第15話 再会

 私はたじろいだ。どんな顔をして声をかければいいのだろう?

 俯いてやり過ごそうと思った瞬間、「この世界は選択の連続」という天使の言葉が頭の中をぐるぐる回る。そうやって私は逃げてきたんだった。向き合うことから逃げてきた。その結果が私だ。今の私だ。

 そう気づいたとき、私は無意識に立ち上がった。

 「あの、先生!」

 彼はハッと驚き、歩みを止めた。しばし逡巡したのち、

「あぁ…、翔也くんのお母さん」

軽く会釈をすると、笑顔で私の方に歩み出した。

 それは、私にとっても小さな一歩だった。彼が私を覚えてくれていたこともうれしかった。

「翔也くんはお元気ですか?」

と尋ねられて、

「元気と言えば元気ですけど…」

と中途半端な返事をした。その言葉で翔也が学校に行けていないことを察してくれたようだ。

「もう何年前になるんだろう?この公園で、パジャマ姿の翔也くんに会ったときはビックリしましたよ。近所の方から学校にお電話いただきましてね。パジャマで歩いている子どもがいるって」

 その電話をかけたのは天使だったのかもしれない。

 「何となく懐かしくてこの公園を通ったらお母さんがいるものだから、驚きました」

 私は勇気を出して、先生を近くの喫茶店に誘った。彼は少しの時間ならと快諾し、公園の隣にある喫茶店に場所を移した。お世辞にもおしゃれとは言えないその場所で、向かい合わせに座る。

 「あの…、その節は失礼いたしました。せっかく先生に来ていただいたのに、私、失礼な態度を取ってしまいまして…」

私は深々と頭を下げた。先生は慌てた様子で、

「やめてくださいよ、お母さん。そんなことは、僕らの世界ではよくあることですから」

「でも、ちょうど今朝、翔也に叱られたんです、私。先生に恥ずかしい態度を取ったって!」

 「そんな小学校のときの話を急に?」

私は黙ってうなづいた。彼はそれを確認すると、運ばれてきたコーヒーを一口すすってから、口を開いた。

「翔也くん、ずいぶん我慢してたみたいなんですよね。彼ね、大人なんですよ。小学生だったけれど、頭は大人っていうのかな。全部わかってる感じでした」

「全部わかってる?」

 「そう。彼ね、すごく無理してたんです。いい子でいなきゃ、いい子でいなきゃって」

 私は息子の知らない一面に触れたわけだけど、その喜びよりも悲しみの方が大きかった。

 「あるとき、話をしてくれたんですよ。自分が好きなことをすると、みんなが困るんだって。一番、困らせてしまうのはお母さんだって。幼稚園のとき、いつも謝ってるお母さんを見て悲しかったって言うんですよね。それで、小学生になったら、いい子になろうって心に決めたんだって」

 私のためにいい子になろうとしたの?私を悲しませないために?その言葉が一層私を苦しめた。

「翔也くんはがんばり屋さんだから。全部自分で抱えてしまう。それがあの時は悪い方向に出てしまいましてね。班で勉強していたのですが、自分でやるって聞かなくて、そのうち班の子どもたちと揉めましてね」

「全部抱え込むのは、私に似たのかも…」

 ぽつりと一言、つぶやいてみる。その言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのかはわからないけれど、彼はそのまま話し続けた。

 「僕の力不足でした。本当に」

と言って彼は俯いた。

「良い成績を取らないといけないって彼は言うんですよね。班でやることだから、他の子に任せておいたら良い成績が取れないって言うんです。それで、みんなが怒ってしまって。僕がもう少しうまく諭していれば、こんなことにはならなかったんです」

 私はその頃、翔也の成績ばかり気にしていたように思う。運動があまり得意ではない翔也だったけれど、勉強だけはできた。ことあるごとに「がんばりなさい、がんばりなさい」と言い続けてきた。

 そんな翔也をひどく叱ったことがあった。小学校二年生のとき、通知表に一つだけ△がついていたのだ。国語だったか算数だったか、細かなことなどもう覚えてはいない。

 けれど、私はその△がひどく情けないものに見えて、彼を叱った。

「本当に努力してるの?努力していたら△なんて取らないよ」

と怒鳴った。彼のためをと思って、厳しく言った。

 そんな私を旦那はなだめた。翔也だってがんばってるよ、と言う。その言葉がさらに私を傷つけた。翔也のことを考えているのは私だけじゃないか。そう思うと悔しさが倍増した。

 「翔也くんは、どうしたら△を取らないか。そればかり尋ねるんです。その頃からかな、グループの活動がうまくいかなくなったのは」

 「いじめじゃなかったんですか?」

先生は困惑した表情でこちらを見返した。

 「いえ、本人がいじめと感じていれば、それはいじめです。ただ、彼は自分が良くないことはわかっていました。その点で、彼は大人でした。でも、怖いんだって。悪い成績を取るのが怖いんだって言うんですよね」

 私は自分自身を呪った。翔也を苦しめていたのは私だったのだ。

 膝の上でぎゅっと握りしめたコブシの上にポタポタと涙が溢れる。彼は喫茶店のおしぼりを私の前に差し出した。

 しばしの沈黙が二人の会話を遮り、食器のぶつかる音だけが耳に飛び込んでくる。

 「私なんです…」

弱々しい声がその沈黙を破った。

「私、あの子に勉強しなさい、勉強しなさいって…。あの子に言い続けてました。怖かったんです。成績が良いことだけが自慢だったんです。成績が悪くなったら、他のお母さんに負けちゃう感じで怖かったんです」

 先生は黙ってそれを聴いてくれた。ひどい母親だと思っているのだろうか。いつの間にか空になったコーヒーカップを何度も口に運ぶ。彼もまた、思案に暮れていたようだ。

 「みんな、愛なんですよね…」

彼はポツリとつぶやいた。

「みんな、愛?」

私はそのまま尋ね返す。

 「翔也くんと公園で会ったあの日。彼は泣きながら言うんです。お母さんに嫌われた、お母さんに嫌われたって。彼はお母さんに嫌われたくなかったんです」

私は完全に言葉を失ってしまったらしい。

「お母さんはあなたのことを嫌ってなんかいないよって伝えても泣きじゃくるばかりで。それからは家には帰らないの一点張りで。それで、僕らも困ってしまって」

 だから、旦那の会社に電話をかけたのだった。私、一人で怒ってたんだ。それを思うと、また情けなくなった。

 「翔也くんはお母さんを愛してましたし、お母さんも彼を愛していた。ただ、少しだけボタンを掛け違えてしまったのですね」

 それから、どれほどの沈黙が流れたのだろう。私の涙が枯れるまで、彼はただ黙ってそこにいてくれた。

 「あの…」

 二人同時に声を出して、笑みがこぼれた。

 「あっ…、すいません。先にどうぞ」

と彼に促されて、私は言葉を紡いだ。

「今度、よかったら翔也に会いにきてくれませんか?あの子も喜ぶと思うので」

それを聞いて彼も、

「僕も同じことをお願いしようと思ってました」

と言った。彼の瞳も赤く潤んでいることに、ようやく気がついた。

 「あっ!もうこんな時間!ごめんなさい、もう行かないと」

彼は伝票を掴むとそそくさと立ち上がった。

「今度、ご連絡します。あっ、これ名刺です」

と言って無造作に名刺を差し出した。そして、軽く会釈をすると、急ぎ足でレジへと向かった。

 一瞬の出来事に返事もできぬまま、名刺に目を落とした。それは肩書きのない不思議な名刺だった。

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