第4話 この世界のなにもかも

「次はおれたちの話だな」


 兄は運ばれてきた飲み物に口もつけず、リディアの目を真っ直ぐに見つめる。

 あまりの真摯な視線に居心地の悪さを感じて、そっとまつげを伏せた。


「父さんに連れられて家を出たあと、おれはばぁちゃんの家で過ごしていた。それから二年くらい経って、母さんがおまえのことをきちんと面倒見てないようだって連絡がきて、おれたち、おまえを迎えに行く準備をしていたんだ。けどあの年の冬のはじめ、大きな地震があって……」


 そんなことがあっただろうか。

 おぼろげな記憶の海を浚ってみたけれど、あのときは、アデルと一緒に日々を耐えるのに必死で、他のことなど目に入っていなかったように思う。


「家が倒壊して、ばぁちゃんも亡くなって、おまえの迎えどころじゃなくなった。そうこうしているうちにおまえが行方不明になったって連絡がきたんだ。大々的に報道されて、だいぶ長いこと捜索隊が組まれていたんだよ」

「そう……」

「父さんと母さんはそのあと正式に離婚した。おれも父さんと一緒に住むようになって、いまは都内の大学に通ってる。比較的行動に自由がきくようになって、おまえのこと捜していろんなところに行ったり、帰ってきてないかとこのへんを歩いてみたりして、……今日だ」


 兄の眦にひかるものがあった。

 嘘ではない。きっと本当に捜してくれていたのだろう。

 震える声を誤魔化すように横を向いて、彼は「生きていてよかった」とつぶやいた。


「よかった、本当に……。ずっと後悔してた。あのときおれは恭子も一緒に連れて行こうって言えなくて、だからおまえはあんな目に遭ったのだと、だけど一緒に来なかったからこそおまえはあの震災を経験せずに済んだのだと……いろんなことを考えて、頭んなかごちゃごちゃで」

「…………」


 テーブルのうえで真っ白になるほど握りしめられた手の甲に、そっと触れる。

 そうしなければならないと感じた。

 兄の涙も後悔もほんものだった。触れた掌の熱越しに伝わってくる、言葉がばらばらになるほどの痛みが、ひどく苦しい。


「ここにいるってことは、戻ってきたんだよな……?」


 そうであるに違いないと確信している響きに、思わず声を失った。


「疲れたろうけど、電車に乗ったらすぐだから、ひとまず家に帰ろう。警察に連絡して捜索願を取り下げてもらわないと。父さんにも顔を見せてやってくれ」

「あの、……わたし」

「あのときは父さんも混乱していたんだ。DNA鑑定を受けて親子関係が証明されれば、きっと父さんだってお前を引き取ってくれるよ」


 兄の手に触れていた指先から体温が失せていく。

 弾かれたように手を引いたリディアは、驚いた表情の彼から飛び出した言葉に、凄まじい異物感を抱いていた。

 親子関係が証明されれば。きっと引き取ってくれる。


「DNAかんてい……ってなに?」

「ああ、そこからか……」


 戸惑った様子の彼が「おれも詳しくはないけど」と前置きしながら説明したところによると、この世界では、口のなかの粘膜を採取して然るべき施設に送ることで、『この人とこの人には血縁関係があります』だとか『親子じゃありません』だとか、そういうことがはっきりと判るのだそうだ。

 地毛が黒の父と母の間からは当然黒髪の子が生まれるはずが、リディアは薄い栗毛をしていたし、日本人にはほぼ生まれないグリーンの瞳をしていた。だから父はそれを根拠に母の不義を疑って家を出たのだ。

 DNA鑑定を受ければ、父とリディアの血がつながっているか否かはっきりするという。


「親子だったら、お父さんはわたしを引き取ってくれるの」

「そうだよ。あの頃はそこまで民間に普及していなかったけど、最近は私的な鑑定も増えてきているみたいだから」

「親子じゃなかったら?」

「恭子……?」


 リディアはテーブルに手をついて立ち上がった。

 唐突に思い出したのだ。この兄を名乗る青年とすれ違う前、イルザークとアデルからの連絡を待つために、最初に出た小路に戻ろうとしていたことを。

 ──戻らなくては。


「恭子っ?」


 兄の呼ぶ真名に抗って席を立つ。戸惑ったように手首を掴まれたが、渾身の力で振り払った。


「先生はほんとうの家族じゃないわたしたちを救けて、育ててくれた」


 お腹の底が沸騰するように熱い。

 一瞬でもアデルやイルザークのことを思慮の外に置いた自分が許せなかった。魔素マナのない世界で、魔法を使えないこの青年に、ただなんの意図もなく呼ばれただけの真名まなに抵抗できなかった、自分の心の弱さ。


「アデルも先生も、わたしのこの髪や目をきれいだと褒めてくれた。オクのみんなは突然拾われてきたわたしたちを受け入れてくれたわ。この世界のなにもかもから弾き出されたわたしたちのことを……!」


 声を荒げたリディアに、店内の客から視線が集中する。ざわめきのなかに「外人?」という囁きがあったことが耐えられなかった。


 帰りたい。

 ここはリディアの世界ではない。

 ここには、リディアの家族はいない。


「証明されないと家族じゃないというのなら、そんな家族わたしはいらない」


 子どものころよく寄せられた好奇の視線が蘇る。

 この世界はなんにも変わっていない。

 この日本では、十五歳やそこらの少女が明るい色の髪をしていたり、親に全く似ていない薄みどりの目をしていたりしたらいけないのだ。当然、〈妖精の目〉を持つアデルが、他の人には見えないものが視えていてもいけない。

 だからリディアはこの世界では生きていけない。


 足音高く店の出口へ向かったリディアの背に、兄の悲痛な懇願が、八つ当たりのように降りかかる。


「恭子。……待ってるから!」


 聞こえないふりをして、リディアは店を出た。

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