(47)覗く異能

「なるほど、この踏んだ紙に円柱技令を仕込んでたのか。これは気付かないな」

 踏みつけていたチラシのような紙を確認してみると、そこに書かれていたのは技令陣であり、その気配は既に殆どが霧散してしまっていた。急激に技令が失われたことで身体が酷く重いものの、身体を起こす。立って歩く分には何とかなりそうではあるが、とても山ノ井と水無香の後を追うような力は残されていない。

「博貴、だいじょうぶ……じゃないよね」

「いや、思ったよりは大丈夫だ。技力を四分の三は持っていかれたが、歩いたり意識を保ったりするのには大きな支障はない」

 流石に直後は意識を持っていかれそうになったが、少し息を吐けば冷静を取り戻せる。戦闘こそ難しいものの、目の前の少女を困らせるほどには弱ってはいないつもりである。

「とりあえず、ホテルに戻ろう。山ノ井が携帯電話を持っている以上、連絡がつけられない私達は下手に動くべきじゃない」

 霧峯の点頭を確認した私は、そのまま松原通を鴨川の方へ向かって進み始めた。

 夕方となって往来の増え始めた中を気配を消しながら進む。途中で躓きそうになる場面もありながら、何とか歩を進めれば、やがて公園を脇に鴨川が姿を表す。

「ここまで来れば何とかなりそうだな」

「でも、油断しないで。博貴、かなり弱ってるから」

「ああ。それは十分に分かってるつもりだ。走るのも難しそうなほどだからな」

 とはいえ、バスに乗るという選択肢はない。もし、中で襲われればひとたまりもなく、他の人まで巻き込んでしまう。このような事態となってしまった以上、何とか徒歩で戻るより他にない。

「しかし、とんだ修学旅行にしてしまったな。悪い」

「ううん。悪いのは博貴じゃないよ。それに、私はそんなに悪くないかなぁ」

 霧峯の言葉に、胸が一度高鳴る。それは何かを期待するようでいて、自惚れを払うように首を振る。いつもと同じ二人での道中なのであるが、それが京都という名の巨大な舞台装置によって明らかに異なるものと成っている。緊迫と緊張とが私を挟む。

「見てみて、なんだかいい感じのお店が並んでる」

「ああ、京都の納涼床を構える店だな。鴨川の本流の向こう側にもう一本水路があって、夏場になるとそこにせり出すような形で高床式の座敷が設置される。京都らしい華やかな光景らしい」

 私の話に霧峯が目を丸くする。

「博貴もそういう話、知ってたんだ」

「えっ、それってどういう」

「だって、いつも数学ばっかり解いてるから、ちょっとびっくりしちゃって。お昼間も山ノ井君のお話に頷くばっかりだったし」

 霧峯の素直な言葉に苦笑する。漏れ出た声は往来の車によってかき消され、そのまま鴨川に流されていく。

「まあ、山ノ井の話は興味深いからな。ただ、二人の時ぐらい格好つけてもいいだろ」

 私の軽口に霧峯が笑顔で答える。松原橋を渡ろうと足を踏み出していく。その時、橋向に一つの影が見えた。

「博貴、ごめん」

 鋭い技令の気配を感じたのと霧峯に抱き寄せられて宙を舞ったのは同時であった。川縁に降りた霧峯はそのまま私を橋桁の下に連れ込むと、左手で私の口を塞いだ。右の人差し指を立てて己が口に当てた少女は気配を消す。私も少女の導きのままに息を殺す。

 橋桁の上を強い技力を持った者が過ぎていくのを感じる。常であれば戦えぬことはない相手であるが、消耗した今となっては危険性が高すぎる。それを瞬時に判断した霧峯の直感は恐ろしいものがあるが、冷静になってみれば明らかにそれが正しいと分かる。橋の中程でしばらく止まっているのは、気配を探っているからなのか。それは恐ろしく長い時間のように思え、吐く息の音さえも騒がしく感じた。

 ただ、緊急事態とはいえこの状況は不味い。人気の少ない薄暗い場所で、こうも密着されては身体に悪い。霧峯の表情は真剣そのものであり、状況も予断を許さないのであるが、敏感に掬い取った甘い香りは私の鼓動を速める。恐らく必死で気付かれてはいないだろうが、顔も酷く熱くなっている。

 鴨川の流れが耳につき、少女の黒髪の滝が目につく。少女がが息を吐く度に揺れる黄色のリボンが冬に舞う蝶のようで現実から私達を剥離させる。

 やがてその気配が松原通りの小路へ入ったのを感じたところで、霧峯は私を解放する。解かれた緊張に私はそのまま力なく崩れ落ちてしまう。頭を垂れ、まともに霧峯の方を向くことができない。

「ごめんね、博貴。だいじょうぶだった?」

 屈んだ霧峯が私の顔を覗き込もうとする。

「だ、大丈夫だ。緊張が緩んだだけだから」

 さらに身を屈めて目を合わせないようにする。今、少女と目を合わせてしまえばどうなるか、自分でも想像がつかないでいる。

「でも、助かった。今、戦うのはあまりにも不利だからな」

「うん。戦えないこともなさそうだったんだけど、今は博貴の回復が優先だったから」

 息を整えながら、心を落ち着かせる。腰が抜けたように立てずにいるのは技力の低下と安堵に因るものだろう。我ながら情けなくなる。ふと、甘い香りが鼻腔を掠めたかと思うと隣に霧峯が腰掛けていた。

「でも、こんな景色も京都らしいよね」

 霧峯はこうした時もいつもの少女としてそこに在った。


 ホテルに戻ってから私は辻杜先生の部屋に運び込まれ、技石による回復を施された。その間、辻杜先生は仕事もあって出たり入ったりを繰り返していたが、霧峯はそこから決して動こうとしなかった。月の欠片と呼ばれる技力回復用の技石だそうだが、それを掲げる霧峯の手から降り注ぐ温かな光が心地よい。それを二つほど用いて、やっと八割方の技力を回復させることができた。

「ほう、並の技令士ならそれが二つもあれば全回復するが、余程技力がついてきたようだな」

 回復の様子を見た辻杜先生の言葉に、一度だけ息を呑む。自分の事でありながらよく分かっていない自分を微かに恥じながら、自分が何者になろうとしているのかという不安が風船のように膨らんでいく。

 そして、渡会たちが六時前に戻り、山ノ井たちは七時を回ってから帰着した。遅くなるという連絡は既に辻杜先生の受けた電話を通して知っていたが、そこそこに消耗しての戻りに私も霧峯を手伝って回復に当たった。

「申し訳ありません、博貴に円柱技令を仕掛けた相手を捉えることはできませんでした」

「えっ、じゃあ、何でそんなに傷ついてるの」

「その後、リトアスというレデトール人と遭遇しまして、内田さんと二人で交戦しました。最後は内田さんが討ち取りましたが、無属性技令界も用いたのでそれなりに消耗してしまいました」

 山ノ井の言葉に、霧峯と思わず見つめ合う。

「なるほど、私達がやり過ごした奴がそっちに行ったということか」

 二人に松原橋での一件を話す。それを真剣な面持ちで聞いていた二人であったが、やがて水無香は霧峯の方に歩み寄り、

「流石、瑞希です。博貴を護って下さり、ありがとうございました」

穏やかに微笑みかけた。それに満面の笑みで応える少女とのやり取りに、

「まるで、姉妹のようですね」

山ノ井の告げた一言が私の心を代弁していた。

 その後、他の生徒と時間のずれ込んだ私達は疲れた身体を癒すべくまず大浴場を訪ねたのであるが、六名ほどであるため何とも静かな入浴となった。

「よーし、修学旅行最大のイベントと言ったら覗きだな」

 ただ、酷く元気溌溂としている渡会を除いて。

「お前なあ、流石にそれは駄目だろう。普通に犯罪だ。それに今入ってるのは水無香と霧峯ぐらいだ」

「だからいいんだろうが。内田のあの体型だぜ、出るとこ出てる。これを見たいと思わないんなら男じゃねぇよ」

「なら、私は男でなくても良いな」

「なんだよ連れねぇなあ。そうか、お前の好みは霧峯の幼児体型の方なんだろ。なら仕方ねぇか」

「いや、そんなんじゃ」

 ない、と言おうとして山ノ井から静かにするよう窘められる。タオルを外して湯船に浸かり、一度、身を震わせる。

「なあ、山ノ井、無属性技令界使ってくれよ。そうしたら、あの高い仕切りなんてないも同然になるんだから。山ノ井も見たいだろ、な」

「ええ、お二人の美しい姿でしたら目に収めたいですが、それは一糸纏わぬ姿ではありません。渡会君のご提案は私に一つも利がなく、お二人には害しかありませんのでお断りいたします」

 山ノ井の回答に、流石の渡会もぐうの音も出ない。ただ、それでも渡会の情熱は冷めることなく、再び私の方に寄って来る。

「よし、二条里、物は相談だ。土属性の技令で壁に幾つか足場を作ってくれないか。そうしたら、一緒に見ることができる。な、どうだ」

「いや、だから私の回答も同じだ。そんな犯罪に手を染める必要性が一つもない」

「へっ、そんな澄ました顔してても、お前は女に興味があることぐらい、俺は知ってんだ。そうしたもののの隠し場所もな」

 凍る。言外の圧というのはこういうことを指すのだろう。隠し場所を知っている、ということは協力しなければそれを漏らす、ということでもある。何より、にやついたその顔が雄弁にその意思を物語っている。そも、渡会を部屋に上げたのは相当前であり、荒らされた形跡もなかった。嘘の可能性もある。

「俺を本棚が見えるとこに座らせたのが、お前の失敗だな」

 前言を撤回する。恐らく、気付かれている。ここで私は詰めろの状態に追い込まれてしまった。

「大体よう、おめぇ、ちょっとだけ期待してんだろ」

「そ、そんなこと」

「へぇ、そうかい」

 そう言った渡会の視線の先には、隠しきれないものが自己主張を始めている。

「な、素直になろうぜ」

 渡会が自信に満ちた顔で、私の肩に手を乗せる。一瞬だけ戸惑ったが、私はその手を静かに振り払った。

「いや、やっぱり応じられない。それに、隠している本なんてないからな」

 精一杯の意地で詭弁を返す。それに笑った渡会は、徐に女湯との仕切りの方へ近付いていく。

「なら、しょうがねぇなあ。ちょいと骨が折れるからやりたくなかったんだけどよ」

 腰にタオルを巻いた渡会はその背のゆうに四倍はあろうかという仕切りの頂点を見据える。

「ああ、あと二条里よぉ、俺、本を隠してるなんて言ってねぇからな。でも、おめえの好きなモンを本棚の奥の奥に隠してんのははっきり分かってっから、これだけは先に言っとくな」

 私が声を上げるのと同時に、膝を深く曲げた渡会が跳躍する。明らかに体則で強化されたその行為は、見事に頂点近くまで届き、右手をそこへ掛けるに至った。

「あんまり派手にはやりたくなかったんだけどよ」

 言うなり、渡会はもう片方の手を掛けて、腕力だけでその身体を持ち上げる。流石の身体能力と体則なのであるが、その顔が隙間に至ったとき、鈍い音と共に彼の眉間へ石鹸が見事命中した。

 唸り声を上げて落下する渡会を急ぎ駆けて受け止める。途中で山ノ井が風技令で少し支えてくれたのか、その衝撃は思いの外小さく、為に大きな怪我を負うこともなく終わることとなった。

「水無香ちゃんを覗くんなら、飛んでくる物に気をつけてね」

 仕切りの向こうから少女の少しくぐもった声が響く。眉間を抑えて瞳に涙を浮かべる渡会は、悔しそうに黙って湯船に浸かっていた。

 その後、浴場から出て窓から北山の景色を眺めていると、寝間着姿となった水無香が現れた。恐らく、この前の買い物で母さんと買ったものなのだろう、穏やかな水色のそれは彼女の落ち着きと相俟ってよく似合っている。

「それにしても、先ほどは災難でしたね」

「ああ。まあ、渡会も楽しい奴なんだが、時に欲が先走ってしまうからな」

「でも、良かったです。あそこで博貴が協力されなかったので」

「まあ、失ったものは大きそうだけどな」

 私の言葉に、水無香が少しだけ声を漏らして笑う。既に頭の中は帰宅してすぐの片付けに思考が及んでいる。

「それも安心しました。博貴も人並みに異性への興味があるというのを知れましたから」

「いや、言われてる方としては恥ずかしさで消えたくなるんだが。それに、水無香からすれば私はどのように見えてたんだ」

「博貴、胸に手を当てて考えてみられてください。数学や本や料理にしか興味がないようにしか、周りから見えないのではないでしょうか」

 水無香の落ち着いた言葉に苦笑する。言われてみて初めて気が付くこともあるというが、思い当たる節が嫌と言うほどあるというのが恐ろしい。

「男性が女性を求めるのは自然なことです。最近は多くの本を読むようになりましたが、その中でも男女の機微はよくあるお話です」

 淡々と水無香の口から語れるとどうしても恥ずかしくなってしまう。いっそうのこと、獣のように盛らないで下さいなどと侮蔑された方がまだましである。重々しく広がる山並みが私に無言の圧をかける。

「何だか、妙な話になってしまったな。もうすぐ部屋に夕食が運ばれるから、そろそろ戻ろうか」

「いえ、辻杜先生の話では夕食が運ばれるのは八時半頃になるそうです。特別に対応していただいているので遅くなるようですから、焦る必要はありません」

 普段よりも周到な水無香の聞き込みに、少しだけ違和感を覚える。しかし、日常から離れた修学旅行の場である。それくらいの違和感が当然なのかもしれない。

「実はあの時、瑞希ともし博貴が一緒に覗いてきたらどうするかという話を小声でしていたんです」

「えっ、そうだったのか」

「ええ、率先してするような人ではありませんが、弱みを握られた時にどのような打算的な行動に出られるかは読めませんでしたから」

 水無香の正直な言葉に、思わず頬を掻いて目を逸らしてしまう。その視線の先に、談笑する山ノ井と霧峯の姿が束の間見え、僅かにチクリという音がする。穏やかに下ろされた少女の黒髪は遠くから見ても少しいつもより濡れ濡れとしているのが分かる。

「まあ、言われてみれば現実的な判断をしかねないのが私だからな。裏切る可能性もあったわけだ」

「ええ、人の心は分かりませんから。それで、瑞希にどうするか伺ったところ、同じく迎撃すると口では言っていました」

 石鹸を眉間に当てられて沈む自分の姿が頭に浮かぶ。その情けない姿は現実になっただろうなあと、我が事ながら思わず笑ってしまった。

「それでも、瑞希は石鹸を一つだけしか準備されていませんでした」

 それを水無香は一つの溜息の後に掻き消した。

「それって、どういう」

「その解釈は博貴にお任せします。ただ、私には少しだけ悔しいような可笑しな気分が浮かびました」

 優しい口調ながらも抑揚のないその一言一言がどこか虚ろで、どこか冷めたものに感じられる。それは私に向けられた冷たさなのか、それとも少女に向けられた冷たさなのか、それとも……。

「ねぇねぇ、二人でなにお話ししてるの?」

 ゆっくりとこちらへ向かう霧峯の言葉に、

「いえ、今日の戦いの反省戦をしていたんですよ」

水無香は珍しく詭弁で答えた。穏やかな表情を崩さぬ山ノ井の様子が何とも羨ましい。

「このようなところで立ち話を続けるのもなんですから、部屋に戻って夕食までゆっくりとしましょう」

「ああ、そうだな」

 山ノ井の言葉に助け舟と思って乗る。いつもと違う微妙なやり取りからの解放を求めた私は、しかし、それが杞憂であったかのように、

「ええ、明日も楽しめるよう身体を休めましょう」

水無香に微笑まれ、思わず息を飲んでしまう。九階にあるせいか、足下がどこか浮ついたもののように感じられた。

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