第4話


『さあ、みなさま、お待たせいたしました。続いてのプログラムは、二年学年種目・騎馬戦です。この学校の古い歴史から脈々と受け継がれる伝統的な競技で、勇ましい男子たちの組み合いは迫力満点。今年の合戦も、ひと時も目が離せません!』

放送部による紹介が行われている後方で、ぼくら青団の選手は赤団席と青団席の間に設けられた入場門に待機していた。

すでにぼくらは騎馬を作り、あとはいよいよ合戦の狼煙となる太鼓の音を待つばかりとなった。

騎手は簡単にはちまきを奪われないよう、頭にきつく巻いていた。

ぼくを含め、各団の大将は一目でわかるように団の色のゼッケンを身につける義務があった。ぼくは青いゼッケンを着ている自分が、他よりも注目されるということを意識するだけで緊張がまるで止まらない。


この位置からだと、ほかの団の様子は確認できないけれど、赤団の大将が誰かってことはうっすら予想できていた。

何か因縁めいたものをぼくは感じ取っていた。

やつの顔を想像しだすと、急激に心臓がバクバクし始める。これまでのことがいろいろフラッシュバックしてきていた。


彼に見くびられていると思っていること、階段ですれ違ったこと、冷たい目のこと、お昼のこと、見つめ合って沈黙したこと、息が詰まるあの廊下にいたこと、そして教室の中にいたあの人のこと。

脳がショートしそうだった。

冷静になれ。冷酷になれ。

静かに行こう。いつも通りのお前でいろ。

何も考えるな。無視をしろ。

集中の糸を、切らすな。

その糸は切らすな。

切れたら終わりだ。

切らすな。切れるな。

張り詰めたまま、切らすな。

そうだ。その調子だ。

キープ。キープ。キープ。

それでいい。それでいい。

それでいい。

そのまま。そのまま。

そのまま。

保て。


ぼくは二度三度深呼吸をした。むせ返るような熱気が砂塵をまとって、肺の中に充満していった。

午後の暑さもピークを迎え、ぼくのこめかみから汗が一筋垂れた。ぼくは日焼けした腕で汗をぬぐい正面のテントを見据えた。

そのとき、何の前触れもなく、ぼくの頭皮に一滴の水が落ちてきた。まさか、こんなかんかん照りの日に雨なんてわけはないよな、と思って上を見上げると、ちょうど赤団の団席の最上部の端の鉄骨から、安藤さんが身を乗り出してぼくを見下ろしていた。


「」

息が、止まりそうになった。

どうしてそこにいるんだろう、と思った。

確か前、購買部で会ったときもそうだったよね。

いつも唐突に現れるんだね、君は。

夏の、女の子だ。

そのくせ、名前は芙雪だなんておかしいなあ。

麦わら帽子をかぶった彼女は水の入ったペットボトルを持っていた。ぼくが雨だと思ったその一滴は、なんの神秘でもない、単に彼女が零したものだった。

だけども、それはきっとぼく以外誰にも気づかせないための可憐な女心であり、ほのかに薫る恋のフレグランス。夢と希望の王国。ピタゴラスの定理。

彼女の視線がぼくに定まったとき、その唇がまばたきに合わせてゆっくりと動いた。


が・ん・ば・っ・て


ぼくもそれに応えるように、口だけを動かした。


あ・り・が・と・う


声として聞こえないメッセージでも、彼女に気持ちが通じたことは確信できた。

安藤さんは気恥ずかしそうに笑うと、あのときとまったく同じように、ぼくに向けてピースをした。次の瞬間には目にも留まらぬ速さで身体を戻し、団席の内側に隠れてしまった。


たったそれだけのことだったけど、ぼくの中のもやもやを取り払うには十分だった。

今更ながら、本音を言わせてもらえば、今日の体育祭に対してぼくは冷めていた。

みんないろんな思いを抱えて、この体育祭に臨んでいるともっともらしいことを言ってみたけど、自分はそうじゃないと思っていた。


だけど違った。

払いのけた煤の下には、長い間手付かずだったひとつの箱があって、その箱の中には懸命に光ろうとするひと掬いの思いがあった。

そしてぼくはその思いをかたちにするために、今ここに立っていることを理解した。


道のりは遠かったけど、ようやくここまで来たのだ。

「いよいよだね。緊張する」

「ああ、そうだな」

「ねえ柏木」

「どうした大将」

ぼくは自分を支えてくれる友人に呼びかけた。彼はいくさに臨む武士のような真剣な面差しをして目の前のグラウンドを見つめていた。

「この戦争が終わったら、ぼくさ」

「まさかの死亡フラグかよ」

さすが。こんなときでも突っ込む余裕があるんだね。

「いや、まあ、たいしたことじゃないんだけど」

「死ぬなら今のうちに言っとけよ」


空気はまだまだしつこい夏のにおいや乾いた草の香りがしていて、理科室の窓際にあるビーカーが逃げたくなるほどの暑さがぼくらを包み込んでいた。


「全部が終わったら、長かったオナ禁をやめようと思うんだ」


「ぶっ」

予想外すぎたのか、柏木は吹き出した。

「お前……こんなときに何言ってんの?」

まあ、なんとなく。

「うちの大将は呑気なもんだなあ。まったく羨ましいもんだねえ」

じんじんと音がしそうな太陽の下、戦場となるグラウンドにけたたましい太鼓の音が鳴り出すと、各入場門より血気盛んな騎馬たちが高らかな鬨とともに一気に放出されていく。

「で、何日目なの?」

「絶対言わない」

「言えよ」

「いやだ」

「馬から落とすぞ」

「やめて。洒落にならないから」




青団は団席に一番近いところに待機していた。赤団は東側のテントと団席の間、黄団は西側のテントと団席の間に待機していた。

上から見ると、青団と赤団と黄団が巨大なトライアングルを作っているように見える。これによって、相手の動向は一目でわかるようになっていた。

「いいか。開始の笛が鳴ったら、まずは大将騎を中心に全騎が集まれ」

開始寸前、ぼくの斜め前方の騎馬に乗る椎名が指示を出した。

ぼくらの注意は自然と彼に向けられる。

「そうすると向こうの連中は不思議に感じ、俺らは注目の的になるだろう」

「どうしてわざわざそんな矢面に立つようなことをするんだ。これじゃ、自分たちを狙ってくださいと言っているようなもんだろ」

と、ぼくの胴となる柏木が物申した。確かに彼の言うことは正しかった。

椎名には、勝利を我が物とするための権謀術数でもあるのか。

「いいんだ。狙われたほうが好都合なんだから」

「どういうことだよ」

「そっちのほうが、相手も余計なことを考えずに突っ込んでくるからな。変に間合いをはかられると相手もそれなりの策を練ってくるに違いないし、厄介だろ」

「つまり、考える猶予を与えないままどんぱちおっぱじめようっていう魂胆なわけかよ。また委員長にしては大胆な作戦だな」

「ま、先手を打つに越したことはないだろ」

随分とトリッキーだけど、ほんとにうまくいくの?

「さあな。試合は生き物っていうし、何が起こるかは誰にもわからん。だが少なくとも、序盤に植えつけられた印象はその後の展開を心理的に大きく左右する。そういう刷り込みができれば重畳だね、俺としては」

椎名の目には、この先のことがどんなふうに見えているのだろう。どんなビジョンがあってどんなシミュレーションがあって、誰が生き残っているのだろう。彼の未来予想図は信じるに値するものか。

「って言ってもなー、うーん」と、柏木は腑に落ちない様子だった。

一方、ぼくは椎名の言うことを信じようと思った。

やってみようよ。一致団結作戦。

「マジか、大将」

散り散り単騎で挑むと、やはりぼくたちは分が悪い。それよりはかたまりで行動したほうが少しでも勝算がある気がする。

「それはまあ、一理あるな」

最悪、大将がやられなければ勝機はゼロじゃない。いざというときはぼくがどうにかするから、今は椎名の作戦に賭けてみよう。

「『ぼくがどうにかする』って、動かさなきゃいけないのは俺たちなんだからな」

頼んだよ、馬。

「はいはい、どうせ俺たちは馬ですよ」


『まもなく騎馬戦、試合開始です。応援席のみなさま、一緒にカウントダウンをお願いします!

10!

9!

8!

7!

6!

5!』


「──うひぃ、俺心臓ばくばくしてるわ」

「今から始まるんだな、って感じがしていいじゃないか」

「赤団ほんとゴツいよな」

「黄団くらいには勝ちたいけどねー」

「上でもたつくなって」

「大将、吐くなよ」

「最初真ん中だよね」

「ああ、ついに始まるのかあ」

「なんとか一人くらいははちまき取りたいな」

「絶対痛いんだろうなー」

「ちゃんと骨は拾ってやるよ」

「殺すな殺すな」

「じゃあ生きろ」

「お前もな」


『4! 3! 2! 1……──』


「行くよ、みんな」


『──試合開始!』

笛の音が遠くに響いた。



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