7.RAY826.10/脱出希望~都合よしスペースジャック~最初の雨

 それでも、と彼はつぶやいた。


「何?」


 相棒は、そんな彼のつぶやきを耳聡く捉えて訊ねる。


「いや、それでもこの惑星が懐かしくなることがあるのかなって」

「無い無い」


 リタリットはひらひら、と両手を振った。


「もっとも、この半年ばかりは別だけどね」

 目の前には、巨大な輸送船があった。それは元々、この地で採れた鉱産資源を運ぶ船だった。



 彼ら流刑惑星ライに収容されていた政治犯達は、「夏期」であるうちに、この惑星から脱出することを計画した。「夏期」は案外長い。共通時間で約十ヶ月がこの惑星の、公転全体から見るとひどく短い「夏期」に当たっていた。

 無論「夏期」と言ったところで、普段が氷点下20℃30℃といったこの地での「夏期」であるから、せいぜいがところ、最も気温が上がったところで、氷点下行くか行かないか、というところだった。

 だがそれでも、彼らを奮起させるには充分だった。ちょっとしたきっかけが、元々手練れな者が多かった彼らを、この場所の占拠という行動に移らせた。

 管理する側の油断も確かにあったが、結果が全てである。この地での力関係は逆転した。

 そして解放された政治犯、総計238人は、団結して母星であるアルクへ戻るための算段を始めたのである。

 238人。あれだけある収容所の部屋の中で、結局使われていたのは、20位に過ぎなかったのだ。

 誰が言い出した訳ではないが、この「きっかけ」を作った房の者達は、周囲を率いていく形になってしまった。必然的に、その房のリーダー的存在であったヘッドが、全体を統率することになってしまったのである。

 参ったなあ、と言いつつも、ヘッドはその位置に責任が伴うことは知っていた。そしてまず起こした行動は、この収容所内の、看守以外の職員の処分である。

 看守たる兵士以外にも、この収容所には無論、職員という者がいた。例えば、食堂を取り仕切る、調理長アフタ・ラルゲンと、その部下の料理人達。逞しい腕と、赤ら顔を持ったこのコック長は、事態を正確に把握すると、こう言った。


「積極的に協力はできん」


 なら拘束するまで、と言おうとした彼らを手であくまで冷静に制すると、このラルゲン調理長はこう言った。


「間違えないでほしい。あくまで、立場として、自分達は『無理に働かされたんだ』という形をとって欲しい。そうしてくれるなら、あんた達がこの惑星を脱出するまで、こちらは本星からの食料を今まで通り受け取り、あんた達の食事を作ろう」

「その中に毒を仕込んだりはしないだろうな」


と訊ねるビッグアイズに、ヘッドは首を振った。


「この人達はそんなことはしないさ…… ドクトルK、そうだろう?」

「そうだな」


 穏やかに、そんな声が響く。


「あんた達の作る食事は、一見ひどく質素に見えたけど、いつも見かけ以上の栄養とエネルギーが込められていたことは私にも判った」

「話が判る奴が、居るじゃないか。まあな。俺達は決してここに好んでやってきた訳じゃあない。俺は昔、官邸で料理を作っていた一人だ。だがある時、あの首相の何か気に障ったらしく、左遷されてここにやって来たんだ。俺も一応軍属には違いないからな。だが未だにその理由って奴が判らないし、理解できない」

「つまりあんたも、ある程度は不満分子だった、ということか?」


 ヘッドは訊ねた。


「俺だけじゃない。こいつらだってそうだ」


 ラルゲン調理長は部下達を指で示す。


「皆、何らかの理解できない理由で、ここに送り込まれてきた。確かにあんたらよりはずいぶんとましな待遇だったが、こんな所に閉じこめられているという点では、俺達も大して変わりやしねえ。だが、かと言って手のひらを返した様に、あんた等に荷担はできん。判るだろう?」

「家族が、母星に居るんだな?」

「ああ。そうだ。一応これでも軍属である以上、指定の口座から、俺の給料は家族の生活費として引き出されているはずさ。だから、俺はここであんた等に荷担することはできない」

「あくまで、あんた等は、俺達に脅されて作業をすると」

「そうだ」


 信じていいのか、信じるべきだ、と周囲の声は、それぞれ勝手なことを口走る。食堂に設けられたこの会見の席は、一瞬にして大騒ぎとなった。


「おいちょっと黙れ」


 ヘッドはまだ完治していない足を杖で支えながら、食堂に一斉に集まった政治犯達をぐるりと見渡した。


「信じるか信じないか、だが、まあ個人の考えとしてはどっちでもいい」


 お? とその言葉を聞いて、BPは両の眉を上げた。

「ただ、一つ考えて欲しいのは、とりあえずは、すぐに俺達もここから脱出できるという訳ではない。それがいつになるか判らない。その間に、何度か母星からの輸送船が来る可能性がある訳だ」


 その輸送船を乗っ取ってしまえ! という声が所々で上がる。


「ちょっと黙れよ。そう確かにいつかは、そういった輸送船を奪って脱出はする。だが、食料などの輸送船の大きさはたかがしれているだろう?」


 彼らは顔を見合わせる。時々やってくる食料の輸送船は、作業中の雪原や、格子ごしの空からよく見たものだった。


「一度じゃ無理だ。だが、一度行って、その時脱出が発覚したら、次の便はどうする」


 急に一同は口をつぐんだ。確かにそれは考えられるのだ。


「では、ヘッドはどういう脱出方法を考えているのだ」


 誰ともなく声が上がる。


「俺は、採石船を乗っ取ろうと思っている」


 そしてまたざわめきが、辺りを支配する。


「あれなら、ここに居る全員が乗ることができる。多少環境的には問題があるが、広さに関しては問題がない。ただ、次の採石船が来るのは、まだ間がある。確か……」


 ヘッドは調理長の方を向いた。


「9月だ」

「そう9月。政府はこっちの採掘するパンコンガン鉱石は確実に必要だし、他の鉱産資源だって全く不必要ではないのだから、回収に来るだろう」


 なるほど、と多くの者がそこでうなづいて見せた。


「で、それは確実に、成功させなくては、ならない。調理長は、その時まで協力してもらえば、後は、我々に強要された、と我々の脱出を通報すればいい。ひとまず囚人もいなくなることだし、とりあえずあんた等も、郷里に戻れるんじゃないか?」

「そう上手く行けばいいですがね。とにかく、今の時点では、あんた等についた方が、お互いにとって得な訳ですよ。だから半年ばかり、あんた等に協力する。それでいけませんかね?」

「充分だ」


 そうヘッドは言い、少年のようににんまりと笑った。

 その半年ばかりの間、で彼らは、次のことを考えなくてはならなかった。



 次のことを既に考えていた者も居る。


「ちょっとつきあってくれ、BP」


 そう言って、彼に車の運転を頼み込むのは、地質学者ジオの呼び名を持つ男だった。軍用車はそれまでに乗っていたものよりずいぶんとましなものになっていた。だがそうなってみるとまた今度は、そうそう運転できる者がいなかった。そういう時に、軍用車に対する勘が優れていた彼は、あちこちで引っ張りだこだった。

 鉱石採取はまだも進められていた。ただし今度は、今までとは目的が違った。この惑星には豊富な鉱産資源、その中から、脱出してのちの行動に役立つ資金に、すぐさま替えられる、貴金属…… 

 ひらたく言えば、宝石の採掘に彼らは取り組んだのだ。

 無論それまでも、宝石の存在は皆それなりに知っていた。だが掘り出したからと言って、自分のものにみならない宝石の、何が楽しかろう? 自然、その採掘量は、他の掘り出しやすいものよりも少ない。

 だが、今度は自分が関係するのだ。純粋に自分のもの、にはならないかもしれない。だが、分けられ、ある程度自分のものにはなるだろう、という予想が立てられれば、やる気も出るというものだ。


「このあたりは、どうやら紅玉ルビーが埋まっていそうだな」


とジオは車を止めると、機材をのぞき込み、地図に何やら書き込む。


「詳しいね、ジオ」

「記憶は無いが、僕の知識は、この方面に偏っていたからね。たぶん、何かしらの研究に関わっていたか、直接そういう仕事をしないでも、そんな企業に居たのかもしれないね」


 ふうん、とBPはうなづいた。


「君は、BP? 皆君は軍人だったらしいって噂しているけど」

「軍人ね。その割にはがらが悪いけど」


 BPはそう言ってへへへ、と笑う。だが彼にしたところで、考えない訳ではないのだ。

 軍人で政治犯。文民統治シビリアンコントロールの原則が確固として存在する母星において、この二つの条件を満足させうる立場は一つしかない。軍事クーデターの犯人だ。


「軍事クーデタ?」


 そしてその話を振ると、ラルゲン調理長は、首を傾げた。


「ごく最近だろ? そりゃ首府で一度あったって話は聞いたけどな。だがその犯人は、皆とっつかまって首府の中央広場で銃殺刑になったってことだぜ?」


 そうだろうな、と彼も思う。軍事クーデターは、逮捕されたなら、実行しようがしまいが、極刑である。これは彼の「知識」がそう告げている。近くの房の「法律屋ロウヤー」と呼ばれる男もそう言った。それにはまず例外は無いという。

 だから、彼は自分に関しては、判らないことづくめだったのだ。能力も知識も、自分が軍人だったことを、これでもかとばかりに突き付ける。だがそう決めてしまうと、その部分がどう考えてもおかしい。


「でもBP、君の相棒に関しては、僕はさっぱり読めないね」

「そうか? 俺は奴は都市型ゲリラか何かだと踏んでるが」

「うん、それは考えられる。だけど、彼の言葉には、時々なまりがあるんだ」

「……なまり?」

「ほんの、わずかだよ。リタリットは、結構茶化した言い方をするから、アクセントとかも時々わざと変えて話しているだろ?」

「……」

「気付かなかった?」

「……気付かなかった…… つまりジオ、あんたは奴が、このレーゲンボーゲンの者じゃないって言うのか?」

「そうとは決めつけていないよ。もしかしたら、星域内でもそういう方言はあるかもしれないし。だけど、何か、何処かであのアクセントは聞いたことがあるんだ」


 BPはしばらく次の言葉を見いだせなかった。


「だが結局、皆こうやって、過去を抹殺されている訳だから、そんなことどうでもいいのかもしれないね」

「ああ」


 BPはうなづいた。だが自分の言葉が妙に力が無いことに彼は気付いていた。

 ジオはそれからは黙って作業を続けていった。

 地質学者の調べる本命は、パンコンガン鉱石だった。この地でしか発掘されない、というこの特異な鉱石は、多数の人間が追うと「逃げる」という特性を持っている。


「この鉱石を調べて、どうするつもりなんだ?」


 宝石だったら判る。それは利用価値がある。しかも早急な。

 だがパンコンガン鉱石の場合、少なくとも、普通の金銭的価値は無い。確かに乳白色の鉱石は、美しいと言えば美しい。だが、それに匹敵するものは他にもある。例えばオパール。


「君には、これが大した価値もないものに見えるかい?」

「難しい」


 BPは素直に答えた。確かにこの鉱石が、帝都とレーゲンボーゲンを結ぶ貴重なものであるというのは判る。だが、さし当たり自分達にはそう関係が無いのではなかろうか。彼はそう思わずにはいられない。


「そう、確かに我々が、ただ戻る分ならね」

「違うのか?」

「君は、BP、戻って普通の暮らしができると思うか?」


 う、と彼は言葉に詰まった。考えたことが無かったのだ。


「僕は、できないと思う。無論できる者も居るだろうが…… 少なくとも僕は、無理だろう。だってそうだろう? いくら表層の記憶につながる道を混乱させられたと言っても、僕は僕だ。それは変わらない。だとしたら、戻ったところで、また、政治犯になるのじゃないだろうか」


 なるほど、と彼は思う。それは一理ある。だがとりあえず彼は、思いとは別の言葉を放ってみる。


「『新しくやり直す』という言葉もあるよ?」   

「確かにね。だがそれは、自分の行動が間違っていた、と反省する時の言葉だ。僕等は反省しようにも、反省すべき過去がない」


 ジオは作業の手を止めた。


「だったら、いっそ、同じ様に考える仲間と、大がかりな反旗を翻すというのもいいんじゃないかな?」

「反乱軍になる、というのか?」

「既に僕等は、そうなんだよ。僕等がどう思おうと。だったら、もっとそうなってしまうというのも悪くはない。無論、もう戦いは嫌だ、市井にひっそりと生きていたい、と思う者に強制はしない。ただ、やっぱりどう考えても、例えば僕の様に、そう考える者は……」

「なるほど」


 BPはうなづいた。確かにそれは悪くない話だ。


「それは、ヘッドも了解しているのか?」

「と言うか、彼がずっと考えていたことなんだ」


 BPは黙って肩をすくめた。なるほどそこまで考えていたのか。あの蜂起してしまった瞬間の落ち着き。それはいつかあんな事態が来ると予想していたからだろうか。


「君だったら、どうする? BP」

「俺ね……」


 彼は車の扉に背をもたれさせ、目を伏せる。

 その目の裏には、あの場面が浮かんでくる。泣いている、誰か。未だにあの顔は、ぼんやりとして判らない。泣いているというのは判るのに。

 自分はあの泣いている誰かに、何か言わなくてはならないのではないだろうか。探さなくてはならないのだろうか。BPは時折考えるのだ。

 ただそれは決していつもではない。例えば眠る寸前、夢の中、ふっと息を抜いた作業の合間に現れる映像だった。決してあの蜂起の瞬間には、現れようとはしなかったのだ。

 大切なものなのかもしれない、とは思う。

 現れる映像は、彼の胸を締め付ける。だがだからと言って、それが始終頭から離れない、という訳ではないのだ。正直言って、繰り返される日常の生活の中、相棒とふざけ合う時、食事、最近毎日の様に繰り返される真面目な会合の中で、その姿は決して現れない。存在すら忘れ果てていると言ってもいい。

 もしもそれが自分にとって大切な人間だったとしたら。おそらくそうなのだろう。

 だとしたら、自分は薄情な人間なのかもしれない。だが、そう考えてしまうことも、また当然なのかもしれない、と思うのだ。

 そこに「無い」ということ。それがどれだけ大切なものであったとしても、忘れることにつながっていく。そしていつもそばに「在る」ということ。

 それが、現在の自分を動かしているのかもしれない。彼は自分の中で、入り乱れる感情に正直、困惑していた。


「それでジオ、だとしたら、パンコンガン鉱石は、どう役に立つんだ? まさか帝都との取引に使うとでもいうのか?」


 彼はあえて話題を逸らしてみる。そんな彼の困惑に気付いたか気付かないか、ジオは変わらぬ口調で続けた。


「そのまさか、だよBP。彼らにしてみれば、誰が政権を取ったところで同じだ。彼らがこのレーゲンボーゲンに求めているのは、このパンコンガン鉱石にすぎない。だとしたら、それに関して多量のデータを持っていた方が勝ちだ」

「それは単純じゃないのか?」

「でも、切り札にはなる」


 ジオは言い切った。そう言われてしまうと、BPはそういうものかな、と思わざるを得ない。彼は自分が身体を使う実戦には強いが、戦略などについては大して使えない人間だということは知っていた。いわんや政治となれば。


「もっともこれは、僕にしたって、ロウヤーや教授プロフェッサーの受け売りさ。ただ僕としては、そういう大義名分がつけば、嬉しいというのが本音。僕は結構この作業も仕事も楽しんでいたからね」


 彼は驚いた。そんなことを考える者が居るとは考えてもいなかったのだ。


「じゃあジオ、あんたは」

「いや、ちゃんと僕も母星には戻るさ。だけどいつかまた、この惑星に戻ってくるかもしれないね。今度はちゃんとした装備をつけて」


 そう言ってジオは笑った。


「だから、僕がそんな重装備でやって来れる様な社会であればいい、と思う。それだけさ」



 ジオだけでない。皆それなりの特性を持った者が、それなりの展望を持っているらしい。特に、ドクトルKやジオ、ロウヤーと言った、何らかの「役割」を呼び名にしている者はそうだった。

 もっとも彼の相棒、「文学者」リタリットはそうでもなかった様だ。

 リタリットが「文学者」なのは、存在そのものが「文学」めいていたからなので、決して何かしら書いていたからではない。

 時々口に出す戯れ言の様な言葉の集まりや、警句の集合などは、書き留めておけばかなり面白いものになるだろう、とBPなどは思うのだが、本人は至ってそういうことには興味が無いらしい。

 そして彼はその相棒にも、疑問を投げかけてみた。


「オレ?」


 リタリットは何でそんなことを、言いたげに目をむいた。


「俺ねー…… うーん」

「前言ってた、あの悪い夢は?」

「やめやめ」


 リタリットはひらひらと左手を振った。


「嫌なことなんて、いちいち探す?」

「だけど、理由が判れば、嫌な記憶では無くなるかもしれないだろ?」

「アレの何処が嫌な記憶以外の何だって言うのよ」


 リタリットは露骨に唇を歪める。顔は笑っている様に見えたが、決して笑っていないことは、彼は知っていた。知っていたから、彼はしばらく黙って相棒の次の言葉を待っていた。そうすれば、相棒は根負けして次の言葉を出してくることは、彼もここでのつき合いのうちに知る様になっていた。

 案の定、くしゃ、と表情を苦笑いに変えると、負けたよ、と言いたげに眉を寄せた。


「でも、知りたいことはあるんだ」

「うん」

「アレが、誰だったのか、それは、オレだって知りたいよ」


 それが誰だったか、というのはあえでBPは訊ねなかった。判っている。地下鉄のホームの上で、手足がちぎれて、血塗れで転がっていた、「誰か」。それがずっと、この相棒の中で引っかかっているのだ。


「そりゃ聞こえるワケじゃないさ。オレのせいだ、と言う声。けど聞こえる様な気もする。実際あの夢の中では、ざわめきは聞こえても、それ以上のものじゃない。けどオレを糾弾する声が、聞こえてきそうなんだ」

「妄想だよ」

「そぉだよ。もーそー。だからオレ、放っておけるもんなら、放っておきたい。オレは今がいい。今が楽で、気持ちがイイ。それじゃいけないのかって思う」


 鍵が掛からなくなり、気温が上がった房の床に胡座を組んだり、壁にもたれたりして、彼らはよく話す様になっていた。

 不条理に耐えるのは、厳しいが、気持ち自体は単純だ。敵が居る状況は、気持ちが楽だ。そういう意味では、戻った自分達が反乱軍になるというのは、一つの方法かもしれない、と彼は思う。自分達には、当座、敵が必要なのだ。


「お前は、リタ、どうする? 戻ったら、反乱軍に留まる?」


 そう言ったら、リタリットは何を当然な、と言った顔で彼を見た。



 そして平穏な日々が、半年ばかり続いた。やってくる食料の輸送船には、「いつもの様に」調理人達が対応するだけであったので、その時だけやり過ごせば、彼らが既に自由の身であるとは気付かれることはなかった。

 船自体、二ヶ月に一度、という割合だったので、全部で3回、ごまかせば良い。その時彼らが注意したのは、使われていなかった三つ目の棟に拘禁している兵士達だったが、その時は、彼らの中でも屈強の者が扉をガードしたので、事なきを得た。

 そして、半年近くの日々が過ぎたある日、彼らは空に大きな船の姿を見た。

 この時ばかりは、兵士数名を通信室に連れ、交信させた。彼らではないと、判らない合い言葉の様なものがそこにはあったのだ。無論そこで兵士達が暗号で救助を求める可能性もあった。しかしそれ以外に方法が無かった、というのも事実だったのだ。


「さて、どうするか」


 ヘッドはずらり並んだ頭脳派達に問いかけた。しかし彼らは、案外その時に答えを出すことはできなかった。そうこうしているうちに、後ろの方で小さくなっていた、キディと呼ばれている、ひどく華奢な少年が、手を上げた。


「言ってみろ」

「……いっそ救助信号を出させたらどうでしょう」

「と言うと?」

「そうなるんじゃないかって怖がるよりは、それを考えて動いた方が楽じゃないかなって思うんですがー」


 何偉そうな、と周囲にキディはこづかれそうになる。だがヘッドはうーん、とあごに手をやった。


「どうした? ヘッド」

「……いや、考える余地はあるな、と。実は諸君、最近、首府の様子が変なんだ」

「と言うと?」


 ヘッドは通信傍受を最近担当している者に話を振った。実際立ち上がったその担当の男は、通信機材や放送機材に対するカンが良かったので、最近は「監督」とも呼ばれているらしい。


「まず、ニュースの様子がおかしいんだ」


 ニュース? と思い思いの格好で聞く彼らは顔を見合わせる。


「俺の知識では、首府で中波を流している局は五つあった。TVは基本的に衛星だから、それこそ全土に何十とあるが、大手は三つだ。中央放送局、東方電波、チャンネル29。で、このライから傍受できるのは、その中の、中央放送局と、チャンネル29。一つだったら、まあ内容が偏っている、と考えることもできるだろうが……」

「同じだったんだ?」

「傾向として。最近、ニュースが奇妙に、首相の動向をクローズアップしている」

「例えば」


 プロフェッサーは興味深げに訊ねる。


「彼が現在、レーゲンボーゲンにおける、最高指導者であることには間違いないから、彼の行動がクローズアップされるのは、そうおかしいことはではないじゃないか?」


 するとディレクターは指を一本立てて振った。


「確かにそれはそうだ。だが、ちくいち、となると別だろう? つまり、それまでは、行事の方が優先された報道のされ方だった。ところが今度は、彼が中心になっている。いくら彼が確かに最高指導者ではあるが、一応このレーゲンボーゲンは、そういう政治形態じゃあなかっただろう?」


 そう言ってディレクターはプロフェッサーに今度は話を振る。


「つまり、君が言うのは、何やら政治形態自体が不穏な動きを見せている、ということかい?」

「ご名答」


 ぱちぱちぱち、とディレクターは手を叩いた。ヘッドはそこまで聞くと、二人からひとまず発言を引き取った。


「つまり、こういうこともある、ということなんだが。俺はもう少し単純に、何やら、今までとは違うきな臭い雰囲気が首府に起きているんじゃないか、と思う」


 そうだな、と皆はうなづきあう。


「それに乗じるのは悪くないと思う。少なくとも、向こうに気を取られている分だけ、こちらへの監視の目は緩くなる。……ああ、無論こちらは、万全の体勢を取りたいもんだがね」


 そしてにやり、とヘッドは笑った。


「で、それじゃあヘッド、オレ達は、堂々と『すぺーすじゃっく』をすればいいのかな?」


 リタリットはひどく古典的な言い回しで訊ねた。苦笑しながらそうだな、とヘッドは答える。


「とりあえず来た船を、こちらから迎え取ってやろうじゃないか」


* 


 簡単に言いやがって、とBPはつぶやいた。この惑星にも、船は全く無い訳ではない。だがそれは非常に少人数が乗る小型艇であり、武器が常備されている訳ではない。むしろそれは、脱出船、と言ったほうが的確かもしれない。

 そして当然の様に、その小型艇の運転をBPは頼まれてしまったのである。車ならともかく、宇宙船だぞ、と彼も反論したが、悲しいかな、船室に入ってしまうと、操縦の仕方が判ってしまったのである。

 一体自分は何をやってきたんだ、とさすがに彼も呆れ果てた。


「まあまあいじけんなよー。オレも行くから」


 そういう問題じゃない、と呆れる程明るく肩を叩くリタリットに、彼は飛ばす言葉を見つけられなかった。

 大型船に関しては、さすがに彼のちょっとしたカン、では大気圏突入や着陸に関して、安全を確信できない。だったら、パイロットをもしっかり拉致して来なくてはいけないだろう。だとしたら、できるだけ早めに。

 そして今度は、BPとリタリットの他に、先日の蜂起の時には、活躍できなかったと冗談混じりに言っていたマーチ・ラビットと、おそらくは都市ゲリラの出身だろう、金色の瞳のトパーズがこの「すぺーす・じゃっく」に加わったのだ。


「いやー、何かオレ楽しくなってきちゃったよ」


 大気圏脱出のGのショックが少し抜けたかと思うと、リタリットはすぐに軽口を叩き出した。その手には、兵士達から押収した銃がある。ただし今回は、実弾ではない。船の破壊と、乗組員の無事を確保しなくてはならなかった。


「……お前をメンツに加えて良かったのか、俺は不安だよ……」


 マーチ・ラビットは太い腕をがっしりと組んで苦悩の表情を見せる。それを見てトパーズは何も言わずににやりと笑った。のんきなものだ、とBPは背中で繰り広げられる会話を黙って聞いていた。

 しかし、深刻になっても仕方が無いことは、彼も知っていた。失敗が許されないことは事実だが、だからと言って深刻になってしまうと、逆に効率が落ちる場合もあるのだ。適度なテンションの高さは必要である。

 ぴ、とその時レーダーから音がする。お、と言ってリタリットはスクリーンに前方の映像を切り替えた。


「あ、あれだ」


 あっさりとリタリットは平面スクリーンの左端を指さす。


「なるほど、結構でかい船だ」

「あれなら皆乗れるな」


 200名以上の人員を、数日乗せて大丈夫な程の船。確かに斜め向こうに見える船は、それに充分だった。


「調理長や、あの連中の話じゃあ、前方に管制室のあるタイプらしいね。で、非常口は向かって右」


 リタリットはそこいらの建物の中身を説明する様に簡単に言う。


「よし、じゃ、始めるか」


 BPも操縦をオートパイロットに切り替え、席から立ち上がると、通信回路を開いた。


「さて俺達の中で、一番演技が達者なのは誰かな」

「オレ?」

「お前じゃ駄目だリタリット! すぐばれる」

「何だよ三月兎マーチラビット! あんただってばれるぜ? そんな図体のでかい奴からのSOSなんて受けたくねえよ!」

「……」


 すると無言のまま、トパーズはマイクを取り、いきなり口を近づけた。


「ぎゃーっ!!!!!!!!」


 は? とそこに居た三人は、思わず身体をすくませた。そんな盟友達は気にもせず、この元ゲリラらしい男は、普段の無口さは何処へやら、聞いたこともない様な高めの声でまくし立てた。


「つながったつながったつながった! もしもし、もしもし、もしもし!」

『…… な、何があったのか? こちら大型搬送船JKR-46578、貴艦の所属と……』

「そんな悠長なこと言ってられません! 助けて下さいっ! お願いしますっ! 自分は一等兵で、他に何を言えばいいのか判りません! 何を言えば……」

『……何?』


 思わずBPは口を大きく開けていた。こうも真に迫った声を上げながらも、マイクに向かって叫んでいるトパーズの表情ときたら、見事なまでに何も変わらないのだ。


「あ! あっあっあっあっ…… 来るーっ!!」


 そしていきなりトパーズはそこでマイクを切った。唖然として自分を見ている三人に向かって、この元ゲリラは、何をじろじろ見ているんだ、と言いたげな視線を送った。


「……人間どんな特技を持っているか、判らないもんだなあ」


 感心した様につぶやくリタリットに、お前に言われたくはないだろ、とBPはぼそっとつぶやいた。

 しかし演技はなかなか効果的ではあったらしく、ふらふらと漂う彼らの小型艇に、大型の搬送船は、回収用の「腕」を伸ばしてきた。そして船自体に損傷や、内部の火災などが無いことを確かめると、サイドの扉をゆっくりと開き、中へと取り込んだ。

 BPは髪をかき上げると、銃を握りしめ、タイミングを推し量る。内側から扉を開ける気配が無いことを確認すると、搬送船のスタッフは、外から電子ロックの解除を行っている様だった。

 ぴしゅ、と音がする。開く!

 BPはその瞬間、飛び出した。そして何人かそこで不安げに見ていたスタッフの中で、最も年輩で、最もいい服を来た男を掴まえると、後ろから首に手を回した。


「動くな!」


 彼は声を張り上げた。血の気の引いたスタッフ達は、言われなくても、足が凍り付いた様に、その場に立ちすくんだ。


「管制室に案内しろ」


 BPは彼にしては、わざとらしい程に低く、どすの効いた声をその場に響かせた。トバーズではないが、その場にはその場に合ったはったりが必要だ、ということを彼は知っていた。覚えてはいないが、知っていたのだ。

 そうこうしている間に、他の三人も、ぐるり、と散らばっているスタッフを取り囲む様に、銃を突き付けた。


「オレ達は、すぺーすじゃっくだ。黙って要求を呑めば安全は保証する!」


 そしてリタリットはそう付け加えた。何だそれは? と首を傾げるスタッフも居た。思わずBPは銃をつきつける手の力が緩みそうになる。そんなところで気を抜かせてどうする。だが言っている当のリタリットは真剣だった。少なくとも、彼の目にはそう見えた。

 幸運だったのは、おそらく実戦慣れしていないのだろうスタッフは、とにかく船とスタッフの無事が大事、とこの珍客の要望を受け入れることにしたことである。実際それは的確な判断だったろう。少なくとも、「行き」の搬送船というものは、武器も兵士も積んでいないことが多い。積んでからやっと、積載物に対する護衛が入るのが普通なのだ。

 船はそのまま、進路変更もせず、「すぺーすじゃっく」に言われるまま、予定通り、目的地であるライの、収容所付近の飛行場へと降り立った。そして中のスタッフ達は、一斉に外に出され、そこで「すぺーすじゃっく」の親玉との面会と相成った。


「お初にお目にかかります。代表のヘッドと呼ばれております」


 搬送スタッフの代表、タルヒン少佐は、まだひどく若い、そしておそらくは、その格好から察するところに、あのいつも塀の向こう側に居た連中の一人だろうな、と予想はついた。士官学校出の者が割合早く手にする階級は、この一兵卒上がりの少佐には、最後の階級だったらしい。ヘッドはそれを察したのか、あくまで丁重に言葉をつむいだ。


「率直に申し上げます。我々を貴鑑で母星へと連れていってもらいたいのです」

「それはできん」

「できないとおっしゃられるなら、我々は貴鑑を乗っ取ってでも母星へ帰還果たします。だがその場合、貴方がたスタッフにはここには残ってもらいます」


 ヘッドは口調は穏やかだったが、言うべきところはぴしゃ、と言ってのけた。


「……それは」


 さすがに老少佐は、それには考え込んだ。どれだけ頑固な者であったとしても、このライで暮らすことを強要されるのは御免こうむる、というものだった。特に、老人にとっては、この寒さは厳しい。この夏期であってさえ、既にこの老少佐は、膝を痛そうにさすっているのだ。


「別に難しいことではありません。貴鑑のその広いスペースら我々をほんの少し同居させて下さればいい。そして、ちょっとばかりエンジントラブルを起こして、いつもとは違う場所に不時着して下さればいい。ただそれだけです。我々は、他には何も望みません」

 うう、と老少佐はうめいた。

 会見の模様は、皆窓越しにのぞいていた様なものだった。その場には、ヘッドと副官的立場のビッグアイズぐらいしかいない。一応何かあった時のために、後ろの扉にBPの様な使い手や、言葉と知識で応酬するためのロウヤーなども待機していたが、皆が皆、自分の出番は無さそうだ、ということを感じ取っていた。

 そこがヘッドがヘッドたるところなんだ、とBPは思う。

 この笑い顔が子供の様な男は、何をやっていたのか知らないが、確かに派手な行動は起こさないが、皆を引っ張って行ったり、相手を説得する力は持っている様だった。

 その様な点は自分には欠けていたし、別に欲しいとも思わない所だった。ヘッドは逆に、激しようと思えば、幾らでもできるし、おそらくは、もっと冷酷に話を進めようと思えば、できるのだ。臨機応変に。

 そしてその臨機応変は今回は穏やかさで統一され、完結を見た。彼らもまた、「脅された」という形を取ることを徹底的に彼らに約束させ、冷や汗混じりで、鉱石と一緒に彼らをも搬送することを約束した。


「……まあ、パンコンガン鉱石はあることだし…… いいか」


と、この老少佐が言ったかどうかは定かではない。

 だが確かに、鉱石を持たずに逃げ帰るよりは、たとえ囚人を輸送する羽目になっても、鉱石を持っているなら、まだましだ、というのが彼ら搬送スタッフの共通した認識だったのかもしれない。



「つまりは、それだけパンコンガン鉱石ってのは、でかい存在ってことなんだよな」

 この夏期の間、静かに溶け続け、ほんの僅かな苔の様な植物がうっすらと覆う大地に腰を降ろし、BPはつぶやく。前方には、きらきらと、それでも少しは強さを増している恒星光を浴びる搬送船が見えている。


「なにムズカしいこと言ってんの」


 相棒が不意に近づいて、彼の横にやはりべったりと腰を降ろした。


「んでも、よーやく離れられるんだな。オレ達の幸運に乾杯ってトコだね」

「幸運ね」

「あ、オマエ、その口調はオレのこと馬鹿にしてる?」

「や、別に?」

「ふーん。ま、いいんだいいんだ。別にさー」

「おいおい別に俺何も言ってない」


 そしてリタリットは、立ち上がると、ぱんぱん、と服のほこりをはたいた。



「あ」


 「不時着」した、首府からは遠く離れた場所で、扉を開けた時、彼らは思わず空に手をかざしていた。


「雨…… だ」


 誰からともなく、そんな声が上がる。

 あの流刑惑星とは桁違いにまぶしい空が、そこにはあった。曇っていたとしても、その雲の間から雨が落ちていたとしても、その空の明るさは、彼らが居た惑星とは比べものにはならなかった。

 帰ってきたのだ、ということを、一粒の雨が一瞬にして実感させる。

 子供の様にはしゃぎながら、彼らは扉から走り出していた。

 そしてそのまま、林の中へと入って行く。

 一方彼ら全員を降ろした船は、これ以上関わり合うのはごめんだ、とばかりに扉を閉めると、そのまま少しばかりの位置の移動を始めた。お互い、挨拶も、何も無い。

 それでいい、とBPは思う。彼もまた、久しぶりの雨が、水が頬を流れる感触を楽しんでいた。

 しかしそれにしても暑い、と彼は思う。彼らの服は、何だかんだ言っても、冬、しかも極寒の地の仕様だった。

 ふと気が付くと、上着と言わず、中着と言わず脱ぎ捨てている自分がそこには居た。

 自分だけではない。飛び込んだ林の、木々に服を引っかけて、元囚人の彼らは、皆それぞれ、着ているものを脱ぎだしていた。

 彼もまた、上半身は、下着一枚になっていた。

 ズボンには、当座の資金のための宝石の原石が、自分の分け前の分だけ入っている。そう多くは無い。ポケットに入れて、持ち歩きに不便ではない程度だ。だが原石自体の質がいいので、資金にするには充分な量だった。

 彼らはいったんここで解散する予定となっていた。このまま、それぞれの分け前の宝石を金に替えて、自分自身だけで新しく生きていくもよし、再会して反乱軍の道を選ぶもよし。それはそれぞれの意志に任された。

 次第に強くなる雨に負けないくらいの声を張り上げて、ヘッドは言う。


「もしこの先、共に組んで政府なり何なりへの反乱の道を選ぶ者だけ、ここに残ってくれ。強制はしない。決してそれは平坦な道ではないと思うから。だが一度この場から完全に立ち去る様に」


「参加する者は、夜になる前に、ここにまた集まってくれ。正確な時間が判る訳じゃないから、ある程度の余裕は取る。それまでに、雨が止めばいいな」


 締めくくるヘッドの言葉に、彼らは揃ってうなづいた。

 確かに久しぶりの雨は心地よいものではあったし、この「不時着」した場所は亜熱帯と言ってもいい様な湿気と温度を保っている場所である。それまで彼らが居た場所の平均気温と、おそらくは60℃もの差がある場所だった。

 だからと言って、降り続ける雨は、体温を奪う。そう長い間居続けると体力をも奪う。BPは一度その場を離れると、とりあえずは雨の防げる大きな樹の下へと入った。

 前方の樹のかげを、相棒が横切って行った。何処へ行くんだ、と彼は大声で相棒を呼んだ。

 すると相棒は、負けず劣らずの大声を返す。


「この先に、水の流れる音がしたんだ!」

「あまり水に浸かってると、体力を消耗するぞ!」

「オレは、風呂に入りたいの!」


 あ、と彼は声を立てた。

 そうだ、あの時。

 彼は樹の下から飛び出していた。そしてややぬかるみつつある地面を、器用に走って行くリタリットの後を追った。

 確かに相棒の足は器用だった。それは慣れた足取りだった。

 自分はこんな場所には慣れていない、ということをBPは痛感する。飛ぶように相棒は駈けて行き、自分はその後を、靴の底に詰まり出す泥を気にしながら走らなくてはならない。


「待てよ」


 彼は思わずそう口にしていた。だが相棒の耳には届かないらしい。振り向きもしない。


「待てよ!」


 林の間、草の間、至るところで水が自分の身体にまとわりつくのを感じる。懐かしいどころの騒ぎではない。


「おいリタ!」


 声を投げる。だが振り向かない。

 一体奴は何を洗い落としたいのだろう。

 彼の中でそんな疑問が芽を吹き出す。ずっと胸の中にはあったのに、成長させるのを止めていた疑問。

 雨のせいだろうか、と彼は思う。乾いていた胸の中に、大量の水がいきなり押し寄せてきたから。


「おい……」


 いきなり、林が途切れた。呼吸を整えながら彼はゆっくりと足を進めていく。


「川…… だ」


 思わずそう声に出していた。川、というにはひどく小さい。だが水は溜まって、そして流れている。

 流れて…… 何処へ?

 彼は流れをたどった。今にもすべりそうな、ずるずるとした泥の斜面を、草を寄せて踏みながら、たどたどしい足取りで降りていく。

 そこには、水のたどり着く場所があった。泉だ。

 ふと耳をすますと、ざ…… と流れが入り込む音の中に、ばちゃばちゃという不協和音が混じっているのに気付いた。彼はその音の方を向く。


「リタ……」


 相棒は、上着や中着どころか、下着すら取り去って、腰まで水に浸かっていた。


「何やってんだよ!」

「気持ちイイんだ」


 彼は靴を脱ぎ捨て、水の中へ入っていく。案外足元がゆるいのに背筋が一瞬ぞっとする。


「ここは、良くない…… 出て来い」

「オレは、気持ちイイんだよ」


 ばしゃ、と水が跳ねる。

 BPは腕を伸ばし、相棒の手を掴んだ。

 何すんだよ、とリタリットはそれを払いのけようとする。

 BPはその拍子にバランスを崩し、思わず頭まで水に潜ってしまう。だが握った手はそのままだった。

 リタリットは、水中で大きく息を吐き、相棒の手を引き上げた。


「……何やってんだ…… 」


 今度はリタリットが言う番だった。その薄い金色の髪からも、彼自身の黒い髪からも、水がだらだらと滴り落ちている。


「放っておけばイイのにさあ」

「できるかよ」


 BPは迷うことなく言った。

 リタリットはそれを聞くと、掴まれている手を大きく払い、そのまま立ち上がると、岸へと向かった。

 岸と言っても、大したものがある訳ではない。ただ、柔らかい土の上に、やはり柔らかい草が、邪魔されるものもなく、のびのびと生えているだけだった。リタリットはそれを踏みつぶす勢いで、その上に寝転がった。

 遅れて上がったBPは、相棒の行動がどうにも読めなかった。

 理由を知りたい、と思った。今までになく、彼はそう感じていた。

 だが何を言っていいのか、どうしても見つからない。仕方なく彼は、相棒の寝ころんでいる横に腰を降ろした。

 雨はまだ降り続いている。頭上に延々と降り注ぐ。続く音があまりにも長くて、永遠に止まらないのではないか、という錯覚すら起こさせる。

 それでもいいかもな、とBPはふと思った。

 過去の残った記憶も、これから始めようとする反乱軍も、もしかしたら、自分にはどうでもいいことなのかもしれない、と。

 ふと、BP、と相棒は何気なく呼んだ。

 そして何、と彼が答えようとした時、リタリットは、彼の手を掴んで強く引いた。

 彼はバランスを崩し、相棒の胸の上に覆い被さった。だがそうしたと思ったのも一瞬、彼は強い力で自分の位置が替えられるのに気付いた。


「…… お」


 い、と言葉を言う間も無かった。

 水の味がした。

 間近な目が、あの蜂起の時とよく似た、ひどく凶暴なものになっている。

 食われる、と彼は感じていた。

 この滅多に本性を見せない肉食獣に、自分は食われてしまう、と。


 雨はしばらく降り続いていた。

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