が付くと、彼の足は、通い慣れた場所へとたどり着いていた。

 スノウの部屋の隠し扉は、サイドボードの裏にあった。横滑りするそれをやっとの思いで動かすと、彼はそのまま、慣れた場所へと倒れ込んだ。

 シーツの冷たさが頬に気持ちいい。彼は靴を脱ぐことも忘れ、そのまま睡魔が襲ってくるのに身体を任せていた。


 闇の中で、目が覚める。

 窓から差し込む衛星光だけが、冷たい色で窓枠のラインをカーテン越しに床に映しだしている。

 毛布の感触で、彼はいつの間にか、靴も服も、その身体からは外されていたことに気付く。そして横には、慣れた相手が居た。

 相手もまた、眠っていたようだった。服はともかく、特に何かされた様子は無いことに気付くと、何げなくこの相手の顔に視線を移した。

 こんな顔をしていただろうか、とふと彼は思う。そう言えば、真正面から相手の顔をきっちりと見据えたことが無い様な気がする。五年も、こんなことをしているというのに。

 五年。ヘラと出会って、この男と出会って、もうかなりの時間が経っている。

 なのに、自分は一体何をしているというのだろう。

 少なくとも、あそこでヘラで出会わなかったら、自分はずっと、未だただの佐官止まりで、それでも満足して、日々を過ごしていただろう。それはそれで悪くなかったかもしれない。だがヘラと出会ってしまった。それで何かが変わってしまった。それもまた、決して自分の中で間違ってはいない、と彼は思う。


 だけど。


 二つの光景が、彼の中に鮮明に蘇る。


 俺は、何で彼を助けたいと、思ったんだろう?


 あの時。ゲオルギイ首相の下で何処ともなく、視線を飛ばすヘラを自由にしてあげたかった。それだけだった。それがヘラの望みだと思っていた。

 だが、それは本当に、そうだったのだろうか。

 今更の様な疑問だった。そしてそれは、テルミンがずっと自分の中に、蓋をしてきた疑問だったのだ。


「どうしたの」


 はっと気付くと、相手の目が開いていた。腕が掴まれる感触がある。彼はそのまま力を抜いて、相手の側に倒れ込む。


「いきなり倒れ込んできたから、何だと思ったよ」

「俺は……」


 スノウの手が、シーツについていない方の頬に触れる。何で、その指の感触が心地よいのか、彼には判らなかった。

 その指が、傷一つない乾いた感触だったせいなのかもしれない。思っていなかった程、暖かかったからかもしれない。

 彼は思わず自分の喉を押さえていた。こみ上げてくるものがある。吐き気ではない。それは当の昔におさまっていた。そうではなくて。

 う、と声を上げていた。彼は思わず自分の口を塞ぐ。だけど、止めた声は、喉に詰まって、背中を痙攣させる。止めてしまいたい。だけど止まらない。どうしようもなく、自分では止めることができないのだ。

 ふと、口を塞ぐ自分の手に、暖かい液体が落ちるのを感じる。彼は思わず手を外し、顔に両手を当てる。何だこれは。

 そして、外してしまったら、止まらなかった。今までに聞いたことの無いような、裏返った様な声が、喉からあふれて止まらない。目が熱い。次から次へとひっきり無しに涙がぼろぼろとこぼれて、止まらない。息が苦しい。胸の何処かが、痙攣してやまない。誰か。誰か止めてほしい。

 そして思わず、目の前の相手にすがりついていた。

 相手の腕が、強く自分を抱きしめるのを彼は感じていた。その他のことをする訳ではない。ただじっと、抱きしめて、いるだけだった。

 だがその感触が、ひどく心地よい、と彼は思った。不思議なくらいに、自分でも判るくらいに、ゆっくり、だけど確実に、胸の中の痙攣が、治まっていく。喉の仕えが、ゆっくりと消えていく。

 だけど、そのたびにあの光景が浮かび、そしてまた、こみ上げるものを感じる。目から涙がこぼれる。

 お願いだ、と彼は思った。

 まだ、時間がかかる。このまま、こうしていてくれ、と彼は思った。

 だが言葉にはできなかった。言葉を出そうと思うと、胸が詰まる。ひっくり返った声は、言葉にならない。

 何がショックだったのだろう、と彼はかろうじて生き残っている冷静な部分で考える。その部分を働かそう、と必死で考える。何で俺は。

 しかし答えは簡単に出る。


 結局俺は、ヘラにもケンネルにも、信用されていなかったんだ。


 ヘラからは、そんな気がしていた。望んでいた訳では無い。欲しかったものではある。信用は。信頼は。

 だが、求めることはしなかった。

 それでいいと思っていた。

 自分はただ、ヘラが、自由に振る舞える場所を作ってやることができたら、それで良かったのだ。そんなヘラを見ていることで、幸せだったのだ。

 なのに。

 あの時のヘラの表情は、そんな今までの彼が見てきた総統閣下の姿より、ずっと楽しそうだった。

 彼が見たいと、思っていたものだった。自分の手で、そんな場に置いてあげたいと思っていた、そんな表情だった。


「俺の……」


 やっとのことで開いた喉が、そんな言葉を絞り出す。


「俺のしてきたことって……」


 すると相手はその口を塞ぐ。そしていつもより深く、長く、それを続ける。

 生ぬるい感触が、頭の中のなけなしの理性を塗りつぶしていく。考えたくない。考えたくない。考えたくない。

 今日したことを考えたくない。また明日には、違う日が始まるというのに。また始まってしまうというのに。

 どれだけ今日の自分が嫌でも、明日また目覚めなくてはならないというのに。だったら考えるのを止めてしまおう。眠ってしまおう。だけど眠れない。眠れないんだ。

 陥れた者達の顔が、浮かんで離れない。ヘラにどうしても言えないことが、貼り付いて取れない。

 判っている。最後の一人が居るんだ。殺されていない、最後の一人が。何でそいつは殺されなかった? 今何処に居る? そんなこと、俺の今の力だったら探すことは簡単なのに。考えたくない。どうしても、考えたくないんだ。


 だって。


 テルミンは思う。決して言葉にしなかった、一つのこと。


 見つけたら、ヘラさんあんたは、そいつと何処かへ行ってしまうじゃないか。


 恐れていた、それはたった一つのことだった。

 ヘラと直接こんな関係を持とうと思ったことは無かった。ただ、一番そばに居るのが自分でありたかった。それだけだ。それだけだった。

 だけどそれは自分の幻想だった。

 はじめから、自分は一番などではない。

 考えると、また嗚咽が止まらなくなる。そしてそのたびに、相手はそんな自分の口を塞ぐ。考えるな。明日生きてくために。それは自分の望んだことだった。

 テルミンはふと目を大きく開けた。至近距離の相手の顔が、くっきりと視界に入る。


「……スノウ」


 どうしたの、と相手はその目で問いかける。その問いに、彼の唇は自然に、ひどく自然に動いた。


「あんたは、俺のこと、好き?」

「ああ」


 相手は、当然のことの様に答える。


「嘘」


 テルミンはそれもまた、当然のことの様に返す。


「君がそう思うなら、そう思えばいい。私には嘘を言う理由はない」


 彼は首を横に振った。


「……もう、いいよ」


 そして彼は、笑おうとした。だが、どうしても、それが上手くできない。口もとばかりが上がっても、どうしても、目が、上手く笑えない。


「もう、いいんだ……」


 寒気がする。背中から、ひどく、冷たい何かが、身体の芯に向かって広がっていく。


「……眠りたいんだ…… 眠らせて」


 彼は目を伏せる。だから相手の表情も判らない。ただ、いつもの様に、自分を疲れさせ、思い切り、何の夢も見ない程に眠らさせて欲しかった。


「頼むから……」


 相手の表情は、判らない。

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