『考える文芸部』

かきはらともえ

『文芸部の出し物相談』




「いまどきバッドエンドはもう流行らないんだよねえ」

 わたしがそう言われたのは、文化祭を前にしたときだった。

 文芸部に所属しているわたしは部長からそんなことを言われた。


 文化祭。

 文芸部は部員それぞれが短編を執筆しっぴつし収録して出版するという企画だった。


 文芸部らしいと思いながら、わたしはひとつのプロットを作った。

 プロットというものは、全体構想みたいなものである。

 どうにもいけない。

 専門用語を当たり前のように使ってしまうのは悪い癖だ。その業界にいるとどうしても常識的な知識になってしまう――業界に関係ない者からすると全然通じないことだってある。

 たとえば、もはや有名になり過ぎているダイイングメッセージという用語もぴんと来ない人も珍しくない。

 ハウダニットやフーダニットやホワイダニットなんてもっと通じにくい。

 そうでなくとも、当たり前のように思っている交感神経や副交感神経の違いや、アレルギー性鼻炎薬を服用すると眠くなるなどのことだって通じないことも多い。

 マンホールというものはあのふたのことではなく、つつになっているくだのほうを指しているということや、県や市によってマンホール内に設置する足場の位置が定まっていたり、マンホールの角度が決まっていたり――ついつい自身が日常的に触れていることを当たり前のように言ってしまうことがある。

 昨今さっこんではアニメーション作品がいわゆるオタクという層以外にも着目されるようになったが、ここで意外な弊害へいがいがあった。

 漫画や小説、アニメーション作品に触れてきた者ならば『ああ、これはこういうジャンルの作品だ』と判断することができるが、その基礎知識がないので『いったい何が起きているのだろうか?』と困惑することがあるらしい。

 いわゆるタイムリープものなんてその最たるものだと言えるだろう。

 自分だけが時間をさかのぼって問題の解決を行うという非日常を、経験する機会はない。フィクションに達者たっしゃなものであれば、それを体験していなくとも知識として持っているため、判断はできるが――その知識があるのとないのとでは大きく違うと言えるだろう。

 そして、その『知識がある』というのはひとつの弊害へいがいにもなり得る。

 フィクション作品があり触れていて、誰でも触れることができる機会の多い現代において――誰も彼も目がえている。

 昔からバッドエンドで終わる物語はあり触れていたが、今ほどバッドエンドという言葉が当たり前のように使われて、日常的に認識されているということはないだろう。

 子供の頃に『浦島太郎』を読んで『これはバッドエンドものだな』なんて思わなかったように――今から遡って考えればあれはこういうジャンルだなということはある。

 だからわたしとしては、この珊瑚さんごしょう部長の言うこともわからないではない。

 しかしながら、それでもわたしとしては決してバッドエンドを書こうと思っていたわけではない。

 プロットを立てつつ、物語の行く末を考えて『この物語ならこうしたほうがいいな』と思ったからそういうプロットになったのだ――『どうして監督かんとくはこのジャンルの作品を作られるんですか?』と聞かれて『いやいや、違うんだよ。私が撮りたいものを撮ったらこうなっただけなんだ』と返答した人物もいたという。

「――まあ、ジャンルが細分化されてきているからね。何をしてもどれかのジャンルに該当しちゃうよね」

 植木鉢うえきばちちゃんがプロットを見ながら言った。部室にやたらと観葉植物を運んでくるからそんなニックネームがついた同級生の女の子である。

「どのジャンルと言いづらくても、無理くりにジャンル分けしちゃうものだからね。これは『新本格だ』とか『ライトノベル』とか『セカイ系』とかってね。『わからないこと』や『存在しているもの』に名前をつけて『わかるよう』にするのは仕方ないことだよ」

 それにねえ、と肩をすくめる植木鉢ちゃん。

「ジャンル分けできないような滅茶苦茶をしちゃうと『伏線がない』とか『布石がない』とか『定石を無視している』とかって言われちゃうからね」

 ちなみに植木鉢ちゃんは短編を執筆しっぴつしない。

 文芸部にいるからといって、みんながみんな物語の語り手であるとは限らない。植木鉢ちゃんは今回、編集者的な役割になった。

 デザインを美術部に依頼したり、コンピュータ部でパソコンを借りて全体のレイアウトをしたりと。恐らくは一番ハードな役割である。

「でもねえ」

 とわたしは嘆息たんそくする。

「やっぱりあんなふうに言われちゃうと、このまま行くっていうのがね」

骨董品こっとうひんちゃんは天邪鬼あまのじゃくだからね。物語なんてものは自己満足でしかないのだから、人の自慰じい行為をごちゃごちゃ言われたところで気にしてはいけないんです」

 植木鉢ちゃんは淡々と直接的な表現を使う。

 確かに気にしてばかりではいけない。

 ある程度は自由であるべきだ。

 受ける印象なんて人によって、それぞれなのだから。

 そのとき、思い浮かべるものと形にできるものは違う。


 たとえば『二月二十九日』と聞いて『閏年』と考える者もいれば、それを『四年に一度』と捉える者もいる。更にそこから発展させて『こち亀に出てきた登場人物』という者もいれば、『オリンピック』という人もいるだろう。これを物語としてするとき、四年に一度しかこない恋人の命日を描く人もいれば、四年に一度に目覚める怪獣の物語を描く者もいる。

 それは『最高のお祭り』の場合でも、それはまたあるいは『Uターン』の場合であっても、『拡散する種』でも、だ。

 少し作られる瞬間が違っただけでも内容が大きく違ったかもしれない。

「わたしが思うにバッドエンドはともかく、『どんでん返し』ってかなりずるい手法だと思うんですよね」

 ミステリ小説における叙述じょじゅつトリックのような納得のできなさがあります――と植木鉢ちゃんは続けた。

 いわゆる信用できない語り部だが、視点がそこにしかないのだから信じざるを得ない。

 ――

 これには登場人物たちの物語以外の、『作者』という存在の意図が大きく関与している。

 これを卑怯ひきょうだというふうに取られることだってあるだろうけど、それもこれも物語である。

『どんでん返し』と聞いたときにバッドエンドに向かっていくような物語を想像する者もいれば、忍者屋敷の絡繰からくりのことを想像する者もいる。

 固定観念に縛られる必要はないし、とらわれる必要もない。

 枠組みなんて窮屈きゅうくつなことを考えるべきではない。

 物語は、贅沢ぜいたくであるべきだ。


 同時に、わたしはこんなふうにも思う。

 こんなふうに物語の在り方を考えることができて、話し合うことができる仲間がいるという今が幸せであると。

 創作において、語り合う仲間がいるというのはかけがえのないものである。


 たとえ、これが

 こんなふうに語り合えるのは夢のようで、憧れだ。



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『考える文芸部』 かきはらともえ @rakud

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