3分後に死ぬカニ

「よう、遅かったな」


 帰宅した杏子を出迎えたのは、ジャージ姿の杉山しぐれだった。呼吸があからさまに酒臭い。


「あ、しぐれちゃん。ご飯食べに来たの?」

「大人でもな、一人じゃ寂しい夜があるんだよ」


芝居がかった声でしぐれは弱音を吐いた。


「しぐれちゃんも早く」


 とまで言いかけて杏子の口の動きが止まる。この軽口を言ったら鉄拳では済まない気がする。いや、間違いなく家族の前で制裁される。潮が引いてしまい立ち往生したカニが砂浜で所在なさげにしていたところ、やっぱりトンビに襲われました程度の普通の感覚でキツめの攻撃が始まる。その証拠にしぐれの酔眼がトンビのように鋭くなっている。

 逃げるようにしてたたきを上がり、リビングへ向かう。食卓では珍しく早く帰ってきていた母、照子が缶ビールを数本開けていた。どうやら結構出来上がっているらしい。


「あら杏子、お帰りなさい」

「ただいま。早かったんだね」

「うん、たまにはしぐれと食事しようと思って。お父さんもそろそろだと思うわ」


 照子はおちょこを傾けながら言った。帰宅に気づいた愛猫のがんもが杏子の方を向き、小さく鳴く。


「なんかあったの?」

「お前の成績のことだよ。姉ちゃんに呼び出されたんだ」


 しぐれが立ったままビールを飲み干した。12歳離れた姉、照子のことを、しぐれは「姉ちゃん」と呼んでいる。


「杏子、お前、数学の結果、姉ちゃんに言わなかったろ」

「まあ、うん。すごく良かったわけでもないし」

「姉ちゃんすげえ心配してたんだからな!? 最初は週に一回くらいだった電話が、テストの週からは毎日かかってくるんだぞ!? 『杏子、数学どうだったかなあ』って。そのプレッシャーたるや」


 えー、と杏子は不満を顔に表した。足元ではがんもがじゃれついている。


「お母さん、毎日会うんだから直接聞いてよ」

「お前が言ってこないから、もしかして……ダメ……だったのかなって」

「そこはもう少し信じてよ、自分の娘を」

「いや、私はお前の算数系の弱さを知っているので、無理。聞けない。怖い。悲しいし諦めてる」


 言葉に詰まった杏子は脊髄反射的に天井を仰いだ。性格的なものならいざしらず、能力的なもので親にここまで言われるとさすがにこたえる。

 話の出だしを担ったしぐれが少し気まずく感じたのか、穴の空いた助け舟を出した。


「姉ちゃん、今回も多分大丈夫だよ。杏子には水里がいるから」

「杏子と仲が良いと噂の男の子ね。どうなの実際」

「そうだよ杏子、どうなんだあ?」

「どうとは」


 杏子は静かな水面のような真顔で答える。聞かれた意味がわからなかったからだ。アルコールが回っている照子としぐれは、デリカシーの欠片もなくガッサガサとヤブをつつき回した。


「好きなんでしょ、その子のこと。テンション上がるわ〜!」

「上がるねえ! 姪っ子の恋で酒が進むねえ!」


 しかしそもそもいないので蛇は出てこない。上がってるのは血糖値と血圧と血中アルコール濃度だろうと言いかけ口をつぐむ。相手にするだけ時間の無駄だ。杏子は疲れたような声で酔っ払い達に返答した。


「着替えてくる。ちょっと復習もしてくるよ」


 自室に戻った杏子はベッドに腰掛け、軽いため息をついた。そして


「多分あと一回でいけるはず」


 小声でそうつぶやき、制服を脱ぎ始めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る