6 保健室の数学教師

 とりあえず緋上は保健室へ行きなさい、と言う教師の言葉に従い杏樹は化学室を後にした。

 誰か付き添いを、と続く言葉は平気だからと断った。骨折だとかならばともかく、腕の怪我で行き倒れるようなこともないだろう。

 教室を出る時に杏樹の視界の端に心配そうにこちらの様子を窺う少女が映ったので、軽く手を振っておいた。タンポポの花がぴるぴると震えているようだと思ったことは秘密である。

 ところで、星聚学院の校舎は広い。これは生徒数が多いのだから仕方がないのだが。

 化学室は二階の端、保健室はその対角に位置する一階の端。何が言いたいかと言うと。


(結構遠い……)


 広いだけでなく校舎もいくつかに分かれていたりするので、実は保健室も何ヵ所かある。それでも化学室からは一階にある第一保健室が一番近いのだ。

 白いドアを三回ノックする。


「どーぞ」


 間延びした声が聞こえ、杏樹はノブを回す。押し開けながら軽く首を傾げた。

 第一保健室に常駐する養護教諭は女性だったと記憶しているが、今応じたのは男性の低い声だった。


「失礼しまーす?」


 若干疑問系になりながら入室を述べる。くるりと室内を見回すと、奥の死角になっていたところから現れた人物とばちりと目が合う。

 普通に考えれば、この中にいるのは養護教諭のはずだが。


(なんで数学教師が保健室にいんの)


 杏樹と目が合った数学教師・泉水統吾は軽く目を見開き、次いで目を細めて笑んだ。大方のご想像通り、優しくないほうの笑みである。


「入らねぇのか?」


 問われて逡巡した杏樹は視線を上げて、ドアのプレートを確認する。……『第一保健室』だ。間違いなく。


「なんでここにいらっしゃるんですか」

「ここのぬしに『用事で出るから暇なら留守番してろ』って言われたんだよ。まぁ、昼寝しに来ただけだから暇は暇だったしな」

「それはそれは、お休みを妨げて申し訳ございません」


 言葉だけは慇懃に謝って、もう何度目かになる『なんだこの教師は』を今日も思う。

 授業をやってる時間に堂々とサボりに来て、生徒にそれを公言している。


「俺のことはいい。おまえは?腹でも痛むか?」

「いえ、体調不良ではなく怪我のほうで」

「怪我?」

「実験中に火傷しちゃったんですよね」


 腕を覆っていたハンカチをぴらっと外すと、さっきより赤くなっている箇所が目に入った。無言でハンカチをもとの位置に戻す。

 見なければよかったかと後悔する。こういうのは目で見ることによって痛みを自覚するから。


「馬鹿、怪我なら早く言えよ。いいからさっさと入れ!」

「はーい」


 赤くなった腕を見るなり顔色を変えた数学教師は慌てて入室を促し、杏樹はいつも通り随分適当な返事をした。

 座れと促され、杏樹は素直に椅子に腰を下ろす。泉水は奥にある冷蔵庫から取り出してきたものを杏樹に差し出した。


「これ当てとけ」

「ありがとうございます」


 保冷剤だった。ハンカチの上からかかるひやりとした重みが気持ちいい。


「何して火傷したんだ?」

「ガスバーナー使った実験で沸騰したお湯がビーカーごと倒れました」

「ドジかよ」

「確かに」


 はっきり言われすぎて、いっそ清々しい。

 確かにドジには違いない。玲於菜を引っ張る余裕があったのだから、そのまま熱湯がかからない距離まで一緒に身を引けばよかったのに。そこまでは動けなかった。


(でもまぁ、あのたんぽぽ娘に怪我はなかったし……、?)


 他愛ない話をしながら腕に視線を落としていた杏樹は、視界に入ってきた大きな手に顔を上げた。


「診るぞ」

「……数学の先生ですよね」

「だから応急処置しかできねぇよ」

「……っ」


 保冷剤とハンカチを外され直に触れた体温に、息を詰めた。


「悪い、痛かったか?」

「いいえ、」

「もしかしたら水ぶくれになるかもな。自分でも多少冷やしてたようだし、そこまで酷くもなさそうだが」

「そうですか」


 さっきまで保冷剤を当てていた腕には温かいが、この人の体温はどちらかと言えば低い。

 手際よく薬を塗られガーゼを巻かれる自分の腕を見ながら安堵の息を吐く。


「一応後で本職にも診てもらえ。保健室のオバサンにも声はかけておく」

「オバサンて……」

「そこは引っかからなくていい。……気をつけろよ。痕が残ったらどうすんだ」


 珍しく教師らしく注意をしてくるので、ちょっと力が抜けた。


「治ればいいですよ。腕に多少痕が残るくらい、別に」

「おまえな、」

「それに大丈夫だと思いますけどね」

「あ?」

「これだけ丁寧に手当てしてもらったんだし」


 巻かれたガーゼの上から、火傷した箇所を反対の手で撫でる。


「……おまえ、わざとかそれは」

「はい?」


 心底不思議そうな、語尾をやや裏返り気味にした返しが某有名刑事ドラマの推理力抜群なエリート変人みたいだったと後から言われた。余談だが、それに対する杏樹の言葉は『あのドラマ見ると紅茶飲みたくなるのよね』である。 


   ○


「次の時間授業入ってるから行くわ、じゃあな」


 杏樹の応急処置をして間もなく、数学教師はそう言って保健室を出ていってしまった。妙に慌てていたように見えなくもないが……次の授業の準備があったんだろう、きっと。

 そして、ほとんど入れ替わりに戻った養護教諭に念のため腕を差し出した。彼女は今の短い時間に泉水から聞いていたらしく、詳しく説明しなくても事情をわかっているようだった。

 綺麗にガーゼを巻かれた腕を確認し、これで大丈夫と微笑んだ。美人である。

 そう言えば泉水はこの美人に留守番を申し付けられたり『オバサン』呼ばわりしたりしていたが、親しいのだろうか。年齢は確かに泉水よりは年上だろうが……


(まぁ、わたしには関係ないか)


 変に考え事に没頭していたことに気づいた杏樹は我に返って打ち切った。ついでに泉水の大きな手に触れられた時に覚えた既視感を思い出したが、それにも気づかなかった振りをする。そう、自分は何も知らない。

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