郷愁

網本平人

郷愁


 コートの隙間から入り込む冷たい風が、体を震わせた。思わず漏らした声が、白くなって空へ昇っていく。駅なんてのはどこも似たようなもので、ホームを抜けロータリーに出ただけで、まさか懐旧の念に駆られるとは思いもしていなかった。


 電車に乗る前、空はまだ青色をしていたため、長旅をしてきたというよりは、長い退屈な時間を過ごしたという思いの方が強い。日は暮れ、辺りはうっすらとした闇を纏い始めている。


 駅の利用者はそれほど多くなく、師走の混雑を予想していた私は、少し拍子抜けした調子で兄の車を出迎える事となった。


「おう」


 白いワゴン車の運転席から兄が顔を出す。


「ああ」


 照れくさそうな笑顔に、こちらもはにかみながら右手を上げて返す。


 男兄弟の再会なんてのはそれが五年ぶりのものだとしてもこんなもので、その素っ気ないやり取りが私には却って気恥ずかしく感じられた。


 助手席に乗り込みシートベルトを締める。車はゆっくりと動きだす。


「悪かったね。わざわざ」


「なに。仕事も休みに入って暇してたからな。それに家にいたって邪魔者扱いされるだけだよ。のんびりしていられるのなんて最初の数日だけなもんさ」


 久しぶりに目にした兄は、親父の三回忌に会った頃よりもやはり老け込んで見えた。外仕事をしているため肌の色つやはいいが、顔に刻まれたシワや頭の白色は随分多くなったように感じられる。

 

 歳をとればとる程、歳月によって体に現れる変化は少なくなっていく。それでも五年分の老いを、兄の体は確かに受け止めていた。おそらく私も同じなのだろうと思う。そして我々の母親も。


 駅からほんの数分車を走らせただけで、辺りの景色はすっかり田舎らしいものに変わった。国道二車線道路の両脇には寒々とした田畑が広がっている。


 田畑の向こうには我々を囲うように山脈が伸びており、沈んだ日が残す光がその稜線を微かに赤く染めていた。


「しかし今日にして正解だったな」煙草を咥えた兄が、ハンドルを回しながら言った。


「明日予報じゃ雪だって話だからな。しばらくこっち帰ってなかったからビックリするんじゃないか、お前。雪なんて見たら」


「別に雪なら東京にだって降るさ」


 鼻で笑った私へ、兄はちらりと目を向ける。


「でもこっち程積もりはしないだろう?」


「まぁ。そりゃ、そうだけど」


 やたらと彼方との違いを強調したがるのは、田舎に暮らす者の特性なのだろうか。二十歳頃までは一緒にこの場所で暮らしていたというのに、まるで余所者扱いだ。彼方には無いものがこっちにはあるんだぞ。その口振りからは、そんな見栄のようなものが感じられる。

 とはいえ自分の中には、こうした広々と見通しのよい景色を好む性質が確かに含まれているようだった。尤もそれは、閉塞的な都会の生活から開放された喜びなどではなく、一人酒によく合いそうな、そういうセンチメンタルな感情に近かった。


 ぼんやりと窓の外を見つめる自分へ、兄が時折チラチラと視線を送ってくる。記憶の中にいる私と、それより数年歳を重ねた今ここにいる私との差異を埋めようとしているかのような視線だ。


「そういえばこの間のボクシング、凄かったな。見たか?」


「ああ。タイトル戦のやつだろ?まさかあそこまで一方的な試合になるとはね」


 ボクシングに野球。漫画や映画。私の趣味や嗜好は兄の模倣により形成されたと言っても過言ではない。勿論兄と離れている間に培われた部分もあるのだが、その根底には確実に兄の存在があった。


 他人だろうが兄弟だろが趣味の話が盛り上がるのは変わりないもので、ボクシングの話を皮切りに、互いの口数は多くなっていった。それを別々の場所で暮らしていた二人の時間を埋めるため儀式のようだと思った。実家に到着した時、車の中の我々は、すっかりあの頃の俺達に戻っていたのだ。


 実家は祖父の代に建てられたものだ。何度かの増改築が行われたものの、それも私が生まれて間もなくの事であるため、一見しただけでも時代を感じさせられる。レトロというより、陰鬱な気配を漂わせる古臭さがある。


 平たい木造の二階建てで、壁も屋根の瓦も元の色が分からない程にくすんでいる。正面に曇りガラスの引き戸の玄関があり、玄関の左手には台所へと続く勝手口が、右手には縁側のガラス窓が見える。


 手入れをする者が居なくなって久しい。葉を落とした庭の木々は枝も折れ、暗がりの中に亡霊のように佇んでいた。


 庭を挟んだ向かい側には兄の家が建っている。こちらは素朴な近代風。以前納屋が置かれていたのを取り壊し、兄が建てたものだ。


 車を下り、先行した兄が玄関の扉を開いた。その時に鳴る音は、この扉でしか出せない音のように思える。どこがどう鳴っているのかは分からない。だけど妙によく響くガラガラガラ。


「ただいま」


 ごく自然に兄の口から出た言葉を、私はすぐには口に出せなかった。


 鼻に届く匂いは懐かしくはあるが、馴染みは薄い。子供の頃、母方の祖父の家へ行った時にこんな匂いを嗅いだ気がする。


 土間で突っ立ったままでいると、上がり框へ足をかけた兄がこちらを振り返る。兄は首だけ動かして、私を中へ入るように促した。


 小さく頷き靴を脱ぐ。約五年ぶりに生まれ育った家に足を踏み入れる。


 ギシギシとよく鳴る廊下を進み、右手にある障子戸を兄は開いた。


「あら、早かったじゃない」


 扉の向こうからしゃがれた声が聞こえてくる。胸の奥にむずむずとしたものを感じる。


 兄の後ろにつき、肩の横から八畳の茶の間を覗き込むと、炬燵に足を入れた母がこちらへ顔を向けた。


「お帰り」


 目を細めて、母は言った。


「ああ」


*


 前回帰って来たのは父の三回忌の時。その前は父の葬儀の時。どちらもその日の内にあちらへ戻らねばならない用事があったし、来客が多くあって終始バタバタとしていたため、帰って来たという実感を得られるのは、もういつぶりの事だか分からない。


 甥達のための漫画やゲーム。母のための大量の薬や健康器具。久しぶりに目にする普段の姿をした実家は、やはり少しだけ他人行儀に感じる。


 ただ、兄と喧嘩をした時に殴ったキッチン横の壁の穴や、身長を計るためにつけた縁側の柱のキズは、あの頃と同じまま、面影のように残されていた。

 挨拶もほどほどに、母は曲がった腰でキッチンへ立ち、夕食の仕度を始めた。兄とは違い、まるで数日ぶりの再会のような態度だ。


 母の背中は、心細く思う程に小さい。どんなものよりも残酷な老いが、ここまで私達を守り続けてきた母を、老人へと変えてしまっていた。


 それほど多くはない荷物を下ろし終えた私は、一人で使うには広すぎる炬燵で暖をとる。電気ストーブも動いているが、古い家であるためどこからか冷たい風が吹き込んでくる。


 手持ちぶさたに眺めるテレビでは、こちらでしかやっていないローカル番組が流れていた。出演者はあの頃と殆んど変わっておらず、時間旅行をしたかのような気持ちにさせられる。


 程なくして一度家に戻っていた兄が家族を引き連れやって来て、それから直ぐに夕食と相成った。


 元々ふっくらとしていた兄の嫁は、より母親らしい丸みを帯びていた。驚かされたのが二人の甥で、特に来年から高校生になる長男の方は、声が変わり、身長が二十センチ以上伸びていたため、見違える程の変わり様だった。


 賑やかな食卓には、母が作ったものと兄の嫁が持ってきたもの、それから出来合いの料理が幾つか並んだ。


 広い茶の間に歓談の声が響く。長押に並んだ賞状が、そんな我々を見下ろしている。


 一足先に食事を終えた子供達が、スマホやゲームを弄り始めた頃、私は煙草を吸うために席を立った。


 換気扇の下なら吸ってもいいと言う母へ首を振り、上着を羽織って外へ出た。玄関を開けた瞬間、痛い程の冷気が肌を刺した。帳に包まれた暗闇に、白い粒が舞っていた。


 その白い粒が、車や屋根に当たるのが分かる程に、辺りは静まり返っていて、明かりを灯した付近の家々からは、楽しそうな声が朧気に聞こえてくる。


 ほっと吐いた息が空へ向かって上がっていく。ポケットから煙草を取り出し、みるみると冷たくなっていく手で火をつける。


 ボッと灯されたライターの火が、時を切り取ったように辺りを赤く照らした。


 冷たく清々しい空気と一緒に煙を一杯に吸いんで、息を吐く。くゆる紫煙が暗闇の中へ吸い込まれていく。


 背後の扉がガラガラと開いた。


「さっびぃ」


 隣に立った兄が、体を震わせながら電子タバコの電源を入れた。


「あれ?車じゃ普通の吸ってなかった?」


「ああ。まぁ、時代だからな」


「……そうか。まぁ、時代だもんな」


 羽根のように軽い兄の言葉を、吹き飛ばさないように受け止めて、煙を燻らせる。


 空に上がってた煙が消えるのを見届けて、口を開いた。


「母さん、思ったより普通じゃないか。料理も昔と変わらず作れていたし」


「まぁな。今日はお前も来ていたし」


「関係あるの?」  


 兄は首を横へ振った。


「分からない。ただ、一人の時が一番酷いような気がする」


 低くなった兄の声に、返す言葉を失った。


「たまに何をしようとしていたか分からなくなる事があるようなんだ。それからテレビの内容にもついていけないようで、ドラマなんかもあまり見なくなってしまった。前は大好きだったのに」


「いや、でも。歳を取ったら誰でもそんなものじゃないのか?物忘れなんて俺でもよくある事だし」


「飯食っている時のおかしなあの空気。お前も感じなかったわけじゃないだろ?」


 隠していた嘘を見抜かれたように、心臓が跳ねた。つい数十分前に母が口を開いたあの時、私は確かに空気が凝固する音を聞いた。


『美恵子さん。お醤油』


 それは兄の嫁の名前ではなかった。母は自分の孫と義理の娘の目の前で、どんなうっかりがあったとしても、息子の前妻の名前を口にするような迂闊な人ではなかったはずなのだ。


「俺も嫁も仕事はあるからずっとなんて見ていられないし、子供達だって最近は母さんへ妙なものを見るような目を向けるようになった。まだ大丈夫だってずるずる引き伸ばしたって大変になっていく一方だって事くらい、お前ならよく分かっているはずだろう?」


 兄の口振りには弁解の色が滲んでいた。それでもこの場所から逃げだした私が、ここに残り母を支え続けてきた兄へ返せる言葉など何一つとしてなかった。


 忘れかけていた罪の意識が、重しのように胸にのし掛かる。


 何もしない飲んだくれの夫の畑仕事を手伝いながら、血の繋がりのない父親と母親の面倒を見、漸くそこから解放されたと思えば、今度は夫の介護。その最中に息子二人を育て上げたあの人程強い人間を、私は他に知らない。


 煙草の煙を痛い程に肺へ送り込みながら、雪の粒が舞い降りていく庭を見つめる。


 石にぶつかり思わぬ方へ跳ねていくボール。夕陽を背に受けながら覗き込んだ蟻の巣。掃除の最中に失せ物が見つけるように、埃かぶった記憶の断片が浮かび上がる。


 時期も季節もバラバラなそれらの記憶の断片は、やがて一つの記憶へと収束されていく。


 だけど変わっていなかったのだ。母の料理の味は、あの頃と。


 冷えきっていた体の、目頭だけが熱くなる。奥歯を噛み締め、こみ上げものをぐっと堪え、私は兄へ口を開いた。


*


 体の内まで凍えさせるような寒さで目を覚ました。


 一瞬、自分がどこにいるのか理解できず、周囲を見渡すと、実家の二階にある兄の部屋だ。高校を卒業した直後に家を飛び出した俺の部屋は、人が泊まれるような状態ではなくなっていると昨日の夜兄に言われたのだった。


 懐かしい匂いのする来客用の毛布と布団を体に巻き付けたまま立ち上がる。家の中だというのに吐き出す息は真っ白で、何故だかそれがおかしくて小さく吹き出した。


 窓の障子を抜けた淡く白い光が部屋の中をぼんやりと照らしていた。おもむろに窓際へ近いた私は、立て付けの悪い窓の障子を、コツを使ってすっと開いた。


 現れた窓ガラスの向こうに見えたのは、真っ白に染まった世界だった。庭も、道も、隣の家の屋根も。一面が息苦しいくらいの白色に覆われている。


 空は澄んだ青色をしていて、そこから注がれる光の粒が反射し、黄色やピンクに輝いている。辺りはその輝きが立てる音が聞こえる程に静かだった。密度の高い真綿を敷き詰めたような、そんな静寂だった。


 吐く息で、窓はたちまち白くなる。袖で拭って、外を見つめる。


 一階からは、味噌汁の匂いが鼻に届いていた。


 灰皿も探さないまま、私は口に咥えた煙草に火をつけた。



                    完

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