第6話 単純で、向こう見ずで、なんにも持っていない

 栗色の髪の毛を翻しながら森のなかを疾走する。

 アデルが危機感を抱いていた嫌がらせは、リディアの目には視えない。自分が鈍感なだけなのか知らないが、嫌な気配もしない。誰かの使い魔だというけれど、魔力だって感じない。

 彼女には魔法に関するあらゆる才能が与えられなかった。

 それでもココが助けを求めている。ならば走るだけだ。


(アデルのような〈目〉がなくてよかった)


 肩で息をしながらそんなことを思う。

 リディアがもし彼と同じような景色を目にしていたら、こうして後先考えずに飛び出すこともできなかったかもしれない。いま自分が左右の足を動かして必死に道を行けるのは、この目に映るベルトリカの森が、いつもと何も変わらないように見えているからだ。


 なにも備わっていない自分の無力に、初めて感謝さえしていた。

 あの日、リディアが〈穴〉に触れて落ちた茂みを右手に通り過ぎる。

〈穴〉の気配も片鱗も、イルザークがかけたという人祓いの魔法も感知できない。


「アデル、怒ってたなぁ……!」


 できることなら、彼と衝突なんてしたくない。日本に帰るか帰らないかの問題で起きた数日間のふたりの距離は、自分でも驚くほど堪えた。

 アデルが意地悪であんなことを言ったわけではないことくらい、解っているからこそ譲れなくて、譲れない自分が憎かった。


「あいそ、つかされたりして!」


 口で言いながらもリディアは笑っていた。

 だってアデルだっていまにも、師の言いつけや自分たちの身の安全なんてどこか遠いところに丸めてぽいっと捨てて飛び出していきそうな顔をしていたのだ。

 リディアにとってココが編み物とお菓子作りの師匠であり祖母であるとするならば、アデルにとってのココもまた、炊事と掃除の師匠であり祖母であった。


 リディアよりも慎重で、思慮深く、色々なものが視えているからこそ、足が動かないこともある。

 ──それならば彼を縛る枷をなにもかも破り去って、飛び出していく。

 それだけが、アデルよりも単純で、向こう見ずで、なんにも持っていないリディアにできることだった。


《黒き魔法使い》の目撃情報が上がったことから、オクの町は静まり返っていた。

 どの家も固く扉を閉じている。ココのもとへ向かう道すがら見かけた家の扉には、どこも魔除けのキイラギが掛けてあった。

 扉に一振りのキイラギの枝をかけ、あとは敷地の四隅に枝を突き立てる。魔力を注げばそれは簡易な結界となり、力の弱い魔物や病魔は弾くことができる。基本的には魔物に襲われる可能性のある山里や、家畜が喰われないように守るためのもので、効果のほどは微々たるもの。

 魔王の第一麾下を名乗るようなもの相手にどれほど効くのか、リディアにはわからなかった。

 ココの家にも同じようなおまじないがしてある。キイラギの下辺りをどんどんと拳で叩いたが、応えはない。


「おばぁちゃん。リディアだよ、おばぁちゃん、いる?」


 扉に耳を当てる。

 静まり返ったオクの町と同じ。人が身じろぐ気配もない。思いきってドアノブを捻ったが、当然、鍵が閉まっていた。

 普段のオクであれば家のドアも窓も開けっ放しなんて当たり前なのに。


「……おばぁちゃん!」


 嫌な予感が沸々と湧き上がる。

 町がこんな状況のときにココが外出する理由がない。在宅ならココはノックのあとすぐに返事をしてくれる。つまり、家のなかにいて、応答できない状態だということだ。

 とりあえず窓から家のなかを覗こうと、リディアがドアから顔を離したとき、一陣の疾風とともに銀色の巨躯が降り立った。


「オルガ……アデル」


 見上げるほどもおおきな銀の魔物。その背に跨っていたアデルが降りてくるのに手を貸すと、彼は鋭い目でココの家を見据えた。

 険しい表情をしている。

 愛想をつかされる可能性は、いままで十年以上も一緒にいて今更低いだろうと思っているけれど、さすがにあとで叱られるかもしれない。


「おばぁちゃんは?」

「返事がないの」

「……怪我は?」

「わたし? なにもなかったよ。アデルの言う嫌がらせも、特になにも」


 アデルは目を瞑って大きく息を吐いた。

 それから「ちょっと下がってて」と肩を押されたので、リディアは大人しく二歩ほど離れてオルガの隣に身を寄せる。


「オルガ、おばぁちゃんの場所がわかる?」

「魔力が弱々しすぎて、あまり正確には。だが扉のすぐ傍にはおらぬ」

「そう。ならいいか」


 アデルは肩にかけた鞄のなかからシラカバを取りだした。

 シラカバはベルトリカの森に広く生える広葉樹で、薬の調合にも料理にもよく使う。微量の魔力を放出するため、魔術でも触媒として用いられることが多い。

 何本かの枝を麻紐でくくって束ねたものを掌で捧げるように持ち、アデルは低く囁いた。


「──いと慈悲深き風の神、風の精、風の子よ、その加護を与えたまえかし……」


 見る見るうちにシラカバの枝が萎れていく。若葉に萌える葉は朽ちて、水分が抜け落ち、やがて枯葉となってアデルの足元に寂しく落ちた。

 触媒の消失、即ち契約の成立である。風のものがアデルの呼びかけに応えた徴だ。


「この扉を開けてほしいんだ。多少乱暴でも構わない」


 アデルは右斜め上に視線をやりながらそう乞うた。

 彼の〈妖精の目〉には、常人には視ることのできない神々、精霊の姿を映すことができる。恐らくはその中空に、応えた者がいるとみられた。

 微風がリディアの髪を揺らす。

 かたかた、と扉を震わせたあと、勢いを増した風が轟音とともにぶつかった。鍵を破壊し、あわや扉を跳ね飛ばさんばかりの威力だ。

 なんとか持ちこたえた蝶番はぎぃぎぃと瀕死の音を立てているものの、辛うじて扉自体は家にくっついている。

 なかなかの荒業だったが、リディアは呆気に取られる前に家のなかに踏み入った。


「おばぁちゃん!」


 入ってすぐの居間、台所には姿が見えない。その奥の寝室のドアを勢いよく開けると、寝台に上半身を預けるようにして倒れているココの姿が目に入った。


「……アデル! いた!」

「うん。リディアはすぐメイベルさんとウォール医師せんせいを呼んできて。メイベルさんに〈鳥〉を飛ばしてもらって先生にも報せて」


 指示を聞き終える前にリディアは家を飛び出した。二人の能力の向き不向きによって、この場で互いがすべきことは明らかだった。


「オルガはここにいてね!」


 この友はあくまでベルトリカの森を統べるヌシであって、オクの民からすれば畏れ多い神格の魔物だ。不用意に町中を疾走すると却って混乱を招く恐れがあった。

「気をつけて」と低く応えてくれたオルガに手を振るいとまもなく、リディアはメイベルの薬屋を目指す。

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