劉裕家格考 注釈

[1]世説新語 方正二十五+劉孝標注

諸葛恢大女適太尉庾亮兒,〈恢別傳曰:「恢字道明,琅邪陽都人。祖誕,司空。父靚,亦知名。恢少有令問,稱為明賢。避難江左,中宗召補主簿,累遷尚書令。」庾氏譜曰:「庾亮子會,娶恢女,名文彪。」庾會別見。〉

次女適徐州刺史羊忱兒。〈羊氏譜曰:「羊楷字道茂。祖繇,車騎掾。父忱,侍中。楷仕至尚書郎。娶諸葛恢次女。」〉

亮子被蘇峻害,改適江虨。〈虨別見。〉

恢兒娶鄧攸女。〈諸葛氏譜曰:「恢子衡,字峻文,仕至滎陽太守。娶河南鄧攸女。」〉

于時謝尚書求其小女婚。恢乃云:「羊、鄧是世婚,江家我顧伊,庾家伊顧我,不能復與謝裒兒婚。」〈永嘉流人名曰:「裒字幼儒,陳郡人。父衡,博士。裒歷侍中、吏部尚書、吳國內史。」〉

及恢亡,遂婚。〈謝氏譜曰:「裒子石,娶恢小女,名文熊。中興書曰:「石字石奴,歷尚書令,聚斂無厭,取譏當世。」〉

於是王右軍往謝家看新婦,猶有恢之遺法,威儀端詳,容服光整。王嘆曰:「我在遣女裁得爾耳!」


琅邪諸葛氏は諸葛亮に連なる系譜。泰山羊氏は羊祜を輩出した家門であり、西晋皇族の姻戚ともなっている。潁川庾氏は当時の皇帝とまさに姻戚となっている。



[2]宋書巻一 武帝本紀上

高祖武皇帝諱裕,字德輿,小名寄奴,彭城縣綏輿里人,漢高帝弟楚元王交之後也。交生紅懿侯富,富生宗正辟彊,辟彊生陽城繆侯德,德生陽城節侯安民,安民生陽城釐侯慶忌,慶忌生陽城肅侯岑,岑生宗正平,平生東武城令某,某生東萊太守景,景生明經洽,洽生博士弘,弘生瑯邪都尉悝,悝生魏定襄太守某,某生邪城令亮,亮生晉北平太守膺,膺生相國掾熙,熙生開封令旭孫。旭孫生混,始過江,居晉陵郡丹徒縣之京口里,官至武原令。混生東安太守靖,靖生郡功曹翹,是為皇考。


劉交より二十一代を丁寧に下ってくれるのは良いのだが、途中に「某」が混じってくるなどうさん臭さが炸裂している。



[3]晋書巻六十九 列伝第三十九

劉隗,字大連,彭城人,楚元王交之後也。……(孫波)子淡嗣。元熙初,為廬江太守。


それほど扱いの大きくないこちらの彭城人にわざわざ盛る理由もないので、おそらくこちらは本当に劉交の子孫なのだろう。



[4]晋書巻八十四 列伝第五十四

劉牢之,字道堅,彭城人也。曾祖羲,以善射事武帝,曆北地、雁門太守。父建,有武幹,為征虜將軍。



[5]宋書巻一 武帝本紀上

安帝隆安三年十一月,妖賊孫恩作亂於會稽,晉朝衞將軍謝琰、前將軍劉牢之東討。牢之請高祖參府軍事。


その後直接進言するシーンなども存在している。



[6]宋書巻四十七 列伝第七

劉敬宣字萬壽,彭城人,漢楚元王交後也。祖建,征虜將軍。父牢之,鎮北將軍。


実のところ宋書には劉懐粛兄弟、劉鍾など他にも彭城郡出身の劉氏はいるのだが、彼らについては殊更に劉交の子孫である、と語ってはいない。となるとこの記事を信じれば劉裕と同祖となるだけの血縁がどこかに載っていても良いはずなのだが、それも一切ない。ついでに言うと劉敬宣伝を読むと劉敬宣の扱いはかなりひどく、「恩人の息子だしひとまず載せた」と言った雰囲気が漂っている。



[7][8]宋書巻四十一 列伝第一

孝穆趙皇后諱安宗,下邳僮人也。祖彪字世範,治書侍御史。父裔字彥冑,平原太守。

孝懿蕭皇后諱文壽,蘭陵蘭陵人也。祖亮字保祚,侍御史。父卓字子略,洮陽令。



[9]宋書巻四十 百官志下

郡國太守,內史,相。右第五品。尚書丞,郎。治書侍御史,侍御史。諸縣署令千石者。右第六品。諸縣令六百石者。右第七品。


官職は多く載っているが、ここでは本文の理解に必要な官職のみをピックアップしておく。



[10]南斉書巻一 本紀第一

太祖高皇帝諱道成,字紹伯,姓蕭氏,小諱鬬將……南蘭陵蘭陵人也。……宗人北兖州刺史源之竝見知重。


ここにいる宗人(=親戚)の蕭源之は劉裕の継母、蕭文寿の弟である。



[11]宋書巻四十一 列伝第一

武敬臧皇后諱愛親,東莞人也。祖汪字山甫,尚書郎。父儁字宣乂,郡功曹。



[12]宋書巻五十五 列伝第十五 臧燾伝

晉孝武帝太元中,衞將軍謝安始立國學,徐、兗二州刺史謝玄舉燾為助教。


なおここで臧燾が推挙されたのは晋書安帝紀によれば太元 10(385)年のこと。劉裕 23 歳の話となる。劉裕の名が初めて史書にのぼる 399 年より、さらに 14 年遡っている。劉裕が 36 歳当時にいまだいち部隊長であったことを考えれば、武人としての立場もこの頃にはさほど確立されていなかったと言ってよいだろう。



[13]全宋文 巻六十 宋故散騎常侍護軍將軍臨灃侯劉使君墓誌

曾祖,宋孝皇帝。祖諱道鄰。字道鄰,侍中太傅長沙景王。妃,高平平陽檀氏,字憲子,諡曰景定,妃父暢道淵,永寧令,祖貔稚羆琅邪太守,合葬琅邪臨沂莫府山。


劉道憐の孫、劉襲の墓誌に載る情報である。なお母が琅邪王氏、自らが済陽江氏を嫁に迎え、十人の兄弟がそれぞれ盧江何氏、河南褚氏、琅邪王氏、陳郡袁氏、陳郡殷氏、盧江何氏、平昌孟氏、蘭陵蕭氏、蘭陵蕭氏、済陽江氏とそれぞれ婚姻を結んでいる。



[14]晋書巻八十五 列伝第五十五

初為會稽王驃騎行參軍,轉桓修長流參軍,領東莞太守,加甯遠將軍。


檀道済の父が早くに亡くなったため、兄弟共々養っていた。劉裕が立ち上げたクーデターの共謀者だが、緒戦にて戦死。



[15]

晋書巻一百十一 慕容暐載記

 晉大司馬桓溫……率眾五萬伐暐……溫部將檀玄攻胡陸,執暐寧東慕容忠。

晋書巻七十九 列伝四十九

 及苻堅自率兵次於項城,眾號百萬……詔以玄為前鋒……與龍驤將軍檀玄……等距之,眾凡八萬。



[16]齊故監餘杭縣劉府君墓誌銘

高祖撫字士安彭城內史夫人同郡孫荀公後夫人高密孫女寇

曾祖爽字子明山陰令夫人下邳趙淑媛

祖仲道字仲道餘姚令夫人高平檀敬容

父粹之字季和太中大夫夫人彭城曹慧姬

南徐州東莞郡莒縣都鄉長貴里劉岱字子喬


[17]宋書巻八十一 列伝第四十一

劉秀之字道寶,東莞莒人,司徒劉穆之從兄子也。世居京口。祖爽,尚書都官郎,山陰令。父仲道,高祖克京城,以補建武參軍,與孟昶留守,事定,以為餘姚令,卒官。


16,17の情報を組み合わせることで、劉仲道の兄、もしくは弟が劉穆之の父親と言うことになる。あわせて魏晋南北ブログ「劉穆之の親類」http://gishinnanboku.blog.fc2.com/blog-entry-1607.html にてまとめられている。



[18]宋書巻四十二 列伝第二

常居幙中畫策,決斷眾事。劉毅等疾穆之見親,每從容言其權重,高祖愈信仗之。穆之外所聞見,莫不大小必白,雖復閭里言謔,塗陌細事,皆一二以聞。高祖每得民間委密消息以示聰明,皆由穆之也。


他にも劉穆之への信任を感じさせる記事は多く、劉穆之の死後に劉裕は「穆之に死なれてから、周りが俺のことを軽く扱ってきているようだ」と嘆いている。



[19]

世説新語 徳行二十九劉孝標注

 王氏譜曰:「導娶彭城曹韶女,名淑。

世説新語 品藻六十八劉孝標注

 曹氏譜曰:「茂之字永世,彭城人也。祖韶,鎮東將軍司馬。父曼,少府卿。茂之仕至尚書郎。

雲谷雑記

 王羲之與羣賢㑹于山隂之蘭亭各賦詩……成一篇者一十五人……行參軍曹茂之


なお、これらの情報は魏晋南北ブログ「東晋の彭城曹氏」 http://gishinnanboku.blog.fc2.com/blog-entry-1639.htmlに一括でまとめられている。



[20]宋書巻五十一 列伝第十一

(義熙)八年閏月,薨于京師,時年四十三。


義熙八年は 412 年。数え年なので劉道規の生まれは 370 年となり、363 生まれの劉裕とは七歳差となる。



[21]宋書巻一 高祖本紀上

高祖名微位薄,盛流皆不與相知,唯謐交焉。


また瑞祥志には王謐の部下が劉裕の振る舞いを報告したところ、ただ者ではないと感じ取りよしみをつなぎに赴いた物語も伝えられている。



[22]

宋書巻五十五 列伝第十五

 傅僧祐,祖父弘仁,高祖外弟也。

南齊書巻五十三 列伝第三十四

 傅琰字季珪,北地靈州人也。父僧祐,安東錄事參軍。


[23]宋書巻四十三 列伝第三

傅亮字季友,北地靈州人也。高祖咸,司隸校尉。父瑗,以學業知名,位至安成太守。瑗與郗超善,超嘗造瑗,瑗見其二子迪及亮。


宋書には同じ北地傅氏として傅亮と曽祖父を同じくする傅隆を載せているが、傅亮とは疎遠であった旨が記されている。そこを踏まえると、傅弘仁がどこまで傅亮と親しかったかは怪しいところではある。



[24]宋書巻一 高祖本紀上

(高祖)初為冠軍孫無終司馬。



[25]「南朝における婚姻関係」矢野 主税 長崎大学教育学部社会科学論叢, 22, pp.一-二〇; 1973

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/handle/10069/33686

にて参照可能。



[26]宋書巻七十一 列伝第三十一

徐湛之字孝源,東海郯人。司徒羨之兄孫,吳郡太守佩之弟子也。祖欽之,祕書監。父逵之,尚高祖長女會稽公主,為振威將軍、彭城沛二郡太守。


ここに名前が載るうち、徐佩之は劉裕の娘を娶っている。劉裕の長女が結婚適齢期となる頃には、東海徐氏との関係が非常に深かったとうかがえるだろう。



[27]宋書巻四十二 列伝第二

高祖書素拙,穆之曰:「此雖小事,然宣彼四遠,願公小復留意。」高祖既不能厝意,又稟分有在。穆之乃曰:「但縱筆為大字,一字徑尺,無嫌。大既足有所包,且其勢亦美。」高祖從之,一紙不過六七字便滿。


魏書はこの部分を意図的に改変し、「字が下手だから勢いがあるように見せるため字を大きく書いた結果、一枚の紙に数文字しか入らなかった」を「僅かな文字しか知らなかった」に変更していると思われる。そもそも弟の劉道憐の初任官が謝安の息子、謝琰の役所詰めであり、文盲であることが許される家柄ではない。



[28]

史通巻六 浮詞第二十七

 心挾愛憎,詞多出沒,則魏收是也。

史通外編 巻十七

 魏收深嫉南國,幸書其短,司馬叡傳,遂具錄休文所言。

史通外編 巻十八

 蓋左丘明、司馬遷,君子之史也;吳均、魏收,小人之史也。


とにかく毀誉褒貶が激しい書、と言う評価。内田吟風などは論文「魏書の成立に就いて」東洋史研究 (1937), 2(6): 513-541において「徒に同書の全体に対して其の信憑性を危惧し、史料としての使用を回避する如き事は全く解消すると信ずる」と論じている。要約すると「あんま全体を疑ってかかるもんじゃないよ、部分部分を見れば、正しいことも書いてある、……と、思う!」と語っている。



[29]宋書巻一 高祖本紀上

十二月,牢之至吳,而賊緣道屯結,牢之命高祖與數十人覘賊遠近。會遇賊至,眾數千人,高祖便進與戰。所將人多死,而戰意方厲,手奮長刀,所殺傷甚眾。牢之子敬宣疑高祖淹久,恐為賊所困,乃輕騎尋之。既而眾騎並至,賊乃奔退,斬獲千餘人,推鋒而進,平山陰,恩遁還入海。


十数人で、数千人の敵のもとに偵察に行った。見つかって囲まれたが戦い抜き、援軍の到着を得た。援軍と共に追撃し千人余りを斬った。数千人を相手を相手に生き延びるのは、確かにすさまじい武勲である、と言える。しかし。



[30]資治通鑑 巻一一一

劉牢之擊孫恩,引裕參軍事,使將數十人覘賊。遇賊數千人,即迎擊之,從者皆死,裕墜岸下。賊臨岸欲下,裕奮長刀仰斫殺數人,乃得登岸,仍大呼逐之,賊皆走,裕所殺傷甚眾。劉敬宣怪裕久不返,引兵尋之,見裕獨驅數千人,鹹共歎息。因進擊賊,大破之,斬獲千餘人。


司馬光が、なぜかやけに活き活きと小説を描いている。どうして谷に落ちたとわかったのか、どうして崖を上れたのか、どうして劉裕以外はみな死んでいるのか。ひとりで数千人を追い立てるとはどういう状態なのだ。どうしてこんなことになってしまったのか。



[31]十八史略 巻四 南北朝

嘗遣覘賊。遇賊數千人,裕奮長刀,獨驅之,衆軍因乗勢,進擊大破之。


十八史略の原文になかなか当たれないと難儀していたのだが、考えてもみれば研究に寄与するタイプの書物でもないことを思い出した。

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