最期の一曲

御剣ひかる

人生最期の曲として、レクイエムを

 男は凄腕の暗殺者という評判だ。

 なので、この仕事が近々回ってくるのではないか、と予測していた。

 国政を操る宰相を暗殺してほしい、というのだ。


 依頼人については詮索無用。報酬をもらって、任務を遂行するのみ。


 ターゲットについて、男は調べ始める。

 どうやら宰相自身は武術の心得などまったくなく、彼に迫る危険はすべて、彼の周りの者達が取り払っているようだ。

 つまりその囲みを突破すれば任務達成はたやすいと見ていい。

 男は夜に宰相の部屋に忍び込むことにした。




 なるほど、幾度か暗殺のターゲットになったことがあるという情報は間違いではないらしい。部屋の周りは厳重に監視の目が張り巡らされている。


 だが男もプロだ。警備の隙間を縫って宰相の部屋へと近づいた。


 部屋の中からなにやら音がする。

 あれは、ピアノだな。

 男は心の中でつぶやいた。


 部屋の前に立つ見張りをみぞおちへの一突きで黙らせ、彼を引きずって部屋の中に入る。


 思っていたよりも大きく、質素な部屋の中央にあるグランドピアノ。ベッドやサイドテーブルがまるでオマケのように部屋の隅に追いやられている。


 宰相は、窓を背にピアノを弾いていたが、物音と男の気配に気付いたのだろう。演奏をやめて顔をあげた。


「……私を、救いに来てくださったのですか」

 宰相が言う。


 救うとはどういう意味かと男が怪訝に見つめると、宰相はひとつ息をついた。


「私は無理やりこの国に留められ、働かされているのです。……解放してくださるのでしょう?」


 まさか目の前に立つ自分が暗殺者だと気付かないわけではあるまい。だが宰相は穏やかな表情でいる。これは、死を覚悟した者の表情だと男は思った。


「あなたが暗殺者であることは存じています。どうぞ仕事を全うしてください。ただひとつだけ、お願いがあります。最期に一曲だけ、弾かせていただけますか」


 暗殺者の男は顔をしかめた。その隙に助けを呼ぼうというのだろうと警戒の目を宰相に向ける。


「助けは呼びませんよ。もしもわたしがあなたをだましているとしても、警備兵達がやってくる気配を察したらあなたは私を殺して逃げることができるでしょう。私が死んだ後であなたが処罰されたとしても私はそれを見届けることはできませんからね」


 宰相は薄ら笑いを浮かべた。自嘲の笑みにも見えなくもない。


「……いいだろう。おれはあんたの真後ろに立つ。もしも妙な動きを見せたら殺す」


 男は宰相にうなずいた。


「ありがとうございます。ではどうぞこちらへ」


 男は得物の短剣を抜いて、宰相の後ろに立った。


「人生最期の曲として、レクイエムを」


 宰相は静かに言うと鍵盤の上に手を置き、ひとつ深呼吸した。

 静かな旋律が奏でられる。


 皮肉屋で、民のことを気遣いもしない政策を打ち出すという悪評の宰相が奏でているとは思えないほどの、澄んだ音色だ。

 宰相の手は鍵盤の上を右へ左へすべらかに行き来し、鍵盤を叩く。


 レクイエムの名にふさわしい静かなメロディは、やがて激しくなる。これは死を迎える者の嘆きだろうか。


 男は胸を打たれた。宰相の後姿が、ピアノに映る顔が、鍵盤の上を踊る手が、とても神がかりなものに思えた。


 ……いかん。これが作戦やもしれぬ。心を奪い油断させて起死回生を計ろうとしているのやもしれぬ。


 暗殺者は気を取り直して、ただ、宰相に不穏な動きがないかを見張ることだけに神経を集中させた。


 月明かりが窓から差し込み、二人を背後から照らす。また静かなメロディに戻ったレクイエムの最後を飾るにふさわしい演出だった。


 ほどなく曲が終わり、宰相は鍵盤の上に細く白い指を置いて目を閉じ、余韻に浸っている。


「……素晴らしい演奏だった」

 暗殺者は素直に感想を述べた。


「ありがとうございます」


 宰相は顔だけを振り向かせて暗殺者を仰ぎ見る。


 さて、このまま任務の遂行を、と暗殺者が短剣の柄を握る手に力をこめた時。

 靴底を通して感じる床の感触が、失せた。


 男は、「え」と小さく声を上げると、深い闇に吸い込まれていった。


 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆


 暗殺者の断末魔が長く尾を引き、やがて途切れたことを確認すると、宰相はピアノのペダルから足を離した。本来三本しかないペダルだが、このピアノには四つ目があった。それが、床の仕掛けを作動させるペダルなのだ。


「はい、さようなら。レクイエムをお気に召していただけて嬉しいですよ」


 宰相は鼻でふふんと笑った。


「結構、この手は使えますね。しかしできるなら警備の皆さんだけでどうにかしてほしいものですけれど」


 彼は立ち上がって、大きく伸びをすると、さて、寝ましょうか、とつぶやいてベッドに向かうのだった。



(了)

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