甘い誘惑

羽間慧

甘い誘惑

 焼けた鉄の靴を履いて、死ぬまで踊り続ける。それが一回目の人生の終わり方だ。苦しさのあまり声が枯れるまで叫んだ後、息を引き取る私の側に寄る者はいなかった。

 天使を除いては。

 彼女は悲しそうに微笑むと、肉体から離脱した私を抱き上げた。視界が歪み、見知らぬ白い空間へ移動される。


「ようこそ。天界へ」


 私は眠りから覚めたときのように、途切れた意識をゆっくりと取り戻した。様子をちらちらと伺う青く澄んだ瞳が胸に刺さり、思わず背を向けた。

 人違いではないか。他者を蹴落とし続けた生き方が、神に許されるものとは思えない。

 心を読んだのか、天使は大きく頷いた。


「あなたのおかげで、心優しい若者が運命の乙女と会うことができました。悪行は許されることではありませんが、一つだけ願いを叶えてあげましょう」


 百合を思わせる衣に身を包んだ少女は、私の返事を待った。彼女の頭上には、金色の冠が浮いていた。私は美しさに見とれつつも、はっきりと願いを口にした。


「男として生まれ変わらせて」


 その瞬間、天使は私の手を強く握った。


「いけません。あのような野蛮で、ずる賢くて、おぞましい生物になるなんて」


 過去に何が起きたのだろうか。

 説得に時間が掛かったが、鍛冶屋という条件で転生することができた。下積み時代は順調に進んだが、店を持つと悪いことが続けて起きた。詐欺や弟子の失踪で、築き上げた信頼はあっけなく崩れ去る。頼りになる家族も友人もいない。

 貧しさに喘ぐ私に近付いてきたのは悪魔だった。愛らしい少年の姿をしていたが、膨らんだ財布をちらつかせる様子は計算高い。彼は、私の願いを叶えた三年後に命をもらう契約を持ち掛けた。


 金を使い切った後に命をもらう内容ではないことは好都合だ。三年あれば契約破棄の対策ができる。そんな目的でサインしたとは知らず、悪魔は上機嫌で去った。だが、三年と九日後に怒りの形相で現れる。


「よくも俺の弟子をひどい目に遭わせたな」

「悪あがきさ。三日に一人ずつ追い払えるとは思わなかったよ」


 私は冷静に答えた。前世は三つの試練を乗り越えつつも、最後の最後に痛い思いをしていた。今回は慎重に動きたい。


「お前の魔力を見れば心残りはない。……ふがいない弟子を持った師の力でも、ネズミにはなれないだろうが」


 悪魔がネズミになった瞬間、クギ袋に入れて口を結んだ。弟子の手を抜けなくしただけあって、効果は抜群だ。悪魔は暴れまわっていたが、力尽きると契約書を渡す要求を受け入れた。暖炉で灰になった紙を悔しげに見つめて地獄へ戻っていった。


「ふふっ、いい気分です」


 聞き覚えのある声に振り向くと、天使が微笑んでいた。


「悪魔を追い払った礼として、望みを叶えたいと思います。美しさなどいかがですか?」


 鏡よ鏡、世界で一番美しいものはだあれ?

 前世で何度も繰り返した言葉を思い出し、私は首を振った。


「豆だらけの手でも、私にとっては美しい」


 どんな花も、どんな宝石も心を揺さぶることができなかった。だが、女を脱ぎ捨て得た硬い指は、絶望よりも幸福を呼び起こした。


「あんたにとっては、鍛冶屋が悪魔を追い払う簡単な物語に思えるだろうよ。それでも私は、脇役で終わった前世の甘い時間を懐かしむことはない」


 ハッピーエンドは手放さない。自ら破滅の道を進む生き方はまっぴらごめんだ。

 主人公の座を離さない私を、天使はつまらなそうに見つめて消えた。

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甘い誘惑 羽間慧 @hazamakei

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