第4話 〈妖精の目〉
二人が野菜を育てている畑に辿りついた頃、天海のくじらの起こした波が空を覆い、すっかり曇り空になっていた。
明日どころか夕方から降りそうだ。
軒先にかけてある藤篭を腕にかけてアデルを振り返る。
「赤桃、何個くらい?」
「うーん、四つ……五つかな」
弟子たちが苦労に苦労を重ねて作り上げてきた畑は、こぢんまりとしているものの、じゅうぶんに日々の食材を確保できるようになっている。
赤桃の他にもいろいろな野菜や果物を育てているので、春も深まった頃には畑一面が葉っぱに埋め尽くされるほどだ。まだ小さな芽を踏まないように気をつけて奥のほうに進む。
腰ほどの高さまでしかない木には、幅広の緑の葉と、拳大の赤い桃がなっている。
時期的にはすこし早いので実の数は少ないが、これくらいの赤桃で煮込み料理をすると酸味がいい具合にきいて、肉も柔らかくなるのだった。
リディアはワンピースの裾が土につかないよう膝に巻きこみ、低い位置に生る赤桃を見上げるようにしゃがみ込む。
「ふふふー、いい出来。べっぴんさんに育ちましたなぁ。おいしくいただきます」
「べっぴんさん……」
ぶつぶつつぶやきながら赤桃を撫でる少女の横で、アデルもしゃがみこんで木の様子を眺めた。何事にも愛情たっぷりなのは彼女の長所だが、どうか他人に見られるようなところでそれをやらないでほしい。すこぶる怪しい。
「ね、アデル、それ取って。つるつるの子」
「どれもつるつるに見えるんだけどな……」
リディアの指さしたと思しき実を引っ張ったアデルの、柳眉が僅かに歪む。
その横顔にリディアがきょとんとしたとき、彼はもいだばかりの赤桃を掴む手を、背後の何者かに叩きつけるようにリディアの顔の横へ突き出した。
耳もとに彼のシャツがこすれて栗色の髪を乱す。
「……アデル?」
唐突な挙動にびっくりしつつも、鼻先の触れそうな至近距離で不機嫌そうな顔をするアデルの視線が、リディアのさらに後ろへ向けられていることに気がついた。
彼がこういう目をするときは、リディアには見えないなにかが視えているときだ。
呼吸の交わるほども近くで、アデルはけっしてリディアではない何者かを睨みつけながら、小さく「去れ」とつぶやいた。
「リディアに近づくな」
さわ、と空気がそそける。
二人が腰を下ろしている地面の下で、清浄な力が働く。足の裏を通してその気配を感じ取ったリディアは、大地の精霊が動いている、と察してじっと身を固くした。
息をひそめて、身じろぎもせず、数秒。
ようやくアデルがふっと息を吐きだしたので、リディアは恐る恐る尋ねてみた。
「なにか、いたの」
「……まあ、ちょっと、変なのが。びっくりさせてごめん」
ゆっくりと離れていくアデルに「うん、大丈夫」とうなずいて返す。
座り直した彼の手に、先程の赤桃はすでにない。
恐らくは赤桃を触媒にして〈魔術〉を行使し、その変なのを退けたのだろう。空気がざわめいたように感じたのは、大地の精霊が魔素を使役したから。
「……アデルは大丈夫?」
「なにが?」
「ううん。何もなかったならいいの」
魔力を持たぬ只人の子が二人――といっても、リディアとアデルでは出来が違った。
同じことを同じように教わったはずなのに、片割れの彼は、二人にとって馴染まぬ空想であったはずの魔術をひょいと使いこなしている。もともと聡明な子であったことと、師匠の曰くは彼のもつ〈妖精の目〉に起因するのではということだった。
もともといた世界では俗に「霊感がある」とか「幽霊が視える」とかいう分類で、もっぱら彼が同級生にいじめられる要因だったその力は、こちらの世界では〈妖精の目〉というそうだ。
本来目に視えぬ精霊や神々に、目を合わせて直接助力を乞える。魔法使いにとっては稀有な才能であると同時に、只人のアデルが魔術を行使するうえでは強力な優位性となる。
「赤桃が終わったら、あとは玉葱と、葉っぱね」
「うん、わかった」
何事もなかったかのように収穫を再開したアデルの横顔をこっそりと眺めた。
日本人らしい黒髪は男の子にしては長く、うなじの辺りで一つにまとめられている。
白皙のすべらかな肌に、薔薇色の頬。目つきがあんまりよくないので、オクの町の少年たちからはよくつっかかられるけれど、案外大きな焦げ茶の双眸。黒縁の分厚い眼鏡がちょっと野暮ったいが、そんなものでアデルの端正な顔立ちは損なわれない。
この世界に迷いこんできたときはリディアのほうが高かった身長も、いつの間にか抜かされてしまった。
惚れ惚れするほど美少年。
生まれながら栗色の髪の毛に薄いグリーンの瞳をしていたリディアは、純日本人、といったふうなアデルの容姿が昔から好きだった。もう長らく名乗ってはいないが、彼の真名もきれいな響きをしている。こちらの世界にやってきて残念だったことの唯一はアデルをその名で呼べなくなったことだった。
あんまりにも凝視しすぎていたか、彼の視線がこちらに向いた。
「なに」
「べつに。アデルの顔が好きなだけ」
「そう」
興味なさげな相槌だ。普段から「美少年だね」「ほんとに顔がいい」「あっもちろん顔以外も好きだよ!」と愛情表現を欠かさないためかもしれない。
アデルはつやつやに育った赤桃を藤篭に突っ込んだ。
今日の夕飯に必要なぶんは揃ったのか、膝に手をついて立ち上がり、ぐっと膝裏を伸ばす。
「ぼくはリディアの目、すきだよ」
日本人じゃないみたいな薄い色の瞳。
呼吸にも等しい、何気ない口調で彼女の劣等感を柔らかいものに変えてくれる片割れに、にっこり笑って返した。
「えへへ。知ってる」
「ん。じゃ次、玉葱ね」
「はーい!」
リディアの元気な返事がとうめいな空に消えてゆく。
花壇に咲く色とりどりの花が風に踊り、宝石のようにきらめいて、天海のくじらの恵みと幸いに彩られた世界を祝福する。
日本を離れて六年。
二人はこの世界で、六度めの雪解けを迎えた。
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