第3話 六年後の春の日

「今日で九日目だ」


 それだけ言い捨ててイルザークはドアを閉めた。


「ちょ、ちょっと先生、先生ー!?」


 思わず飛びついてドアノブを掴むが、魔法かなにかでドアが開かないようになっているらしい。ガタガタ揺らすがびくともしなかった。

 無駄だと解っていてもノックせずにはいられない。

 しかしやはり反応はなかった。


「九日目って、なにが……」


 不可解なイルザークの言動に心の底からそんな困惑を零したリディアだったが、次の瞬間はっと思い出した。

 出来のよくない脳みそは、すっかり人生の一大事をお空の彼方――否、天海の彼方へと追いやっていたのだ。


 世界に〈穴〉が開いて、今日で九日目。

 日本に帰るならこれが最後の機会だ。


 リディアのなかにはずっと変わらない答えがあったし、アデルでさえ口を挟むのは諦めたようだった。あとは〈穴〉が閉じるのを待つだけだ。

 待つだけ、だが。


 ――面倒でも、真摯に。


 ココと最後に交わしたまともな会話がそれだったことを思うと、自然、目線は下がっていく。

 そのリディアをじっと見つめていたアデルは、彼女の体の横にだらりと垂れていた細腕を掴んだ。


「行こうか」

「アデル……でも」

「行こう」


 いつになく強い響きの声に背中を押される。

 六年前とはすっかり逆だった。アデルはリディアの手を引いて、迷いなく森のなかを突き進んだ。


 今度こそ、二人が生きていくべき世界を定めるために。




 春の、匂いたつような緑を湛えた森の影を踏むように、二人は歩いた。

 梢のあいだから零れる陽射しは、今日も天海の水面を通してゆらゆらと揺らめく。僅かに右脚を引くアデルの歩みはリディアよりもゆっくりだ。いつの間にかリディアは彼の歩速に合わせるのが当然になっていた。

 彼の隣をのんびりと歩くのが好きだった。

 一人で出歩くときよりも、じっくりと世界に触れられる気がして。


 死の気配すら感じられそうなほどの静寂を、わざと切り裂くようにアデルは足音を立てる。木漏れ日を弾いたアデルの髪が金色に染まる。かすかに吹き抜ける風に、天海のくじらの吐息を感じる。


 思えば、〈穴〉に落ちた日から世界は一変してしまった。

 初めて触れたアデルの激情、罪悪感。平穏だったはずのオクに訪れた魔の手先。リディアから最も遠いところにあったような悪意の深淵。ジャンの負傷に、ココの危篤。知らずにいたザジの過去、イルザークのもう一つの顔。


 ひとつひとつを紐解くように心のなかに反芻していると、前を行くアデルが歩みを止めた。

 周囲に広がる景色は確かに、九日前、つくしを採ろうと一歩踏み込んだ場所だ。

 つないだ手に力を入れてみると、優しく握り返される。


「アデルはまだ、わたしが日本に帰ればいいと思ってる?」

「思ってるよ。魔王復活の可能性、先生が《黒き魔法使い》だった事情を考えても、この世界はけっして平和じゃない。いまとなっては日本のほうがましだ」

「一緒に帰るつもりは、ないんだね。相変わらず」

「言ったろ。ぼくを待つ家族はいない」


 そっけない返事だった。

 アデルはいつもこうだ。同級生たちに絡まれてもどこ吹く風で、言いたいやつは勝手に言ってろ、なんてはっきり顔に書いてある。他人は他人で自分は自分。幼いながらに、彼のその態度がひどく潔く、また尊いと感じていた。

 彼を庇う少女の行為が、少女自身を守るための偽善だと、敏い彼は理解している。

 それでもそのまま庇われてくれた途方もない優しさが、あのときの少女には、涙が出るほど嬉しかった。いまも、ずっと、嬉しい。


「じゃあ、ちょっと行ってくるね」


 畑の野菜を収穫してくるね、と同じくらいの軽さでリディアは笑って、彼の手をほどいた。


「わたし、自分ひとりじゃこっちに戻ってこられない。きっとここで生きていたら、これからもそういう機会はたくさんあるんだと思う。そのたびにアデルに助けてもらわなきゃいけない。魔法も魔術も使えないわたしでは」

「……うん」

「もしそれが嫌だったら、アデルが本当にわたしなんていなくても平気だったら、ここで待っていなくてもいいからね」


 返事は聞かなかった。怖くて聞けなかった。

 アデルが口を開くより先に一歩踏み出して、〈穴〉のなかに飛びこんだ。


(わたしたちは確かに不幸だった。だからあの世界から逃げてきた)


 六年前の雪の日。

 世界のすべてが敵だと感じた。ちいさなこどもたちには、そうすること以外に心を守るすべがなかった。


(だけどもしかしたら、それだけではなかったかもしれないと、いまなら思える……)


 鼻先に触れる空気が変わる。

 魔素の代わりに塵の混じった埃っぽいにおい。大きく息を吸い込んだら咳き込んでしまいそうだったから、リディアは努めて呼吸を浅く保った。

 瞼を押し上げる。

 九日前と同じ場所に立っていた。


 そう、確か、アデルの手が石塀から生えていてびっくりしたのだった。ふふ、と笑みを零したリディアは、道を間違えて迷わないように細心の注意を払いながら、前回辿った道を慎重に遡る。


 燃えたばかりの灰のような色をした大地。薄い空気。天海でなく空、雲海でなく雲。くじらはいない、神々の住まう宮殿もない、空気中に魔素はなく人々は魔法を使えない――そんな、生まれた世界。

 角を曲がって、坂を上る。


 通りかかるたびに吠えてきたラブラドールがいる家。九日前よりも、すこし花びらの落ちた桜の木。いつもアデルにつっかかってきたクラスメイトの家。よくおやつを買いに来た駄菓子屋の跡。知らない一軒家がいくつも増えた住宅街。

 そうやって辿りついた一軒の家の前で、リディアは一度立ち止まった。

 ここはもう、リディアの帰る地ではないのだと決めた。それがこんなにも清々しい。

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