第28話 不本意な誘い

 紫苑さんは壁にかかっている柱時計にちらりと目をやると口を開く。

「みゆうさん。そろそろ遅いから家に帰った方がいいんじゃなくて?」

「別に。飲み会だともっと遅いし」

 紫苑さんはふっと笑みを漏らす。


「私としたことが、あなたが理解するには難しい婉曲表現を使ってしまいましたわね。新巻さんと二人きりになりたいので帰って欲しいの。これならあなたにも分かるかしら?」

 二人きり。僕の頭の中をこの言葉がこだまする。あまりに直截的な表現に驚いてしまった。


 みゆうさんは唇を尖らせていたが、ふーんというと席を立った。

「じゃあ。マスター。頑張ってね」

 生意気にもウインクなんかしてそそくさと帰っていく。みゆうさんが出て行った後に店の扉に施錠をすると紫苑さんの座るテーブルまで戻った。


 俯いて考え事をしていたらしい紫苑さんが顔をあげて艶やかな髪の毛をかきあげる。耳を出すそのしぐさは僕の心臓の鼓動をおかしくさせるには十分なほどに蠱惑的だった。そのまま僕をじっと見つめてくるので、落ち着かない気分になってしまう。

「あ。紅茶のお替りを用意しますね」


 そそくさと離れようとする僕を紫苑さんは呼び止める。

「もうこれ以上は結構よ。それより座って」

 僕は4人掛けのテーブルの紫苑さんと直角になる位置の席に座った。紫苑さんは右手を伸ばして僕の右手に重ねる。ひやりとした感触が心地いい。


「新巻さん」

 そう言って潤んだ目で僕のことを見つめる。知らず知らずのうちに頬が熱を持つのを感じて狼狽した。これじゃまるで初心な高校生じゃないか。まあ、実際のところは五十歩百歩なのだけれども。


 僕は努めて平静な声を装ったが、声がかすれてしまった。

「ええと。お話というのは?」

 紫苑さんは僕の手に手を重ねたまま席を立つ。そのまま僕の真後ろに立つと身をかがめた。耳に紫苑さんの吐息がかかる。


「勝手なことを言って申し訳ないのですが、今はまだ新巻さんに全てをお話するわけにはいかないのです。でも、私は新巻さんの信用を得たい。どうしたらいいでしょうか?」

 落ち着いてろくにものが考えられない僕にも言わんとすることは分かった。


 一つ深呼吸をする。

「僕は紫苑さんのことを信用しています」

「それは嬉しいわ。でも、もっと私のことを……」

「であれば、すべてを話して欲しい。それだけです。こういうことはやめてください」


 制御しようとしたけれど失敗した僕の声には苦みが混じっていた。それを紫苑さんが見逃すはずもない。

「そういうつもりではないのですけど」

 紫苑さんは一度だけぎゅっと手を強く握ってから自分の席に戻っていった。


「本当にこういうことはやめてください」

 僕は情けなくなった。こじらせた結果だというのは分かっている。いい年をした男がロマンティストなのは噴飯ものだろう。でも、僕が望むものは打算の結果としての好意じゃない。


 紫苑さんは悲しそうな眼をしていた。

「申し訳ありません。新巻さんに不快な思いをさせてしまいましたわね」

「いえ。そんなことはないです」

 そうは言いながらも情けないほどに声が尖っていた。


「新巻さんの人となりを考えれば軽率でした。重ねてお詫びします」

 紫苑さんが頭を下げる。僕は自分の不器用さに腹を立てていた。僕がもっと単純なら、計算づくの行為なのかどうかに頓着せず、紫苑さんが差し出したものに遠慮なく飛びついていただろう。夢にまで見たものなのだから。


 そして、紫苑さんがこのような行為をしたことにも言いようのない苛立ちを覚えていた。僕が勝手に抱いた幻想だけれども、紫苑さんはもっと清楚で奥ゆかしい人だと思っていた。それなのに、まるで犬に餌を与えるように簡単に自らを差し出してくるなんて幻滅もいいところだ。


 僕はテーブルの上のお皿とティーカップを意味もなく凝視する。紫苑さんの顔をまともに見ることができなかった。紫苑さんがんんっと喉の奥で咳ばらいをする。

「誰にでもこんなことをするなんて思わないでくださいね」

 ちょっとだけ目を動かすと紫苑さんが真剣な表情で僕を見ている。


 僕にはこういうときに何と言えばいいか分からなかった。ただ、黙っていることに耐えられなくなり、席を立ってカウンターの向こうに汚れ物を運んでいく。スポンジに洗剤をかけて泡立てると洗い物を始めた。ついつい必要以上に力が入ってしまったかもしれない。水を出してすすいでいく。


 その水音に紛れて、カウンターの向こうに紫苑さんが近づいてきていた。

「浅はかな真似をして申し訳ありませんでした。私の評価を下げ、新巻さんの名誉を傷つける本当に愚かな行動でした」

 困ったような申し訳なさそうな表情を見ても僕の心の棘は抜けそうにない。


 水を止めて、きゅきゅっと音をさせながら布巾で皿の水けをぬぐっていく。

「すぐには許していただけないようですね。新巻さんが怒るのも当然です」

 紫苑さんは頭を下げると店の扉に向かい、扉を開けるとそこで振り返る。

「できるだけ早く全てをお伝えできるように努力します。もう少し時間をください」

 紫苑さんが出て行った後の店内に閉め方の悪い水道から滴る水音が響いた。

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