いろはにほへと

側臥暇人

いろはにほへと



紅葉の頃合になると、毎年この道を通る。

それはもう、吸いつけられるように。



どんな時も殿を務めようとした彼女は、朝の霞と書いてアサカと読んだ。

飛び抜けた美貌をもつミス・濛妄中に相応しい可憐な名前だと、そう思った。



修学旅行が日光に決まった時は、実に面白くないと不貞腐れたものだった。

三年前と同じ場所では気持ちも発奮しなかったのである。

そんな僕の心情を笑みを湛えながら清らかにも変えていったのは何を隠そうアサカだった。


「そんな暗い顔しないでよ」


朗かに彼女が言う。


「別に…暗い顔なんかしてないよ」


「そう?だったらいいけど」


くすくすと笑う彼女の横顔には得も言われぬ感情を昂らされる。


徳川家康を祀った社寺を眺め、見慣れぬ緑の中を歓談しながら歩いた。

お土産を買い、家族の話をした。

二泊三日はあっという間だった。



二日目の晩、こっそり部屋を抜け出してアサカと待ち合わせた。

趣のある古びた旅館の隅で、その背徳感と押し寄せる興奮で背筋を震わせ、小さな声の会話を続ける。

時折笑い、時々涙するアサカに僕はもう、夢中だった。



三日目。

遂に僕たちは短い旅行から帰ることになった。

荷物を携え、バスに乗り込み、皆々思い出を語り、楽しいひと時を過ごしていた。


忘れもしない十四時二十二分。

バスガイドがかの名所、いろは坂の話題に差し掛かった時だった。

四十八回のカーブを経て、下る。

その途中で、とてつもない勢いの風がわっと吹いた。


浮揚する感覚。

時間をゆっくりと感じ、世界の全てがパラパラ漫画を一コマずるめくるように進んでいった。


大きな衝撃を覚えた後に混乱から回復した僕の頭は至って普通の景色を描画していた。


ふと窓に目を向けるといろは坂は既に背にあった。


疲れが祟って夢を見たのだと思った。

そしてアサカに話しかけようとした。


いない。

アサカは影すら失っていた。


アサカの座っていたシートは隣の男子の荷物置き場となっていた。


僕は慌てた。

慌てて、ふと頭によぎった。


全てが、夢だったのか…?



後から確認したが、クラスメイトも教師も誰もアサカを知らないといった。

一番に惚れて彼女をミス・濛妄中に押し上げたサポーターの男子さえも。



それから毎年秋になると何かに背中を押されるように僕はいろは坂に向かっていた。

ここにアサカがいるような気がして。



ひゅう、と優しい風がフロントガラスに吹き付けていた。

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いろはにほへと 側臥暇人 @sokuga_himajin

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