第6話 あなたの手
「ということは、この〈穴〉のつながる先は日本だとは限らないんですね?」
「普通であればそうだ。ただ今回はおまえたちが生まれた世界につながっている可能性が高いと思う」
「なぜです」
「本来〈穴〉は世界中のどこにでも開く可能性があって特別この森に開きやすいといった傾向はない。それがたった六年の間隔でもう一度ここに開いたということは世界の自浄作用が働いたという見方でいいだろう」
自浄作用。先程オルガも口にしていた言葉だ。
「人が世界から消えるということはそう簡単な話ではないのだ。だから世界がその働きを正常に戻そうとする──つまり、リディアをもとの世界に還そうとしていると考えるのが妥当だろう」
ざっ……と、頭のてっぺんから血の気が引いた。
もとの場所に還そうとする、世界の作用。
六年も経ってなぜ今更、そしてなぜリディアが帰されてアデルはここにいるのか、師に問い詰めたいことはいくつかあったがアデルは寸でのところで口を噤んだ。焦って詰め寄ったって、いまここにリディアがいない現実は変わらない。
オルガが鼻先をすり寄せてきた。
「そう蒼くなるな。世界の理は確かに絶対だが、作用に強制力は然程ない」
「……そうなの?」
「うむ。まずはリディアを見つけて連れ戻す。そのあと話をして、〈穴〉が閉じるまでの九日間で結論を出せばいい。帰るも帰らぬも、最終的に択ぶのはおまえたちだ」
「帰らない……!」
自分で弁えていたよりも動揺が大きかったようで、オルガに言い返す語調が荒くなってしまった。
慰めるように赤い舌で頬を舐められる。
「……帰らないよ。帰る場所もとうにない。リディアだってそうだ」
〈穴〉が開いて世界に放りだされて嬉々としてもとの世界に帰るようなら、そもそも逃げだしてなどいない。
両親の死という悪夢から逃げだしたアデルに家はもうないだろうし、いるのかいないのかも判らなかったようなリディアの母親だって同様だ。きっと、突然ひとりで日本に放りだされて、魔法も魔術も使えないリディアは戸惑っている。
一度深く息を吸いこんで、吐いた。
まずはリディアを連れ戻す。〈穴〉が閉じるまで九日間ある。その間に、帰るか帰らないか、決める。――いくらアデルが帰らないと喚いたとしても、択ぶのはリディアだ。
あの六年前の雪の日に、彼女がイルザークの手をとることを択んだように。
アデルが冷静さを取り戻すまでじっと待っていた師に視線を向けると、彼は静かにうなずく。
「本来なら魔力を辿ればすぐに掴まえられるだろうが生憎あれには欠片もない。反則技でいくしかあるまい」
「はい」
「まずアデルは〈穴〉に手を突っ込む。──寝転がって肘まで入れてしまえ。引っ張られないよう、オルガ、しっかり体を押さえていろ」
「うむ」
指示通りまずは地面にうつ伏せて、先程イルザークが手首を沈めた箇所に指先を入れてみる。
土の抵抗も、ほかの感触も一切なく、本当に文字通り穴に手を入れているような感覚だった。〈穴〉に差しこんだ部分は地面に沈んでいるように見えるが、肘から下にはただ穏やかな空気の流れが触れるのみである。
背中にはオルガの前脚が乗った。多少苦しいが、引っ張られないためだというから仕方がない。
「真名を呼べ」
「真名……?」
「おまえたちに魔力はないが真名さえ呼べばリディアには聴こえるはずだ」
真名はそのひとの魂そのもの。
魔素の通うこの世界では魂を縛ることさえ可能になってしまう。ゆえに人は親からつけられた真名とは別に仮名を持ち、生涯それを名乗る。
だからおまえたちも今日からその名は互いのなかに秘め、こちらでの仮名を名乗るといい。──そう説いたイルザークがつけてくれた仮名がアデルで、リディアだった。
真名はこの六年一度も口にしたことがない。
けれど忘れるはずもなかった。
「きょうちゃん」
「声に出すな。よくないものに聴かれることもある。心のなかで呼べばよい」
「……はい」
「目を閉じろ。魂だけ飛ばして捜しに行け。リディアはおまえの手を頼りに帰ってくる」
地面に触れている頬の冷たさも、〈穴〉のなかで揺れる手にかかる穏やかな風も感覚はそのままで、アデルはただ彼女の真名を呼んだ。
(きょうちゃん。……きょうこ)
(恭子。恭子、どこにいるの)
(一人でいきなり放り出されて。きれいな栗色の髪も薄みどりの目も、異物になってしまうあんな世界に)
(あんな……すべてが敵だった、世界に)
(恭子……)
そのとき中指の先端になにかが掠めた。
リディアの髪の毛に触れたと、はっとした瞬間、目を閉じた仄かな暗闇のなかに子猫のような声が響く。
──アデル。アデルなの?
「……リディア!」
ぱっと顔を上げた瞬間、イルザークに頭をぶたれた。
「集中してやり直せ阿呆」
「うっ……はい」
成る程、集中が切れた瞬間、リディアとつながったあの感覚も失せていた。
目を開けたらだめなんだなと自分に言い聞かせつつ、再び意識を〈穴〉に向ける。一度声が聴こえてリディアもこちらを捜しているのだろう、今度は簡単につかまえることができた。
(……恭子)
──やっぱりアデルだ! アデルの手が石から生えてる!
思いのほか元気そうではないか。
がくっと肩を落とした拍子にまた集中が切れたが、その様子を見たイルザークは、なんとなくリディアの無事を悟ったらしい。
「いたか」
「いました……ぼくの手が石から生えてるって騒いでます」
あまりにいつも通りな彼女の反応を聞いてイルザークまで呆れた顔になる。
「そのままリディアを連れて帰ってこい。手を追えばいい」
「わかりました」
無事がわかって緊張の糸が切れたか、三度目の集中はやや難しかった。
──アデル! ああなんだびっくりした、急に手が石のなかに消えちゃったから焦ったよ、ねえこれどうなってるの? 魔法?
(あーもーいいからぼくの手を追いかけて帰ってきて)
──わかった!
〈穴〉のなかで孤独に揺れていたアデルの手を、ぎゅっと掴むものがある。
細くて、だけど柔らかくて、編み物とお菓子作りの得意な、世界でいちばん大切な女の子の手。
間違えるわけがなかった。
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