#5-4

 オペラの顔色が、傷ついたような表情を作るのを、ノワールはじっと観察していた。「えっと」とオペラはゆっくり言葉を選んでいる。「私はね、ノワール。ノワールが私と離れたいのなら、結婚してくれなくても良いのよ。私の為に婚約してくれて、ここまで良くしてくれたこと、本当に感謝しているの。だから……」

 ノワールは、オペラの言葉にきょとんとしてしまう。じわじわと腹から怒りが湧いてきたのは、オペラの言っていることが理解できないようでいて、少しずつ解してきたからだろうか。「……お嬢さん、それ、本気で言っている?」

 オペラは、「兄のしりぬぐいに、いまだけの婚約をしよう」と一番最初に交わした約束のことを言っているのだろう。それはわかるけれど――まさか、彼女はいまもまだ、この関係がただの口約束だと思っていたのだろうか。「そんなことってあり得る?」と頭を抱えたいのを我慢して、ノワールは代わりに額を軽く掻いた。

「あのさ」とオペラに言い返そうとして、ぐっとこらえる。そもそも彼女がどうしてそんな勘違いをしているのだろう、と考えてみれば、もしかしてすべて自分の責任でもあるのではないか、とノワールも思ったのだ。

「お嬢さん」とノワールは柔らかく微笑む。オペラはじっと、彼の表情の変化を見ている。「もう一度、最初から始めよう。俺と、デートしてください」

◆◆


「ねえ、お嬢さん。お嬢さんは何が好き?」

 町を歩きながら、ノワールはオペラに笑いかける。オペラもにっこりと、「なんでもすきよ。可愛いものならなんでも」

「可愛いもの……あ、あそこの店に入らない? あそこのテディベア、ものすごく評判が良いんだ」

 ノワールの提案に、「テディベア?」とオペラの表情が綻ぶ。ノワールがオペラの肩に手を添えてその店へと入ると、店主が「あら、珍しいお客様」とノワールに声をかけた。

「あのピンクのくまはどう。お嬢さんに似ているよ」

「それ、どういう意味」とノワールの冗談に声を立てて笑うオペラに、ノワールは「可愛いって意味」と囁いた。オペラは「あら、そうなの」と返したが、その頬がほんのり薔薇色に染まっている。

「せっかくノワール様とオペラさんが来てくださったんだから、うちの子を連れて帰ってくれたら、このおさるも一緒にお供させますよ」

 店主の言葉にノワールとオペラが顔を見合わせ、オペラが「本当?」と嬉しそうな声で返したのを見て、「どれか好きなのを連れて帰ろう、お嬢さん。選んで」とノワールがオペラの肩から手を離した。「ええ、本当? 嬉しいわ」とピンクのテディベアを手に取ったオペラに、「その子で良いの?」とノワールが訊ねる。オペラは頷いた。「ノワールが私に似ていると言ったでしょう」

「じゃあ、この子を頂戴」とノワールがあっさり買い上げてしまうのを見て、オペラは驚いて声をあげた。「ノワール、私が連れて帰るのだから、私が買うわよ」

「何言っているんだ、お嬢さん。エスコートくらいさせてくれないの」

「エスコートって」と目を丸くしているオペラが、「いつも貰ってばかり」と頬を膨らませたのを、ノワールは白い歯を見せて笑う。「さあ、さるも連れて帰ってあげてね」

 ピンクのテディベアと、それより淡い色のさるのぬいぐるみを両手に持って、オペラは幸せそうに笑っている。「また仲間が増えたわ」と冗談を飛ばす彼女に、「それは良いね」とノワールも上機嫌だ。

「でも、それじゃあ町をまわれないから、さるは俺が抱くよ」とノワールがオペラの片腕に抱かれた猿を抱き上げる。「なんだか面白い画ね、ノワール」

「可愛いの間違いじゃないか」

「それもそうね。かわいいわよ、ノワール」

 それから様々な店をまわり、空が橙に染まった頃、ふたりは町の展望台にきていた。そこから町を見下ろして、ノワールが言う。「俺は、この素敵な町の領主で、それをすごく誇りに思っている。お嬢さんがこの町をすきでいてくれてると、俺も嬉しいよ」

「勿論、この町は大好きよ。温かくて、町のみんなが幸せだもの」

 そういって、高台の風に髪を靡かせているオペラの手を、ノワールは大切なものを扱うようにそっと取る。「ねえ、オペラ」

「俺は、やっとスタート地点に立てたかな? お嬢さんが嫌になったら、すぐに捨ててくれて構わない……ことは、やっぱりないんだけど。一度だけ、俺に機会をくれないか」

「機会?」

「うん……俺と恋人になって、お嬢さん」

 途端、オペラがぼろっと涙をこぼしたのを見て、ノワールはぎょっと体を強張らせた。「え、やっぱり嫌?」とノワールが慌てふためくのを「違うの」と制止して、彼女は、「違うの……ごめんなさい。ノワール、前に言ったでしょう。結婚しても私は自由にしていい、シュヴァルツの資産も自由に使っていい、恋だって自由にしてって。私、ノワールが傍にいてって言ってくれるたび、それを思い出してしまうの。ノワールは好意で言ってくれているのに、心が付いていかない私が悪いの」

 頬を滑る涙をぬぐいながらオペラが言った言葉に、ノワールは自分を殴り飛ばしたくなった。――オペラはあの言葉をずっと覚えていて、だからこそ俺のプロポーズを断ったのか、とすべてを理解した瞬間、ノワールはあわや腰から崩れ落ちそうになる。「えっと……待って、お嬢さん。俺はそういう意味で言ったんじゃなくて」

「そういう意味じゃないの……?」

「ううん、そのときは、そういう意味だった。そういう意味だったけれど……ああ、もう、格好悪いなあ……」

「俺は、お嬢さんに勝手に恋してほしくないし、俺だけを見ていてほしい。そういう意味で結婚しようって、言ってるんだよ」

「恋人も、そういう意味?」とオペラが訊き返して、ノワールは何度も強く頷く。それから、ノワールの言葉の意味がやっと分かったオペラのほうも、みるみる頬を真っ赤に染めた。「えっと」と彼女が視線を逸らす。ノワールは彼女の表情が変わる様子や、そわそわと落ち着きのない行動をしはじめたことに、「まあいまは、これでいいかもね」と声を漏らして笑った。「ねえ、お嬢さん。じゃなくて……オペラ」

「なあに」とオペラが恥ずかしそうに目を細めてこちらを見る。

「俺、お嬢さんが大好きなんだ。だから、最初から始めたい。俺に、お嬢さんの誤解を解く時間をください。……恋人になってくれる?」

 オペラは一瞬首を傾げて、それから花が咲いたように笑った。「良いわよ。だって私も、ノワールのこと……」

「うん?」と今度はノワールが疑問符を浮かべる。オペラは首を振った。「ううん、なんでもないの」

 そういって、オペラはノワールの手を強く握り返す。オペラの指の滑らかな感触に、ノワールは幸せな気持ちでオペラをそのまま引き寄せて、強く抱きしめた。

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