第三話「大般若孝vs八百長横綱其之二」

 逃げる大般若孝を追いかけて場外に降り立つ狛ヶ峰だったが、やはりこうなると大般若は無類のうまさを発揮する。すぐさまパイプ椅子を手に取り、早速武器を得るや、そのパイプ椅子でところ構わず狛ヶ峰を殴りつける大般若孝。

「理事長!」

 大般若孝が何者かを呼び寄せた。

 見れば、狛ヶ峰の不行跡の責任を取って理事長職を退いた北乃花ではないか。

 狛ヶ峰と北乃花との間に遺恨があることを知った大般若孝が、北乃花を反狛ヶ峰陣営としてこの会場に招聘していたのである。

 だがここはプロレスだ。私闘の場ではない。

 大般若孝はいわばファンサービスの観点から北乃花を招聘したものであって、北乃花もその意味については良く理解していた。今や北乃花の狛ヶ峰に対する憤怒は解けていたといって良い。


 つまり北乃花は狛ヶ峰を赦したのである。


 大般若孝が狛ヶ峰の背後に回り込み、羽交い締めにすると、その北乃花が狛ヶ峰の顔面に張り手を一発見舞う。観客は大喜びである。

「理事長! 行けー!」

 愛知県から急遽会場に足を運んだのは今村である。当時協会の理事長職にあった自分を警察署に呼び付け、なまくら刀でいたぶるように責め立てた今村の声に、如何に北乃花といえども気づかない。会場の喧噪の真っ只中に身を置いているうえはそれとてやむを得ぬ。

 そして元理事長が八百長横綱の顔面に痛い一発をお見舞いしたその一事によって、今村が北乃花に抱いていた鬱憤が一挙に晴れ渡ったことにも気付かぬ北乃花であった。北乃花もまた今村に赦されたのである。


 ともあれ元理事長からの一発は肉体的にというよりも精神的に来たようで、片膝を突く狛ヶ峰。

 これを大般若孝が再び羽交い締めにすると、今度は

「連山!」

 呼び寄せたのは、なんと狛ヶ峰からの注射相撲を断り、制裁まがいの張り手を受け、それが原因で現役を退いた連山ではないか。

 既に右足の装具は外れている。

 しかしその意図せぬ引退に追い込まれたという怒りのこもった張り手は、やはり元理事長の一発と同様、狛ヶ峰に強烈な精神的ダメージを与えた。

 連山がここに登場したわけも、前述の北の花と同様の経緯だ。

 確かに連山は狛ヶ峰による張り手で大怪我をし、現役引退に追い込まれた。京スポ記者に注射相撲の内実を告発した連山だったが、気が晴れたのはその一時期だけで、愉しまぬ日々はその後も続いた。

「怒りの感情を相手に直接ぶつけても、怒りからは解放されない」

 連山がたどり着いた境地だった。

 却ってこれを赦し、自分自身を怒りから解放しなければ自分を救う方法がないと、連山は思い至ったのである。

 反狛ヶ峰陣営として狛ヶ峰に張り手を見舞った行為は、「赦し」とは真逆の行為のように見えるが、この試合を盛り上げるという意味においてはこれほどの援護射撃もない。

 狛ヶ峰はこの試合を通じて、自らの不行跡によって危機に陥れた二人から赦されたのである。


 ともあれ狛ヶ峰との遺恨がある両者から攻撃を受け、動揺を来したかのように反撃に転じることが出来ない狛ヶ峰。大般若孝はその狛ヶ峰に、容赦ないパイプ椅子攻撃を加える。

 如何にプロレスの試合とはいえ、目の前で繰り広げられるパイプ椅子攻撃には掛け値なしの迫力があるものだ。


 ガツン!

 という音と共に、浩太郎にもパイプ椅子攻撃の衝撃が伝わって、その身を小刻みに揺らす。

「なにやってんだよ!」

 それは、浩介も雅恵も、ついぞ聞かなかった張りのある声であった。狛ヶ峰がまだ横綱だったころ、その優勝をかけた一番で狛ヶ峰が勝利したとき以来の声援だった。

「なにやってんだよ! そんなインチキ野郎に負けてどうするんだよ! 頑張れ狛ヶ峰! 負けんな!」

 このごろは呼吸を司る筋肉にも退縮が見られるようになり、肺活量が低下しつつあった浩太郎の一体どこに、これだけの声量が残っていたというのだろう。

「頑張れ負けんな!」

「狛ヶ峰負けんな!」

 浩太郎の声援に、もう一つの声援が混入する。誰かと思えば浩介の声だ。

「しっかりしろ狛!」

「負けんな!」

 声援の二重奏がひときわ大きく聞こえる中、やりたい放題叩かれる狛ヶ峰。

 その声援に呼応するかのように、狛ヶ峰が突如咆哮した。

「うおーッ!」

 妙子夫人との口論の末、当時住んでいたマンションの家具という家具をなぎ倒したとき以来の咆哮だ。

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