第2話 面倒でも、真摯に

「……運命は他人が決めるものではない。だもんね」


 たった二日前にリディアの気持ちを軽くしてくれたココの言葉を反芻すれば、彼女はどこか少女めいた笑みでうなずいた。


「うふ。……あなたの帰りを待つご家族には悪いことをしているかもしれないけれど、そうね。あなたがかくあるべしと決めたこの場所が、あなたの運命なのよ」


 ココのすみれ色の瞳が悪戯っぽく瞬く。

 この世界でこの人の娘に生まれていれば、自分はどれほど幸せだっただろうか。そっと心のなかでリディアは嘆いた。

 きっと髪や目の色を理由に周りの人たちが壊れることもなく、世界を越えるほど現実を憎むこともなかった。父も、母も、兄もきっと三人で仲のいい家族でいられた。泣きながら子どもの頸を絞めるほど母が追い詰められることも、兄が罪悪感を抱えたまま生きることもなかった。

 それでも、リディアがあちらに生まれてアデルと出会ったからこそ逃げてくることができた。

 だからイルザークに拾われて、オクのみんなに優しくしてもらえることが、こんなにも尊いように思える。


(わたしがかくあるべしと決めたこの場所が、わたしの運命……)


「よしっ、決めた」


 リディアは両手をぐっと握りしめた。


「アデルがどれだけ帰れって言っても帰らない!」

「うふふ、その意気よ、リディア」

「こうなったらとことんけんかだ! 拳と拳の語り合いだー!」


 謎の方向に気合いを入れはじめたリディアが「えいえいおー」と拳を突き出す様子を、ココは微笑ましく眺めた。

 そして、少女には滅法甘い過保護気味な少年の顔を思い浮かべて、


「まあそんなに長続きしないでしょうけどね……」


「おばぁちゃんなんか言った?」

「いいえ。それはともかくリディア、帰らないと決めたのはいいけれど、それならそうとご家族にきちんと説明しなければいけないわよ」

「…………ええぇ……」


 見る見るうちにリディアの気合いがしぼんでいく。

 しゅるしゅると目に見えて小さくなったリディアに手心を加えることなく、ココは可愛らしく小首を傾げた。


「なんにも話さず音信不通になることと、さようならを言ってお別れすることでは、残されるほうの気持ちは全く違いますからね」


 ずっと後悔していた、と兄は声を震わせていた。

 もとの世界に帰りたいか、父や兄とやり直したいかは置いておくとしても、ここでリディアが切り捨ててしまえば兄はきっとこれからも後悔し続けるのだろう。

 アデルをこの世界に巻き込んでしまった、その罪悪感がいまもこの胸にあるように。

 生きているかも死んでいるかもわからない妹の帰りを待ち続けて、捜し続けて、大人になってもずっと赦されないまま。

 なんだかそれは、ひどく可哀想な気がした。


(かわいそう?)


 ――冷えた塊が胃の底でずくんと疼く。

 兄らしいことをされた憶えもないのに、ずっと捜していた、後悔していた、そんな態度を見せられただけで絆されかけていたというのか。


 兄がどういう罪を感じているにしろ、幼かったリディアは周囲から排斥され、母に頸を絞められ、世界から逃げた。その事実も過去も、替えられるものではない。

 可哀想かもしれない。だけれど、それがなんだというのだろう。

 言ってはなんだが、父と兄に置いていかれてこっちだって苦労したのだ。今更そんな二人のために労力を割くなんて莫迦らしくないか。


「……でも、だって、面倒くさいよ。血がつながっているかもしれないだけの赤の他人のために、わざわざ会いに行くのなんて」

「人間どうしのつきあいなんて面倒くさいものよ。だけれどみんながみんな面倒がって、人のことを一切考えずに自分の楽なほうへ身を任せていたら、いつか全て自分に返ってくるわ」

「情けは人のためならず、だ」

「そう。面倒でも、真摯に。どうしても恐ろしければ逃げてもいいけれど、根拠が自分の怠惰のためならば、きちんと向き合っておいでなさい」


 ココの教えはいつも正しかった。

 野菜やお肉の保存方法も、料理の隠し味も、洋服の染みの抜き方も、編み目がきれいに浮くような編み方も、刺繍の模様がきれいに出るようなコツも、リディアとアデルが教わってきたことのすべて。


「故郷でのことはわからないけれど、オクに来たあなたはいつも笑顔で、丁寧で、真摯だった。オクのみんなもまたあなたに笑顔を返したはずよ。人にわけてあげた笑顔も、丁寧さも、真摯さも、すべてあなたのもとに返ってくるわ。大丈夫、いつものリディアがきちんとお話すれば、おうちのかたも解ってくれます」


 魔力も魔法もない世界で育ったはずの兄は、リディアの言葉をひとつひとつ丁寧に聴いて、うなずき、けっして嘘だと莫迦にしたり笑ったりしなかった。


 ──恭子。

 ──……待ってるから!


 兄妹だというのに相変わらずひとつも似ていなかった髪や目の色も関係なく、恭子と呼んで、おまえの兄だと名乗った。

 真名は魂そのもの。

 あの青年に「恭子」と呼びかけられて振り返った。あの時点でリディアの魂は兄に小指を引っ掛けられてしまったのだ、兄にその気がなくとも。

 ほんとうの親子でなくともこの容姿を褒めて受け入れてくれた人がいる、だけれど、彼も彼でまた家族である事実には抗いようもない。


 すっかり言葉をなくして黙りこんだリディアの耳に、コン、とひとつ空咳が届く。

 視線を上げるとココが口元に手をやっていた。

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