第7話 エリカの花

 町はずれに住むココは肺を患って長く、あまり外出もできないため、リディアがイルザークの薬を配達している。同じようにジャンも、パンや牛乳など食料品を届けているようだった。

 他の家々から少し離れた森の入り口にある小さな白い家のドアを叩くと、少しして「はぁい」と声が返ってきた。


「あら、どうしたの、リディア」


 ドアを開けたココはこてり、首を傾げた。

 リディアたちくらいの年の孫がいてもおかしくない年齢のはずだが、その仕草はどこか少女めいていて可愛らしい。グレイヘアを花の髪飾りでまとめて、ゆったりとしたワンピースを身にまとった彼女は、リディアやアデルにとっての家事の師匠だ。

 同時に裁縫の達人で、リディアが今日着ているワンピースは彼女のお手製だし、アデルが唯一の褒めどころとして先日挙げた編み物やお菓子作りもココから手ほどきを受けたものである。


「どうしたって……なにが?」


 とぼけて首を傾げるリディアをリヴィングに通して、暖炉の脇のソファに座らせると、ココは目尻にちいさな皺をたくさん刻む。


「とぼけたって無駄よ。なに落ち込んでるの」

「…………」


 ぽかんとしていたリディアだったが、ぎゅっと口を引き結び、眉間に皺を寄せ、じょじょに表情を崩していき最後にはへにゃっと眉を下げた。

 頬に手を当てて「あらあら」と微笑んだココは、リディアの髪の毛を優しく撫でつけると、お茶の準備をしにキッチンへ足を向ける。


「今日のおみやげは苹果のパイ……」

「うふ、ありがとう。ちょっと待っていてね」


 見抜かれているのなら元気を装う理由もない。どよよんと沈んだ表情を隠しもせず、リディアは持参した苹果のパイをバスケットから取り出して食卓に並べた。

 その際、卓子の端にちょこんと置かれた一輪挿しが目に入る。

 薄桃色の小さな花が鈴生りに連なるエリカの花。

 配達の帰りだと言っていたジャンの横顔が脳裡に踊った。


「……この花、ジャンが持ってきたの?」

「ええ、そうよ。お店にもエリカの塩漬けのクリームパンが出はじめたんでしょう。昨日のうちに、わざわざ一輪とっておいてくれたみたい。きれいでしょ」


 ジャンは優しい。

 リディアとアデルの前では全くそういう素振りがないけれど。

 リディアの顔を見ればバカだの魔術のセンスがないだの罵ってくるし、アデルには殊更当たりがきつくてひどいことを言うし、自分には魔法の才能があるからと昔から鼻高々だったし、気に食わないところをたくさん並べればきりがないけれど、けっして意地が悪いだけの少年ではない。

 実際のところジャンは年下のこどもたちの相手をするのが上手だし、ココや、病気を患うほかの町民のところに配達に行くのを億劫がらない。


 ――だからこそ。

 だからこそ、胸がむかむかする、この感情は。


「……悔しいぃぃ……」

「誰かになにか言われたのかしら?」


 ぼそっとつぶやいたつもりだったのに、お茶を持ってきたココにはばっちり聞こえてしまったようだった。

 お茶とパイを並べて、向かい合って椅子に座る。

 ココの問いに答えないまま、リディアは手のなかのお茶に視線を落とした。

 紅く透き通る水面に情けない顔をした自分が映っている。

 汚い感情を抱えた、卑怯な少女の顔が。


「アデルは本当なら《学院》に入れるだけの力があるのよ」


 濡れたような黒髪、思慮深い双眸、抜けるように白い肌、凛とした佇まい。

 しんと静まり返る冬の湖のような彼の空気を胸に想いつつ、いつだって魂の奥底で燻っている澱を、リディアは少しだけ吐き出した。


「だけど、わたしには行けない。魔力がなくて、魔術のセンスまで皆無なわたしでは、《学院》には入れない。だからアデルもきっとこの町を出ない。わたしが一緒に行けないから……」


 実際、そうだと話したことはなかった。

 だけれどきっとそうだという確信がリディアにはあった。

 ――たぶん、自分がアデルと同じ立場だったなら、同じようにするから。


「彼を巻き込んでおきながら、わたしはアデルの足枷にしかならないの……」


 悔しい。

 只人のアデルがこの世界にいることも、彼が右脚を引いていることも、黒い髪に黒っぽい目をしていることも、〈妖精の目〉を持っていることも、けっして彼自身の落ち度ではありえないのに。

 イルザークやシュリカが認めるほどのセンスの持ち主で、師の仕事の一部を任されるほどの腕前で、きっとジャンよりもずっとずっと素敵な魔法使いになれる。

 それなのに、片割れのリディアがこうだから、アデルはあんな侮辱に甘んじているのだ。きっと本人は欠片も気にしていないし、「言いたいやつには言わせておけばいいのに」程度に思っているだろうけれど。


 アデルが莫迦にされるのが許せない。

 アデルが莫迦にされる隙を作っている許せないのだ。

 ――あの日、彼の手を取って逃げたのはリディアだったのに。


 震える息を吸いこんだリディアの独白を、なにか光り輝くものでもあるかのように目を細めて聴いていたココは、「あのね」とささやいた。


「置かれた場所で咲くことも、咲く場所を択ぶことも、ぜんぶがその人の自由なのよ。空がそこにあり、水は低いほうへ流れて、そよ風に髪が揺れるようにね」


 無力な自分の紅い頬を睨んでいたリディアは、そこでふと視線を上げた。

 どんな表情でココがそう説いてくれたのか気になったからだ。


「運命というのはね、他人が決めることではないの」そう続けたココは、普段と全く変わらない穏やかな表情をしていた。


「自らの意志で己はかくあるべしと決めたその場所が、あなたの運命なの」


 ばらばらになったリディアの心を一つずつ拾い集めて編みあわせるように、ていねいに、言葉を紡いでいく。

 それはまるで魔法を使うときに用意する隣人たちへの祝詞のような響きをしていた。濁りない心で、自らの一部を差し出して世界の力を乞うための、願いと祈りの呪文だった。


「そして彼自身の意志で決めたその場所が、アデルの運命」


 家の外で鳥が囀るのが微かに聴こえた。

 それにも掻き消されてしまいそうなくらいのかそけき声で、ココは祈るようにくちずさむ。


「きっとアデルは巻き込まれたなんて思っていないわよ。いつも一緒にいるんだから、そういうことはきちんと言葉にして打ち明けておいでなさい」

「……だって、アデルは否定するに決まってる」

「それが嘘か真実か見極められないようなリディアじゃないでしょ?」

「そう、だけ、どぉぉ」


 徐々に言い返す勢いが削がれていく。ジャン相手ならいくらでも反駁できるのに、ココが相手となるとそうはいかないのだ。

 勢いよくうつ伏せて、ごん、と卓子に額をぶつけたリディアを、ココは楽しそうに見守っていた。

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