(53)下りの「のぞみ」

 翌朝、京都駅にて土産を買う時間を与えられた私達は、早々に買い物を済ませてから地下街を訪ねていた。


「そういえば、霧峯はどこか行きたいところはなかったのか」


 深夜の密会の末にふと私が訊ねたところ、少女の口から出たのはイノダコーヒーに行ってみたい、という一言であった。これには私も驚かされたのだが、

「おじいちゃんが教えてくれたんだ、お母さんとお父さんが若い頃に初めて会ったところだったって」

満面の笑顔でこう言われてしまっては私も頷かざるを得なかった。

 その笑顔が目の前で咲き、嬉しそうにレモンティーを口にしながら朝食セットのプレートを謳うように頬張っている。


「瑞希、よく入りますね。朝からの宿の食事もお代わりをされていたように思いますが」

「うん。ご飯三杯だったから美味しく食べれるよね」


 珈琲を口にしていた水無香の呆れた顔が並ぶことでその対比が面白い。

 ただ、少女からすれば父親が愛したというこの一皿を平らげるのは成し遂げたいことであったのだろう。


「それにしても、霧峯さんも気に入られたようですね。二条里君が急に言い出すものですから驚きましたが、どこよりも楽しそうにされていますね」

「うん。やっぱり、美味しいもの食べてる時が一番幸せだよね」


 いつもの調子で話をする山ノ井に、満面の笑みで返す霧峯を見ていると少し心が痛い。

 しかし、それと同時に少し無理をしてでも話を聞き出せたことに満足を隠せない自分がいることもまた確かであった。


 昨晩、少女は私の問いかけに口籠ってしまった。


「あれ、そんなに難しいこと聞いてしまったか」

「ううん。でも、明日はそんなに時間もないし、ほら、みんなも行けなかったとこがあるはずだからそっちに行こうよ」


 少女の言葉に思わず苦笑してしまう。

 いつもであれば私の眠りも予定も吹き飛ばしてしまうというのに、このしおらしさはどうしたことだろうか。

 しかし、元々この少女はこうしたところがあるのも分かっている。

 誰かのために自分さえも犠牲にしかねないというのはカルビン先生との戦いで知ったことだが、こうした時は天真爛漫に戻っても良いのではないだろうか。


 それから暫くは押し問答が続いたのであるが、

「じゃあ、霧峯の行きたいとこを教えて欲しい。私もそこに行ってみたいからな」

言った瞬間に思わず歯を浮かせてしまった一言で、少女は何とかその想いを見せてくれた。


「もう、そんな言い方されたら話さないといけないじゃない」

「でもそうだろ、私達は霧峯に行きたいところ教えてるのに、霧峯だけ教えてくれないなんて不公平だ」

「それもそっか。でも、面白いとこじゃないよ」

「それを言ったら、私の錦小路だってそうだ。普通の中学生なら行かないんじゃないか」

「あー、そう言えばそうだよね。でも、いろんなお店が並んでて楽しかったよ、私」

「まあ、色々はしゃぎまわってたもんな。そして、私も楽しかった。その楽しさは皆と一緒に回れたこともあるんだ。霧峯もそうじゃなかったか」

「そっか。なら、話してもいいかな」


 そこで話をしてくれたのがイノダコーヒーだったのだが、流石に本店まで行く余裕はない。

 そこで、京都駅地下街の支店にしたのだが、他の面々には、

「そういえば、母さんがイノダコーヒーに行ってみたらいいって前に行ってたから、ちょっと行かないか」

という言い方で丸め込んだ。

 この時の霧峯の驚いたような表情には少し笑ってしまったのであるが、私からすれば珍しく控えめな少女にあてられた、というのが正直なところであった。


「それにしても、二条里君も美味しそうに飲まれますね。それほど、美味しいですか」


 呆然としながら昨晩のやり取りを思い返していたところで、山ノ井から急に声をかけられ思わず軽く噎せてしまった。

 鼻が少々つんとする。


「うん、ブラックじゃなくてよかった」

「それが感想ですか」

「いや、そうだろ。私はまだブラックコーヒーが飲めないから、こうして雰囲気を楽しめる飲み物があって助かるな、と。山ノ井だってレモンスカッシュだし」

「僕もまだ苦いものはいただけませんから」


 それをすんなりと受け入れる山ノ井は流石と言うべきだろうか。

 目の前では、再び悪戦苦闘しながらウィンナーコーヒーに挑む水無香の姿がある。


「なるほど、そういうことでしたか」


 私の言葉に山ノ井が微笑むが、それはどこか私の心を見据えたような不敵なもののように見えた。






 十一時過ぎ、京都駅から「のぞみ」に乗り込んだ私達はいよいよ西への帰途に就いた。

 二両ほどを貸し切っているのだが、私を初めとする二十名ほどはその中から外されて一般乗客と共にある。

 過ぎ去っていく景色は思い出となり、疲れた級友の中には眠ってしまうものもあった。


「しかし、これで終わりか。思えば短かったな」

「ええ。ですが、楽しくも意義深くもありました」


 隣に座った山ノ井が、緑で飾られたお茶のペットボトルを開ける。

 通路の向こうでは大森先生と辻杜先生とが並んでいる。

 黒いジャンパーと白衣との対比は可笑しくもあったが、既に慣れてもしまっている。

 今原先生は前の車両の様子を見にいったようだ。


「そうだな。山ノ井も楽しめたなら良かった」

「ええ。二条里君も霧峯さんの行きたいところに連れていくことができて、最後まで楽しそうですね」


 私が声を上げると、山ノ井が楽しそうに笑う。


「やはりそうでしたか。二条里君が急にイノダに行こうと言い出したものですから何かあると思ってはいたのですが、様子を見ていて全て分かりましたよ」

「いや、私は母さんから勧められたから」

「霧峯さんを見ている穏やかな顔を見ていれば誰にでも分かりますよ。恐らく、その話を聞かれたのは昨晩の遅くだったのでしょう。途中で二条里君、部屋を半時間ほど空けていらっしゃいましたからね」

「あの時、起きてたのか」

「はい。昨夜はなかなか寝付けませんでしたので。息を殺してはいましたが、睡眠技令を使われたのは気付きましたよ」


 山ノ井に言い伸べられながら顔が熱くなるのが分かる。

 特にやましいことはないはずなのであるが、どこか後ろめたいところを感じてしまう。


「何だか山ノ井、えらく今日はズバズバと来るな」

「それは昨日の今日ですから。奇襲のような形で戦っておきながら引き分けに持ち込むのがやっとだったのです。これくらいは許していただきたいですね」


 山ノ井の顔が悪戯中の子供のように変わる。

 ここしばらく忘れていたが、山ノ井は時にこうした顔を見せることもあった。

 この旅行はそうした山ノ井の隠れていた一面を取り返すのにも一役買ったらしい。


「確かに霧峯さんは自分の行きたいところを仰ることはありませんでしたからね。思い返しますと、僕や内田さんの行きたいところをうまく引き出されながら、行くところを引っ張って決めていかれていました。僕としたことが、先程まで気付きませんでした」


 少しだけ気まずそうに山ノ井が頬を掻く。


「霧峯には言うなよ。言ったら気にしてしまう。あいつは、何気ないふりをしながら、相手のことをいつも見て考えてるんだ。だから、こうした時は自分のことよりも周りを優先する。それが楽しいっていうのもあるのかもしれないが、そういう奴なんだ」

「明るく振舞ってらっしゃいますよ」

「だから、それが霧峯なんだよ。他の奴が楽しそうにしているのが一番嬉しい。誰かと何かをするのが一番好きだっていうな」


 私の言葉に、山ノ井が声を上げて笑う。


「な、何がおかしいんだよ」

「いえ、失礼しました。ただ、二条里君はよく霧峯さんのことを見ていらっしゃいますね」


 山ノ井の指摘に心臓が跳ね上がる。


「そりゃ、毎週のように連れ出され、毎日のように顔を合わせてたら自然とそうなるさ」

「そうですね。そして、太秦では霧峯さんの写真をたくさん撮っていらしたのでしょう」


 もう一度、心臓が飛び跳ねる。

 新幹線の微かな揺れだけで脳が撹拌されるような錯覚に陥る。


「な、なんでそれに気づいてんだよ。私も見返してから初めて気付いたのに」

「無意識だったのでしょうね。景色を撮りながらも、その先に霧峯さんの姿があるのを気にされていないようでしたし、霧峯さんも気にされていませんでした」

「よく見てるんだな、本当に」

「二条里君ほどではありませんけどね」


 照れ隠しのようにお茶に口をつけて息を吐く。

 トンネルに差し掛かった車輛は景色を閉ざし、耳の奥が少し曖昧模糊となっていく。


「そこまで知られている以上、仕方ないな。山ノ井には帰ったら、今回撮った水無香の写真のデータを渡そう。水無香の写真もそれなりにあったからな」


 やっとのことで、一つだけ山ノ井にやり返す。

 顔を赤くした親友は恥ずかしそうに押し黙ってしまった。


「あれ、山ノ井君どうしたの」


 それから間もなくして、少し前に座っていた霧峯と水無香が通りかかり、俯く山ノ井に声をかける。

 何事もないと誤魔化しながら、やり過ごすと二人で深い溜息を吐いた。


 車窓には張りつめた架線が続く。

 それはまるで、春を前に緊張の糸を切れぬことを指すようであった。

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