ポワゾン・ロゼに気を付けろ

ゆうすけ

綺麗な花には毒がある

 とある場末の田舎町。


 町に一軒しかないレストランの客の引けは早い。夕食が終わるとささやかなパブタイム。しかしそれも数時間でお開きになり、近隣の住民しかいない客は三々五々帰途に付く。都会ではまだ地下鉄がばんばん走っている時間だ。


 この店のマスターの一人息子ファリスは、アイネスの奏でるピアノの音に聞きほれていた。店の床掃除の手が止まる。アイネスは田舎町に似合わない都会の匂いのする大人の女性。埃っぽい砂漠に美しく咲いた薔薇の花だった。ファリスはその美しくて清涼な微笑みに、すっかり心を奪われていた。いつかアイネスに認められるぐらい強い男になって、愛を告白したい。ファリスはいたって真剣に思っていた。


 そんなファリスをカウンターでグラスを磨く少女の視線が咎める。その視線に気付いてやれやれと肩をすくめ、モップ掛けの作業に戻った。


「ファリスもルクシアも、今日はもう上がりでいいぞ。二人とも宿題でもやってろ」


 ファリスの父親が、二人に声をかけた。


「マスター、宿題なんてとっくに終わってるわよ。ね、ファリス」


 グラスを磨いていた少女、ルクシアが、ファリスにかわって声を上げた。



 幼馴染のルクシアがファリスの家のレストランでアルバイトがしたいと言いだしたのは、春休みの直前のある日のことだった。


「今からファリスのとこ、行っていい?」

「なんだよ。いつも勝手に来てるくせに。なんで今日に限って俺の了解なんて取るんだよ」

「いいから、いいから」


 ルクシアは訝しむファリスを強引に連れて町に一軒のレストランファリスの家に向かい、店に入るなりマスターファリスの父親に向かって 「おじさん! 私を雇って! 一日五十ペチカ、いや四十ペチカでいいわ! アルバイトがしたいの!」 と言い放ったのだった。


 田舎町のレストラン、春休みだからと言って特に忙しくなるわけではない。マスターは露骨に渋い顔をした。


「店の手伝いなんざ、ファリス一人で十分だよ」

「おじさん、お願い。私、お小遣い溜めたいの。ママに言ったら、おじさんのとこ以外はダメ、おじさんのところでならバイトしてもいいって」


 ルクシアは必死に頼み込んだ。


「ルーちゃん、去年の暮れからアイネスが来てくれてるの知ってるだろ? ああ、アイネス! あんたも言ってやってくれ。これ以上の手伝いはいらないって」


 マスターが困った顔をしていると、奥で洗い物をしていた若い女性が出てきた。長い金髪と切れ長の目。アイネスと呼ばれたその女性は、柔らかい、しかし芯のある声で答えた。


「マスター、どうされました? あら、ルクシアちゃんじゃない」

「ルクシアがハイスクールの春休みの間、うちでバイトしたいって言っててね。うちはファリス以外に二人も雇うほど忙しくないだろ?」

「そうなんですか。じゃあ、私、ルクシアちゃんがいる時間はピアノでも弾いてますよ。その時間は無給でいいですから。その分でルクシアちゃん、雇ってあげてくださいな」


アイネスはにこりと微笑んだ。


「父さん、それいいじゃないか。アイネスにピアノ弾いてもらおうよ。絶対お客さん増えるぜ」

「確かにアイネスが来てから町の連中が店に来る回数増えてるな。アイネス、それでもいいかい?」


 アイネスは「もちろん。ルクシアちゃんならいいウェイトレスになってくれるわ」 とにっこり微笑んだ。ルクシアはばんざーい、と素直に両手を上げて喜ぶ。


「ルーの給仕かあ。あんまり似合わねーなあ。どうでもいいけどさ」


 ルクシアは何が気に入らないのか鋭くファリスを睨んで、彼の横腹に肘を打ち込んだ。



 ファリスとルクシアの片づけが一段落ついても、まだアイネスはレストランの片隅のピアノで、不思議な旋律の異国の曲を弾いていた。誰に聞かせるでもなくそれに合わせて歌っている。

 いつもアイネスはパブタイムでは、流行りの曲に乗せて明るい歌声を披露し、小さな町の陽気な常連客と盛り上がる。それは店の看板ショーのようにもなっていた。しかし、客が帰ると決まって哀愁に満ちた異国の歌を歌った。


「アイネスさんのあの歌、なんの歌なの?」

 帰り支度を終えたルクシアがファリスの隣に座って言った。


「アイネスの故郷の歌なんだって」

「あれ、アイネスさんって外国の出身なの? その割には言葉になまりが全然ない」

「俺もはっきり聞いたわけじゃないけど、そうらしい」


 ファリスはうっとりと鍵盤の上を流れるアイネスの細い指を見つめる。そんなファリスに向かってルクシアが尖った声を上げた。


「まったく、ファリスはアイネスさんにデレデレしすぎよ。ほら、さっさとモップ片付けてきなさいよ。私を送って行ってくれるんでしょ?」

「なんで決まってるみたいに言うんだよ。悔しかったらルーもアイネスみたいな大人の色気みたいなの、出してみろよ」

「なによー! 悪かったわね。どうせ私は ……」


 わちゃわちゃと騒ぐ少年と少女のやり取りを耳にしたからか、アイネスの歌声には一層の情感がこもった。異国の言葉で歌われるその意味はファリスには分からない。しかし、これは望郷の歌に違いない、ファリスはそう直感していた。



 翌日の昼はいつもより少し忙しかった。

 昼食時間の終わり際、まだ満席のレストランに目つきの良くない背広の男が入ってきた。たまたまエプロン姿でホールに出ていたファリスに、男は店の奥まで断りなく入ってきて声をかけた。


「あ、お客さん。すみません、今、満席なんです。ちょっと入り口横のウェイティングで待ってもらっていいですか?」

「キミ、ちょっと聞きたいんだけど、この人、ここにいるかね?」


 男は黒ケースに入ったPHOTO IDをちらつかせた。そして、挟んであったブルーバックの写真をファリスに見せた。そこに映る金髪の女性。まごうことなきアイネスだ。


…… この人、警察官だ。なぜ警察官がアイネスを?


 このまま、この人をアイネスに合わせてはいけない。ファリスの第六感がそう告げている。


「…… 知りませんよ、こんな人」


男はぎろりとファリスをにらむ。


「本当か? 嘘を言うとキミのためにもならないぞ?」


 とても市民のために悪と戦う公僕とは思えない射るような視線に、ファリスは内心震えあがった。幸いアイネスは買い出しに行っている。このままこのポリスが引き下がってくれれば問題ない。


 ところが、入り口に背を向ける男の向こうに、買い物袋をいくつか抱えてアイネス戻ってきた。レジで会計をしているルクシアに声をかけて、店に入ってくる。ファリスはとっさに叫び声をあげた。


「アイネス!!逃げて!!」


 その声よりも早く、アイネスは男を一瞥すると、買い物袋を放り出して店を走り出て行った。


「あ、ちくしょう、待て!」


 男も素早く振り返り、店のテーブルを縫うようにして客にぶつかりながらアイネスを追いかけて行く。ファリスも二人を追って店を走り出ようとした。


「ファリス!危ないから行っちゃダメ!」


 ルクシアの呼び止める声は震えていた。



 店の裏手に男は拳銃を構えて立っていた。

 その先には同じく背筋を伸ばして男に相対するアイネス。その右手にはどこから持ち出したのか黒光りする銃が握られている。そしてそれは男の眉間にぴたりと照準が合っていた。


「おとなしく銃を捨てろ。でないと、撃つぞ」


 男はすごむ。しかし、言葉に威圧感はなく怯えが混じっている。


「聞いてもいい? 誰に言われて私を追っているの? あなたが本物の警官じゃないことぐらいもう分かっているから」


 アイネスは男とは正反対に落ち着いた声で問いかける。どちらが追われているのか、ファリスは一瞬分からなくなった。


「そんなことはどうでもいい! 銃を捨て ……」


 男が言い終わらないうちにアイネスの銃が火を噴いた。キンと言う音とともに、正確に男の手首の先にあった銃だけを弾き飛ばす。一瞬にして素手になってしまった男は見るからに狼狽していた。アイネスは男に向かって一歩二歩と歩み寄ってさらに畳みかける。


「私の質問に答えるの? 答えないの? 私、どっちかっていうと気は短い方なの。その情報、聞いてない?」


 そして男の前まで来て、ためらうことなく引き金を引く。銃声とともに男の頬を熱風がかすめる。


「あ、あ、あ、ゆ、許してくれ。俺はただサンダー商事の顔役にこの写真の女を連れてこいと言われただけなんだ」

「ふうん。じゃあ、あなたは戻ってその顔役にこう言わないといけないわね。『そんな女、この町にはいなかった。東の遠い町で見たという人がいたが、詳しいことは分からない』あなたの情報なんて私にはすぐ分かるのよ? もし違うことを言ったら …… 」


アイネスはもう一度地面に向かって引き金を引いた。乾いた銃声が埃っぽいストリートに響く。


「ひっ!」

「あなたの死体が町のどこかに転がることになるわよ。言っとくけど、私、本気だから」

「ひー!」

 男は腰を抜かしながら逃げて行ってしまった。ファリスもいつの間にかへたりこんでいた。



 アイネスは翌日からファリスの店に顔を出さなくなった。ルクシアはなぜか上機嫌でファリスに話しかける。


「ま、ファリス、元気出しなよ。あんたみたいなガキんちょじゃ、アイネスさんに相手してもらえなくて当然よ」


 そういう問題じゃない、とファリスは思う。


 あの人は毒の薔薇ポワゾン・ロゼ。多分ファリスの知らない世界を生きてきて、知らない世界へ向かってる人なんだと。



「もう少し居られると思ったのに、無駄なトラブル起こすんじゃねーよ」


 タバコを横くわえしたセージはハンドルを握りながら不平を口にする。


「しょうがないじゃない。アイネスとかいう女、どうもあちこちで悪さしてたみたいだね。もう少し普通の人になりすませばよかった」


 助手席のエミリはそっけなく答えた。トランク一つずつの荷物を載せて、車は西へと向かう。以前乗っていたレクサスは二人の逃避行の間にチェロキーに変わっていた。


「へっ、殺し屋のエミリとかいう女がやってた悪さに比べたら大したことねーじゃねーか。贅沢いうな」


 埃を白く巻き上げるチェロキーのエンジン音が唸り続ける。

 エミリーは切れ長の目を少し伏せた。


「ふふ、次の町にはどれぐらい居られるかしらね」




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ポワゾン・ロゼに気を付けろ ゆうすけ @Hasahina214

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