#3-4

 オペラは、彼女なりに、いままでずっとノワールのことを案じていた。初めて会ったあの日――彼がべろんべろんに酔っぱらって、前後不覚になっていたあのときから、オペラには、ノワールは自分の心中を他人に吐き出すことがうまくできないように見えていたのだ。

 そういうオペラの不安や心配は、ノワールと付き合うにつれ、ますます深まっていった。自分になにひとつ言い訳もしない代わりに、ノワールは事情も話さない。ありのまま、見えるものだけで、その裏やノワール自身の立ち位置といった、自分を庇うために重要だろうことを一切話そうとしない癖があるのだ、と、オペラはそういう風にノワールを見ていたのだ。

 そんな彼が、突然自分を易々と抱きとめて、「オペラは俺の恋人だ」と言ったことは、オペラにとってとんでもない衝撃で、いつもの彼なら、きっとオペラの勘違い――それが「勘違い」であるのなら――もなにもいわずに受け止めて、それが違うことすら言おうとしなかっただろうに、と思うだけで、オペラの体がなぜか熱くなってしまって仕方がない。

「おかしなノワール」と呟いて、オペラははああと風呂のお湯に身を沈める。猫足のバスタブの置かれた風呂場には花の匂いが充満していて、それはノワールから数日前に贈られた、一等品の石鹸だとかいうものの香りだった。

 ノワールは、こうしてオペラに香りものを贈るのを好んでいるようで、香水だとか、化粧品だとかは、オペラが学生であることと、化粧を好まないところからあまり選ばなかったが、化粧石鹸だとか、部屋に置くポプリだとかを、好んでオペラに渡していた。

 オペラからのお返しは、花畑や公園などでおしゃべりする程度の子どもらしいデートばかりだったが、ノワールはそれに嫌な顔ひとつしない。本来ならオペラだって、ノワールに見合う宝石のついたタイピンのひとつくらい準備できるが、オペラは敢えてそうしなかった。ノワールのことを、オペラはかたくなに友達のひとりだと思い込んでいたからである。

「ともだち」と、口の先でつぶやき、様々ないままでを考えて、オペラはため息を吐く。「ノワールは友達」だと思い込んでいたのに、そのノワールは、オペラのことをきちんと恋人として見ていたのだ。

 オペラは、それを「重たい」とは一切感じなかった。むしろ、なんだか無図痒いような、不思議な心地よさがある。ノワールに抱き留められたときのことを思い出して、華奢な体格だと思っていたそれが案外――と思い返してしまい、オペラは自分の両頬を思い切り叩いた。「これじゃあ、おかしいのは私の方だわ」

 風呂から出てきて髪を梳かしながら居間に入ったオペラは、我が目を疑った。――あの日と同じように、いや今度はリビングのど真ん中で、ノワールがへたりこんで眠っているのだ!

 その隣に座り込んだブルーノが顔を上げ、オペラにアイコンタクトを送る。オペラは恐る恐る渦中の人物――ノワールに近づいて、屈んで目線を合わせ、「ど、どうしたの?」と比較的正気でありそうなブルーノにたずねた。ブルーノは首を振る。「わからないが、またなにか楽しいことでもあったんだろう」

「楽しいこと?」とブルーノの言葉を繰り返して、オペラはノワールの肩を揺する。ノワールはぼんやり顔をあげ、オペラの顔を見てにっこり笑った。だいぶ酔っているようで、彼はブルーノのほうに視線を移し、「お嬢さんまで俺の屋敷に? 良いよ、今日は飲み明かそう、お義兄さん」

「誰がおにいさんだ! 飲みすぎだぞ、ノワール。おい、今日は一体どんな楽しい宴だったんだ」とこそこそ話をするように近づいて囁くブルーノに、ノワールはけらけら笑い声を立て、「それがさあ、傑作なんだよね。あれ、なにがあったっけ……」

「兄さん。ノワールを屋敷に送るから、馬車を出して頂戴」

「ああ、そうだな。そのうちに寝るだろう。だいぶ酔っているようだから、途中で吐くかもしれないぞ、紙袋を持っていけ、それと水を……」

「ああ、そうね。それなら誰かひとり、従者を連れてきて。私がノワールを連れて屋敷まで送るから、帰りは従者と帰ってくるわ」

「へっ? それなら俺がついていくぞ、オペラ」、とオペラの提案にブルーノは顔色を変える。しかしオペラは首を横に振って、「兄さん、私とノワールを二人きりにしてほしいのよ」

「馬車でいくんだ、オペラ。帰り道にお前ひとりと従者じゃ俺の気が気じゃない。屋敷までノワールと歩いて帰るのも、無理だ、無理!」

 ブルーノは、それでも随分譲歩してそう言ったようだった。それがわかるからこそ、オペラは小さくため息をつき、「わかったわ。馬車をお願い」

「それで? 今度はなにに落ち込んでいるの?」

 馬車にノワールと一緒に詰め込まれて、開口一番にオペラはそうノワールに訊ねた。ノワールはぼんやりとした目でオペラを見て、はてと首を傾げる。「何の話、お嬢さん」

「白を切るのね。ノワール、お酒を飲みすぎるとき、いつも悲しそうな顔をしているわ。気が付いていないの? 以前のことは訊かないけれど、今日もとても悲しそうよ。なにがあったの、私じゃ頼りにならないのね?」

 語尾の声色の強さに、オペラは自分で「言いすぎたかしら」とちらりと思ったが、それでもそこまで言わなければ、シャノワールというこの男性は、またのらりくらりとかわしてため込むだろうという確信があったのだ。

 オペラがしばらく見つめていると、ノワールはゆっくり目を逸らし、はあと息を吐いた。「酔いが醒めたなあ」と呟き、「あのね」と小さく言う。「シャノワール=シュヴァルツは、顔も良くて、友人も多くて、資産家で、この町の領主で。たぶん、ここら辺で一番しあわせでさ、恵まれているんだよ」

「恵まれているんだよ……」と繰り返して、ノワールは目を瞑る。酒臭い息を吐いたノワールの、伏せられた長い睫毛が揺れている。「でも、誰もわかってくれないんだ」

「誰も、俺のことなんか」

 呟き、ノワールは寝息を立て始める。「寝たのね」と呟いて、オペラは自分の肩にかけていたショールをノワールの膝にかけてやった。

「シャノワール=シュヴァルツは、恵まれている……」

 オペラは呟き、夜空を見上げる。深夜になった空は真暗で、そこに星が散らばっている。馬車が森を抜けていく、がたごとと耳障りな音とともに、痛いほどに体が揺れた。

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