全裸

かどの かゆた

全裸


 湯船に浸かりながら日の出が見える、というのがこの旅館の触れ込みだった。パンフレットにもそうあったし、実際に風呂へ行っても、その文句が目につく。

 そこまで露骨に宣伝されたのなら、それはもう行くしか無いだろう。


「私はね、明日の朝は早起きするよ」


 夕食の席で妻にそう宣言する。


「あ、そ。あたしは朝食まで寝ていたいわ」


 彼女は私の話に全く興味が無さそうに、マグロの刺身を大葉でくるんだ。

 まぁ、妻の興味などどうでも良いことだ。日の出が見えるという温泉は混浴では無いし、どの道一人で見ることになるだろう。

 私は一人寂しく湯船に浸かり、日の出をぼうっと眺める自分を思い浮かべた。不思議な興奮が体を包む。

 私は既に一度目の入浴を済ませていた。無精な性格の私は髪を乾かさずにいたので、頭はすっかり冷えてしまっている。

 というのに、頭の中は熱を帯びていた。

 私はどうやら、日の出というやつを随分楽しみにしているらしい。



 電子音と共に、目が覚める。

 寝ぼけ眼で眼鏡を探すと、ベッドから落っこちているようだった。

 拾って、掛ける。

 携帯電話の電源を入れて、時刻を確認。予定通りの時刻だった。


「……うん」


 段々、段々意識が覚醒してくる。体も瞼も重いけれど、行こう。

 妻を起こさぬよう静かに部屋を出ると、窓の外は薄暗かった。その様子は夕暮れの終わりと殆ど同じだったが、不思議とあの時間特有の物寂しさは感じられない。何が違うのだろうか。多分、気分が違う。


「……」


 パシャリ。

 持っていた携帯のカメラ機能で、私は特に珍しくもない早朝の風景を撮った。

 撮影ボタンを押した時、私はとても満足したのだが、恐らく、後から私が見返したら何でこんな写真を撮ったのかわからないだろう。

 そう思うほどに、写真の中の景色は味気なかった。直接見ている今は、酷く心を動かされたというのに。

 そして、私は男湯の暖簾をくぐった。スリッパを脱いで、靴箱に入れる。辺りには全裸の男と服を着た男が混ざってそこにあった。なんだかその景色が妙に思えて、シュールな感じがする、と、そう思った。

 鍵付きのロッカーに携帯電話を預け、私も服を脱ぐこととする。一枚一枚脱いで、最後は裸。

 荷物も妻も風呂の外に置き去り、私はただの私になったのだ。

 すりガラスの引き戸を開けて、私は遂に朝の風呂へ一歩踏み出した。見れば、体を洗う男達の背中が規則正しく並んでいる。

 男湯の混みようは、夕方に行った時のそれと大差なかった。考えることは皆同じ、ということか。

 ささっと身体を洗って、私はまだ暗い露天風呂へ向かった。

 そこまで大きくない湯船の中には、若く筋肉質な男が三人。腹の膨れたのが二人。爺さんが一人に、親子が二組ひしめき合っている。一瞬私は朝日を拝むことは叶わないのではないかと思いかけたが、丁度一人入れるスペースがあった。

 湯船に入る人の内には、足湯のようにして上半身を湯から出す者も居る。この寒いのに何故そんなことが出来るのか不思議だったが、見れば顔はすっかり茹でダコの様相だ。相当長く朝日を待っていたと見える。


「佐々木さん来ねぇなぁ」


「いやぁ、あの人はこういうの来ねーべ」


 男の内、腹の膨れた二人が、そんな風に話をして、笑う。喋り口調から推測するに、彼らは仲の良い同僚といったところか。付き合いの悪い上司をダシにして、より親睦を深めているのだろう。


「卒論がやべーんだわ」


「バイトばっかすっからだろ」


「あー、就職すんのやだなぁ」


 若い男の三人組は、学生らしかった。大学への不満や将来への不安を明け透けに語る姿は、薄暗い湯船にありながら輝いている。

 昨晩私が想像した、一人静かに朝日を眺める時間というのは、ここには存在しないようだった。しかし、これもまたよし。私は大変面白がりながら、彼らの話に耳を傾けた。


「そろそろだな」


「そろそろなの?」


 父親が、息子へ空を見るように促す。

それにつられるようにして、私も空を見た。徐々に暗かった空が白んでいる。


「おぉ……?」


 隣に居た爺さんが身を乗り出して、声を漏らす。山の縁が、どんどん光を帯び始め、私の、いや、私達の期待は否応にも高まった。

 湯船と日の出を通じて私達は一種の共同体となり、ただひたすらに同じ方角を眺める。騒がしかった露天風呂も、その時ばかりは全くの静寂であった。

 そして遂に、その時はやって来た。

 大きな光の塊が、堂々たる貫禄で、ゆっくりと私達に顔を見せる。

 知らぬ内に、私の口角は上がっていた。きっと同じ湯船に入る全ての者が、そうであっただろう。日の出と共に、世界は息を吹き返したように明るくなった。

 水面に映る朝焼けは、ゆらゆらとした不可思議な輝きでもって、私を誘った。熱い湯にもかかわらず、私は永遠に風呂に入っていられるような錯覚を覚える。

 私はこのあまりにも美しい風景を、写真に収めたいと思った。しかし、ここには写真を撮れるものは無い。携帯はロッカーに預けてしまっている。

 しかし、だからこそ良いのだ。

 機械に代わりに覚えてもらおうと油断して、この景色を脳の奥底に焼き付ける努力をしないのは、この美しさへの不義理のようにさえ感じられた。

 全裸だから、良いのだ。

 動画サイトを探し回れば、もっと良く撮れた日の出の映像を見ることが出来るだろう。だが、決してその価値は私が今見ている景色を超えることはない。

 人類の叡智を捨て、裸になったからこそ、私達はまるで物を知らない太古の人々のように単なる日の出に感動することが出来るのである。

 私はこの考えに胸が打ち震えて、直ぐにもこの素晴らしい話を妻に伝えてやろうという気になった。

 そうと決まれば、行動あるのみ。私は満足いくまで朝の景色を眺めた後、部屋へ戻った。時計を見ると、朝食の時間が近い。妻は既に起きており、朝のバイキングを楽しむ準備は万端といった風な様子であった。


「随分と長風呂だったのね、あなた」


 部屋へ戻った私の顔を見るなり、妻は何気なくそんなことを言った。

 私はもう「よくぞ聞いてくれた」と言って、先程考えた、素晴らしい思いつきを妻に洗いざらい話した。それはもう、朝食の会場に着くまで、ずっと。

 私の話を聞くと、妻は苦笑いをして


「この旅館も行く方法も、予約を取り付けたのだって、その人類の叡智とやらを使ったのよ」


 そういえば、ネット予約が安いだとか、そんな話をした気がする。妻の意見は尤もだった。私は何だかつまらない気持ちになって、味噌汁を啜る。

 妻は目を輝かせて、皿に沢山乗せた食べ物をどれから食べるか思案しているようだった。というのに、彼女は思い出したように口を開く。


「けれど、私の代わりに物を食べてくれるロボットがあっても、あたしは使わないわね。面倒事も楽しみも全部機械にやってもらったら、私達はする事が無くなってしまうもの」


 それだけ言って、彼女はもぐもぐと食事の続きに戻る。私は「君らしい意見だね」と言って、もう一口、味噌汁を啜った。


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全裸 かどの かゆた @kudamonogayu01

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