第12話

 進路希望調査票の提出締切が間に合わなさそうだと判断をした私は、職員室前で偶然はちあった柳先生に予めその旨を伝えた。

 先生は少し意外そうに目を瞬かせたが、じっくり考えるといいよ、と穏やかに頷いた。

 クラスメートの多くが提出している中で自分だけ提出していないという状況に、普段の私なら焦っていただろうが、今は何故か、それはそれでよいかと妙に泰然とした気分で、それが不思議だった。

 そうはいっても徒に期限を延長しているだけになるのも違うと思うので、私にしては珍しく大学のホームページ等を見て考えていた。思えば、自分の将来でありながら、こういったことに面と向かって向き合ったことはなかったように思う。それが不誠実ということなのだろう。

「うーん…」

「今日も今日とて難しい顔だね」

 放課後の音楽室でシャーペン片手にうなる私をコトバケは楽しそうに眺めている。

 他人事だと思って、よいご身分である。

「興味があること、好きなことにしぼってかんがえたらいいのに。それが職業に繋がれば最高じゃないか」

「いやそんな簡単な話じゃないですって…職業とかいわれてもぴんとこないですし。まぁでも、好きななことといわれると…」

 それは絵である。どうひっくり返してもそれしかでてこない。それが上手く職業に結びつかず困惑する。いちばん真っ先に浮かぶのは画家だが、そんなのは無理というものだ。そして無理というだけでなく、私自身がそれを仕事といわれると違うと感じてしまう。堂々巡りである。

「あーもう、だめです。気分転換に絵でも描こかな」

「ふふ、そういうのも大事だよね」

 たまには無心に模写でもしようとデッサン帳をとりだす。放課後の旧校舎はいつも静けさだけが満ちているが、なんだか今日は人の気配がうるさく集中できない。階下では机や椅子が動いている音がするし、珍しくグラウンドで誰かが遊んでいるのか、笑い声が聞こえてくる。

 こういうときはデッサンがちょうどいいのだと、筆箱から鉛筆を取り出す。さて、何を描こうかと思うと階段をあがる少々乱暴な足音がきこえた。

 基本的に人口密度が低い旧校舎では、少ない人の気配でも妙に目立つ。本当に今日は騒がしいと嘆息した時だった。


「ーふざけんな!!」


 怒り心頭としか言えない怒鳴り声が聞こえた。驚いた私は鉛筆の芯を折ってしまってそのことにも呆然とする。

「え…?」

 日中の教室ならいざしらず、旧校舎には圧倒的にふしわしくないそれに、私は思わずコトバケを見る。コトバケも驚いたようにして肩をすくめた。

「随分お怒りだね」

「いやまぁ、それはわかってますよ」

 他人がこんなに怒っている声をはじめて聞いたかもしれない。悪意ある嘲りや見下しは教室の中でもよく聞くが、純粋な怒りとなると案外そんな機会はない。本来怒りをぶつけるのは、とても難しいことなのだ。

「大体お前はっ、いつもいつも!!」

「………――」

 烈火のごとく怒り散らす誰かに、誰かが応対している。その声は怒りの声に比べるとささやかすぎて、全く聞こえなかった。かろうじて、誰かが話しているなということがわかる程度である。怒りに反して冷静なそのあり方は、きっと相手を逆なでするだろうと私は思った。

(なんにせよ、わざわざ旧校舎で騒がなくても

 …)

 音楽室のそばで騒がられると気になるし、自分に関係ないとわかっていても、怒鳴り声を聞いていると指先から冷えていくような思いがする。

(っていうか………)

 聞き覚えがあるような気がする。こんな怒鳴った声は知らないが、それでもこの音は知っている。

「どうしたの?」

「いや、なんか……しってる声なので……知り合いかなと……」

「ふむ……」

 コトバケは一つ頷くと、つかつかと音楽室の扉に歩み、そろりと手をかけた。

「……ちょっ……なにしてるんですか!?」

 こんなあからさまなトラブル、息を殺して過ぎ去るのを待つのが一番だというのに、好奇心のかたまりみたいな悪戯な表情のコトバケに、私は最低限に抑えた悲鳴をあげる。

「いや、気になるでしょ?」

「気になりません!」

 慌てて扉を閉じようと近寄る。開け放たれたことで、廊下の怒鳴り声がより明瞭になった。

「ーーそれを決めるのは、お前じゃない!お前じゃないだろ、薫!」

(薫?)

 嫌でも耳に入る声は、やっばり聞き覚えがあって、呼ばれた名前も知っているものだった。そのため、つい、廊下を覗いてしまったのは、仕方がないと思いたい。

 音楽室にいる私は、校舎の一番端にいるが、くだんの二人はちょうど真ん中、階段をあがってすぐの場所でもめているようだった。

 怒鳴っている方は私に背を向けているため判別がつかないが、すらりとした長身と短髪は見覚えがある。生島琉生、その人である。

 そうであるなら、必然的に、琉生の背中に隠れて見えない人、薫は、花咲薫であることが察せられた。

 あの二人は不思議な友人関係ではあるが、それでも友人だと至極納得できる関係だった。よく知りもしない私でも、それが自然なことだと思えていた。そんな当たり前な空気感を、壊す何かがそこにはあった。

「俺のことは俺が決める!俺の気持ちは俺のものだ!勝手に察して、勝手に決めつけてんじゃねぇ!」

 怒りの声は震えていた。きっと、大切なことなんだと思った。少なくとも琉生にとっては。

 だから、その長身痩躯が、似合いもせず俯いて、その肩が悔しそうに下がったこと、その声が罅割れたことを、私は正しく受け止めた。赤の他人の私ですら、理解できるほどの、激情で。


「ー、なんでだ、薫、どうしていつも、……肝心なことは何も話してくれないんだ…」


 ああ、これは悲しみだ。怒りに塗りつぶしたその下には、無防備な痛みがあった。

 対する薫が、その時どんな顔をしたのかはわからない。相変わらず、彼の姿は見えなかったから。それでも、


「ー君だから、琉生、君だからだ」


 その声は、放課後の廊下に、凛と響いた。いっそ冷たいくらいの温度で、いっそ無関心なくらいの平坦さで。

 急に訪れた静寂に、落とされた声は不自然に凪いでいた。

「ーーッ」

 弾かれたように顔をあげた琉生が何かを伝えたくて、伝えられなくて、声を殺したのがわかった。そのまま、逃げるように薫の前から飛び出して、来た道を戻る彼の、乱雑な足音が階段を下っていく。

 ようやく見えた薫の姿は、琉生を、追うでもなく、顔すら傾けず、じっとその場に立ち、ただ真っ直ぐに前を見据えていて。

(あ……まずい)

 そう思ったときには遅かった。


「ーそこで何してるの?」


 目があった。完全に視認された。

 どうあがいても、私以外に向けられてないそれに、おおげさに跳ねた肩は、罰の悪さを物語っていた。

「神前さん?盗み聞きは、あんまりいい趣味ではないね」

 そんなつもりはなかった、そもそもコトバケのせいだ等と思っても、相手にとっては詮無きことだ。それがわかっているから、私の口ははくはくと音にならない何かを紡いでるだけである。

(というかー!)

 この状況をまねいた一旦であるコトバケにどうするんだと視線をそそごうと背後をみやる。しかし、

「え……?」

 ーいなかった。綺麗サッパリいなかった。開け放たれた窓からそよぐ風に音楽室のカーテンが揺れている、それだけだった。

(ー逃げられた!!!)

 もしくは隠れているのか。なんにせよ私をおいていったコトバケに、今度は別の意味で口がはくはくと引きつる。

 上靴のゴムが廊下とすれる間の抜けた音に、顔を上げると、何を思ったのか薫はこちらに近づいていた。何を思ったも何も、私を弾劾する以外にないとは思うが。

 もはや逃げも隠れもできないと察した私は、すごすごと音楽室から廊下にでる。ほとんど話したことのないクラスの男子に、気軽に誤魔化すようなことも、茶化すようなこともでかない私は、もはや目の前にいる薫の上靴のあたりを、つまり地面を見ながら潔く謝罪した。

「す、すいません!!」

 想像ではスムーズな発音だったはずのそれは、思った以上にひきつっていて、なのに自分で驚くほど廊下に響いた。

「は?」

「いや、あの聞くつもりはなくてー、いえ

 違います、何も聞いてません……はい、知りません。そういうことなので…、…」

 もはや何を言っているかわからない早口と、反動でぼそぼそとした呟きのような言葉。

(う……もうむり)

 とにかくごめんなさい!ともう一度、それだけ明瞭に叫んだ私は、ここから逃げ出すべく踵を返す。


「ーまって」


(え、…)

 やんわりと、控えめに自分の手首が掴まれている。

「ごめん、神前さんに謝ってほしいわけじゃないんだ」

 さっきも、今も。

「たぶん、八つ当たりなんだ。たまたま、なぜだか、君が目の前にいたから、ほんとにそれだけなんだ」

 だから、だからと、彼は私と目を合わせた。驚くほどまっすぐなそれにこめられたもの等わからないけれども。


「だから、にげないで」


 その切実な響きは、私を留めるだけの力があった。

 ただのクラスメートでしかない私達は、きっとこの時、はじめて向き合ったのだ。


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言化け(コトバケ) 空言 @esoragoto

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