(36)少女のピース

帰宅して、三日連続でベッドの上というのはどうしたことだろうかと思いつつも、その上にうつ伏せとなる。

朝から緩やかに感じていた疲労感が、ここにきて溢れるように出てきたようで、身体が重い。

いや、正しくは泥が付着した心が重い。


「彼女は、君のことが好きなのではないでしょうか」


分からない。

分からないことが多い。

分からないことが多過ぎる。


何を以って彼女が私を好きだと推察したのか。

何故山ノ井はそのようなことを不意に告げたのか。

何故私は二人の知る彼女の変化に目を向けられなかったのか。


そもそも、好きという感情は何であるのか。


暗くなった部屋の中で吐いた溜息は、白くなることもなくそこに留まる。

考えたところで全く答えが出てくるものではない。

それでも、この底なし沼のような渦の中に自らの心を置かざるを得ないというしがらみが私の中に確かにあった。


「そんな訳が」


ないだろう、と口にすることができない。

昼に告げられた時も、ない、という単語だけが喉から離れなかった。

決して何かを恐れたわけでないのだが、山ノ井の穏やかな表情の裏には、積み上げられた現実があるような気がして飄々とした否定は打ち砕かれた。


それからの脳の混乱は、私の思考を束縛した。

数学の授業で「仮定」という二文字を書くのに手が止まったほどである。


「博貴、どうかされたのですか」

彼女からの声掛けに、どのように答えたのかすら覚束おぼつかない。


「博貴、元気なさそうだけど、だいじょうぶ」

少女からの声掛けに、いつものように笑顔で返せた自信はない。


それ程までに、山ノ井から投げかけられた命題は大きなものであった。


人を好きになるという言葉と、それに伴う感情と、それに続く営みについては薄々知っている。

保健体育という名の机上の空論は、しかし、その因果関係を明示するには至らない。

単純に並ぶ矢印が示すのみである。

そして、この好きだという感情の定義が正三角形ほどに明確ではないこともまた、私を苦しめていた。


だからこそ推論を重ねるしかないのであるが、推論を重ねてできた砂の器などもろく崩れるのが道理である。

山ノ井の論にどのような推論を行ったとしても、結論に至る証明には綻びが出てしまうのだ。


それに加え、私の思いはどうなのかという部分がさらに苦しめようとする。


内田がいい女子であるというのは疑いようもない事実である。

時に暴走してしまうこともあるが、普段の落ち着いた雰囲気や相手を大切にしようとする優しさは代えがたいものがある。

端正な顔立ちを考えれば美人の部類に入るであろうし、渡会の言葉を借りれば身体つきもいいようである。


とはいえ、それが感情に結びついているのかと言われればどうしても疑問符がついてしまう。

だからといって、ぞんざいに扱えるような存在でもなく、気にならない相手と言ってしまえば嘘になる。


ただ、気になると言ってしまえばあの少女の顔が目に浮かんでくる。

長い黒髪に黄色いリボンの映える向日葵ひまわりの少女もまた、同じように気にかかる。

そう、目に浮かんでいるような微笑みを向けられると、思わず言葉を飲み込んでしまう。


「ねえ、なに考えてるの」


声を上げて、飛び起きる。


「わ、びっくりしちゃうなぁ、もう」


それは私の台詞である。


「な、なんで霧峯がいるんだよ」

「だって、窓から何回ノックしても気付いてくれないし、カギ開いてたから入ってきちゃった」


そう言うと霧峯は電気を点け、炬燵こたつに入る。

一瞬、表情が歪んだのは電気を入れていなかったからだろう。

私も冷ややかな炬燵こたつに正座し、相対あいたいする。


「で、どうしたんだよ」

「それは私が聞きたいんだけど。なんだか、元気なさそうに帰ってたから、気になって」

「い、いや、別に、大したことじゃ」

「――水無香ちゃんの、こと?」


時に少女は私の急所を的確に突く。


「そうだよね……うん。だって、水無香ちゃんからチョコ貰ったら、私もクラってきちゃうもん」

「い、いや、そんなことじゃ」

「じゃあ、どういうこと」


霧峯の瞳が私をのぞく。

この少女の前で、誤魔化ごまかしは効かない。

ただ、少女が考えていることとも微妙に違う。

故に、私は諦めるようにして今日のあらましと悩みを、少女に明かした。


少女を除いて。


「でもそれって、少し気になるってことだよね」


その丁寧な説明を全て吹き飛ばしたのもまた、少女の一言であった。


「だって、気にならなかったら、考えないでしょ。それに、山ノ井君が言ってることも当たってるかも。チョコいっしょに作ったときも、水無香ちゃん、博貴の話たくさんしてたし」

「そんなの、どうせ愚痴ばかりだろう」

「ううん。ダメなとこも言ってたけど、なんだかんだで優しいし、いざっていう時はみんなを守ってくれてるって、優しい顔で言ってたよ。うん、ちょっといちゃいそうなぐらい」


少女の口が見事な弧を描く。

頬杖を突きながら私を見据えるその顔はひどく優しい。


「だから、博貴も好きだったら言っちゃえばいいんじゃない、思い切って」

「はは、だからそんなんじゃないんだけどな」


無邪気に内田を推す少女に、乾いた笑いしか向けることができない。

考えれば考えるほど、出口のない洞穴ほらあなへと引きずり込まれるような気持がしてくる。

それを知ってか知らずか、目の前の少女が屈託のない笑顔を向け、それをどこか心苦しく感じてしまう。


「もう。のんびりしてると、だれかに取られちゃうよ」

「取られるって言われてもなぁ」

「だって、水無香ちゃんみたいないい子、あんまりいないんだよ。私が男の子だったら、一番にねらっちゃうけどな」

「なら聞くけど、霧峯は好きな奴に好きって言えるのか、すぐに」

「私はいいもん。だって、私は――」


響く。


霧峯の言葉を遮るように、濃厚な技力の気配が過る。

その深さは沼の如く、忽ち私達の間から歓談という名の虚飾をぎ取った。


「博貴、今の」

「発動した技令だ。それも、そこそこ大きい。学校の方だと思うんだが」

「待って、水無香ちゃん、まだ帰ってきてないよね」


霧峯の一言に、最早待つ余裕などなかった。

施錠がもどかしさを誘う。


「博貴、今、どんな感じ」

「まずいな。技令が複数展開されている。多分、一つは内田のものだと思うんだが、もう一つ、強烈な陰の技令の気配がする」

「強い陰の技令って、時間技令とか」

「分からない。ただ、この技力は生半可な展開じゃない。場所は分かった。学校近くの社だ」


もう霧峯も黙ってはいない。

長い髪を風に乗せ、闇の中に溶け込んでゆく。

私もまたそれに続き、いつもはきついと嘆く階段を、二段飛ばしで駆け上がった。






枯草の中へと身を投じれば、そこにはうずくまる山ノ井と剣を構えた内田の姿。

そして、


「やはり、釣り出されましたね」


初冬に見えた雨澄が三叉の杖を手に悠然とそこには在った。


「身近な人を餌にすれば、必ず来るのが二条里君。そのえさから技力をいただいた今、勝ち目は」

「レイニン・ナイフ」


状況判断よりも先に霧峯が跳躍し、短刀の豪雨を降らせる。

発動した祭壇の中で、しかし、雨澄の防御壁に亀裂を与え、後退させる。


「申し訳ありません、博貴。不覚を取りました」

「いや、しかし、どういう状況なんだ」

「発動した技令を確認しに来てみたのですが、その瞬間に仕掛けられていた複数の技令陣が発動して、一気に技力を吸い上げられました。私はまだ抑えられたのですが、不意を突かれた山ノ井さんが」


見れば、確かに山ノ井の技力はほとんど空であり、その肩は小刻みに震えている。

しかし、氷結の団栗どんぐりの手持ちがない以上、ここは急ぎ切り抜けるよりほかにない。


「内田、山ノ井を頼む」

「ええ。お願いします」


内田も消耗しているが、その消耗は祭壇技令によるというよりも、技力を祭壇で強化した雨澄との戦闘で消耗したものと推察される。

体則が技令に比して減っていないのがその証拠だ。

眼前では少女が舞い、技令師を圧倒する。


「かの者を生贄に、全てのものを奪い尽くせ、祭壇」

「我らに降り注ぐ災厄を掃え。清らかなる力を以って邪を流せ。聖域の護り」


霧峯に向けられたにえの誘いを断つ。

詠唱に大きな間がなければ、発動はこちらの方が早い。


「そんな、この祭壇技令の中で、二人分の技力を持った私に」


それが、雨澄の動揺を誘う。

それが、少女を勝利へ誘う。


「レイニン・ナイフ」


再び繰り出された少女の怒りは、濃厚な弾幕となって雨澄を襲う。

いくら技力を強化しようとも、暴れる体則師をなせなければ勝ち目はない。

上がった悲鳴を背に、少女がこちらにブイサインを向け、それと共に薄絹うすぎぬのような祭壇の気配が掻き消された。


「うぅ、どうして、こんな」


霧峯のナイフに、切れ味はない。

そのような歯にした霧峯の優しさは、しかし、雨澄の身体を散々に打ち付けたのか、気力が失われてうずくまる。


「だって、私の大事な友達を襲ったんだもん、許せるわけないでしょ」


ああ、とそこで気付いた。

この少女は明らかに怒っていたのだ。

山ノ井も内田も彼女にとっての「身内」である。

それを襲うような敵に容赦するはずもなく、大技の二連続で急ぎ解決を図ったのだろう。


「こうした時の瑞希は恐ろしいものがありますね」


内田も少し引いている。


「まあ、罠を仕掛けたところまでは良かったんだろうが、内田相手に技力を消耗しすぎたな。それに、これだけ祭壇技令を無理に発動させてしまえば、残る技力も少なくなってしまう。作戦が甘いな」

「内田さんを抑えてしまえば、二条里君もなんとかなるはずだったのですが」


悔しそうに声を漏らす雨澄は、それでも立ち上がると、こちらに背を向ける。


「覚えましたよ、霧峯さん。これだけ私を痛めつけたこと、必ず後悔させますから」

「うん。タイマンなら、いつでもいいよ」


霧峯のあっけらかんとした一言に、憎悪の眼差しを残し、雨澄はふらつきながら闇の中へと消えていった。


「山ノ井、大丈夫か」

「はい、お陰様で助かりました。七つの技令陣で展開された祭壇技令に巻き込まれ、流石に駄目かと思いましたが、本当に、皆さんのお陰で」


うずくまった山ノ井は肩で息しながら周りに告げる。

小刻みに震える山ノ井に、調整した太陽技令で暖を与える。

その合間に、内田が持っていたのか氷結の団栗どんぐりを山ノ井に与え、彼に精気を取り戻させようとする。


「しかし、技力がなくなった時、技石や団栗どんぐりがないと回復できないっていうのは不便だな。内田、回復技令にみたいに技力を回復させる体則はないのか」

「体則ではありませんが、技力を他人に分け与えることで回復させることはできます。ただし、今はあまり使用されなくなった方法ですが」


内田がかすかに紅潮しているように見えるのは戦闘直後だからであろうか。


「それにしても、雨澄の技力も以前に比べると上がっていたな、二人分の増加を抜きにしても」

「ええ。成長する時期ではありますから、そのままということはないでしょう。ただ、瑞希の攻撃力がそれ以上だったのには驚かされましたが」

「だって、急がないと山ノ井君が大変そうだったし、私もがんばってるもん」


霧峯が胸を張り、内田が微笑む。

その対比を見ながら、出る前に話していたことを思い出し、自分でも説明し難いものが胸の中で膨らんでいくのを感じる。

胃と食道から込み上げて気道と肺をつつくような何かがあるのだが、それを私はどうすることもできない。


「二条里君、どうされましたか」


少しずつ回復を始めた山ノ井の一言で我に返る。

傍から見れば呆けいていた、もしくは見惚みとれていたというのが私の様子であったのだろう。

不思議そうに首をかしげる山ノ井の顔にそう書いてある。


「それにしても、僕は何度こうして助けられればいいのでしょうね。本当に、弱くて、彼女に助けてもらってばかりで、本当に」

「いや、山ノ井が弱いんじゃない。偶々たまたま上手くいかないことや失敗が続いただけだ。今日も向こうはめようとして罠を仕掛けている。自分を責めたところで仕方ないさ」


山ノ井の反省の弁に、可能な限り軽い言葉で返す。

完璧を求めるのが山ノ井の在り方なのかもしれないが、それでは彼自身が苦しんでしまう。

苦しんでいる。

そうした思いがどこか心の端に引っかかっているような気がして、私はこの深刻を晴らそうとしていた。


「それに、霧峯の今日の攻撃は異常だったからな」


どう考え直してみても、霧峯の攻撃が週末に比べて強くなっているような気がする。

男子三日会わざれば刮目かつもくして見よ、という言葉が頭をよぎりもしたが、それは武芸者が学を得た話であるし、そもそも目の前にいるのは男子ではなく少女である。


「確かにそうですが、それは二条里君のせいですよ」

「どういうことだ」

「傷に響くので、今日は秘密にしておきましょう」


山ノ井から漏れた笑みが雲の合間に消える。

寒さに少し、背筋が震えた。

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