イカロス

TARO

見えない羽

 己の限界を試すことにした。空は快晴で視界を遮るものは何もない。高く高く、たった一人で未知の領域まで。

 上昇すればするほど息は苦しくなってくる。墜落、嫌な言葉が浮かんだ。それでも歯を食いしばって僕はひたすら上を目指した。視界が暗くなってきた。もう、平衡感覚もなくなってきた。僕は上を目指しているのか? それとも急降下しているのだろうか?

 ああ、体が急に楽になってきた。限界を乗り越えたんだ…


 パラダイムシフト。その時は突然訪れた。長年の人類の夢、空を飛びたいという人類の夢は航空工学によって既に叶えられていたと思っていた。しかし、それはあくまでも自力で飛ぶわけではない。我々は「飛べるわけない」という常識に囚われて久しい。空を飛ぶ夢を見るのは子供の特権だった。

 SNSに #空飛ぶ人間 のタグ付で動画が投稿された。空の上に無表情の人間が漂っている、二〜三分の動画であった。はじめ浮かんでいるだけであったが、やがて、腕を曲げて時計を確認するようなしぐさを見せてから、猛スピードで移動して画面から消えた。

 初めは誰もが相手にしなかった。面白がってトピックとして取り上げられたとしても、あくまで良くできた作品としての評価だった。まるでモキュメンタリーを見るように。

 ところが、クオリティの異なる同様の動画が多数投稿されて、いわゆるオールドメディアによる「報道」がなされるようにまでなると、世間に緊張が走った。どうやら本物の現象らしい。彼らは何者なんだ? 何が目的なんだ?

 中には突然の能力の発露に混乱して、公的機関を頼るものも現れた。政府による慎重な調査がなされる。その間に「飛べる人間」は数を増していった。

 中にはコントロールを失って失速して地面に叩きつけられたり、ビルに衝突する者が現れ始めた。そうなると社会問題である。早急な法整備と規制を求める声が上がり始めた。「飛べる人間」たちは審議が進む中、人権を訴えた。


 数年後、社会は分断されていた。飛ぶ能力が発現した場合、直ちに登録しなければならない。その上で、安全に飛行するための厳密なルールを学び、法定の技能実習を経てから試験を受けてライセンスを得なけらば、勝手に飛ぶことは許されなかった。

 それだけでは到底すまなかった。増えてきたとはいえ、飛べない人間達が数の上では圧倒的していた。彼らは能力差を妬み、警戒し、そして羨望した。やがて暴力が始まり、飛べるもの達は迫害されていた。


 仲間たちが次々と離脱していく。僕らは密かに集まって、地上奴らの目を盗んで、飛行技能を磨いていた。能力があるのに、それを生かせないどころか、差別される現実に憤りを感じている仲間だった。しかし、

「俺はもういいや。施術を受けることにしたよ」と、リーダー格の太一がみんなに向かって言った。施術とはすなわち、飛べなくすることである。

「おい! 騙されるんじゃないぞ。画期的な治療なんて言っているけど、その実、隔離されて廃人にされるっていうじゃないか!」

「疲れたのさ。飛べると言ってもチートを使っているわけじゃないしな。あの浮き上がる瞬間に背中に感じる嫌な感触。俺はゴメンだよ。今は地上が恋しい」

 太一は去って行った。彼が出て行くと、それに追随して仲間の大部分が去ってしまった。けれど、残ったメンバーの士気は高かった。

「よし、明日決行だ。地上の奴らに自分達が正しいことを証明するんだ!」と、僕の親友、理論派の正一が鼻息荒く叫んだ。

 残ったのは三人で、正一と、僕と、僕の恋人の雪子だった。翌日、僕と雪子は正一を待った。正一は現れなかった。代わりに当局の人間らしき、陰気なコート姿の男達が車に乗って現れた。

「おい、逃げるぞ」と、僕は雪子の手を掴んで飛んで逃げた。

 男達は無言で追いかけてきた。能力者ではないらしい。コートの下には飛行装置を装備していた。能力は向こうの方が上かもしれない。

 追いつかれそうになり、もはやこれまで、と観念しかけたが、雪子が突然僕の手を振り払った。

「あなたは行って!」と叫んで男達に向かって身を投げた。

 僕は彼女の名を叫びながら、ひたすら上方に向かって速度を上げた。雲を突き抜け僕は一人きりになった。


 急に楽になって、僕は指先から次第に分解されていく自分の体を眺めていた。体が塵になっていく。もはや何も感じない。虚ろな心だったが、身体感覚の消失共に意識は鋭敏になっていた。どうやら真相が明らかになってきた。地上奴らは飛べないのではない。飛ばない能力を身につけているのである。退化。これが真相だった。空を飛ぶ人間は実は引力を制御する力を失ったのだった。やがてすべては崩壊する。人が人で居続ける能力、すなわち、イカロスの翼は地上奴らの背中についているのだ。

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イカロス TARO @taro2791

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