第二話「人民法廷」

 狛ヶ峰引退会見の場である。

 ただしそれは、人気力士が従来行ってきたような温かみ溢れる引退会見とは随分と趣を異にするものであった。

 今回に限っていうと、この会見は、狛ヶ峰の引退を惜しむというものでも、功労をねぎらおうというものでもなかった。そのような雰囲気は皆無で、むしろ会場にみなぎっているのは、稀代の八百長横綱、ペテン師をどのように糾弾してやろうかというサディズムであった。


 いわば人民法廷。

 

 狛ヶ峰を吊し上げるために人々が求め、それに抗しがたく協会が準備した狛ヶ峰引退会見の場で、狛ヶ峰を糾弾するために押し寄せた人々から、テレビカメラの前で公開尋問を受ける人民法廷そのものであった。

 紛糾は当然予想され、そのために師匠である宮園親方のほか、北乃花理事長、そして協会の顧問弁護士が同席する異例の会見である。

「横綱に質問します。前回の会見では八百長については明確に否定されましたが、今回何故これを認めるに至ったのでしょうか。

 前回の会見で八百長をやっていないと、いわば虚偽の説明をした理由と共におこたえください」

 のっけから飛び出た核心をつく質問に、生まれて初めて緊張に由来する眩暈めまいを体験する狛ヶ峰。

 その心中に、次から次へと言葉が紡ぎ出される。


 何故八百長を認めたか?

 認めたくなかったさ。だから最初は否定してたじゃねえか。連山が俺を売ったから認めざるを得なくなっただけの話だ。

 お前らも知ってのとおりじゃねえか。

 何故虚偽の説明をしたかって?

 じゃあ聞くが、八百長してましたなんて本当なことを言ったとして、お前ら俺のこと許してくれたかよ。絶対許しちゃくれないよな。

 だったら嘘を吐くしかないじゃないか。


 無論このような回答が許されるはずがない。

 狛ヶ峰は喉元までまで出ていた言葉を飲み込んで、膝上の両拳をぐっと握った。

 俯いて黙り込む狛ヶ峰を無数のフラッシュが照らす。

 記者の質問に答えたのは狛ヶ峰ではなく顧問弁護士であった。

「おこたえします。

 前回、愛知県警捜査第一課及び中警察署連名で、横綱狛ヶ峰にかかる八百長疑惑が広報されたことをきっかけと致しまして、協会では関係力士に対する聞き取り調査を実施致しました。

 その際、狛ヶ峰は八百長疑惑については明確に否定し、関係力士への聞き取り調査でも、狛ヶ峰から八百長を打診された事実はなかったとの回答を得たことから、八百長疑惑を否定する会見をしたところであります。

 しかしながら同会見の場で連山関の証言なる新事実が提示されるに及び、改めて内部調査を実施しましたところ、狛ヶ峰関本人がこれを認めましたので、改めて引退を勧告し、本人がこれを受け容れたことが本会見に至る経緯であります」

 弁護士の回答は事実の羅列であって、記者の質問に回答したものではなかった。案の定、記者の追及が激しさを増す。

「狛ヶ峰関がなぜ虚偽の説明をするに至ったか、その理由について質問しています。今のは本会見に至る事実を羅列したもので、質問に対する回答ではありませんよね」

 記者の質問は飽くまで狛ヶ峰に投げかけられたものであったが、狛ヶ峰は自らが口を開くことを固く禁じられていた。やはり弁護士が回答する。

「その点につきましては本人にも罪悪感があったようで、真相を証言することにより処分が課されるであろうことを恐れたということであります」

「厳しい処分が課されるようなことをした自覚はあったわけですね」

「はい」


 弁護人と記者とのやりとりが続く中、狛ヶ峰は俯きながら初土俵から今日に至るまでの長い道のりを、ひとり顧みていた。


 右も左も分からないまま、教えられたとおりに土俵に上がり、一方的に押し出された初土俵のあの時。

 幕下で優勝を果たし関取の仲間入りを果たしたときの喜び。

 稽古に励みめきめきと実力をつけていった二十代前半のころ。

 風向きが変わったのは大関獲りが見えてきたころのことだった。

 時の横綱から

「負けてやるから二百でどうだ」

 と打診を受けた。

 目の前にぶら下がる大関という地位。その横綱に勝てるかどうかは五分五分で、負ければ場所後の大関昇進は見送られる公算が高い取組だった。

「買います」 

 それまでガチンコを貫いてきた狛ヶ峰が、初めて悪魔に魂を売った瞬間だった。

 一度崩れると、あとはたがが外れたように堕ちていった。

 横綱昇進がかかる一番。

 十回目の優勝がかかる一番。

 二十回目の優勝がかかる一番。

 休場明けで復活がかかる一番。

 三十回目の優勝がかかる一番……。

 際限がなかった。

 罪悪感はいつの間にか薄れ、こんなものだと思うようになっていた。なぜならば周りも当然のようにやっていたからだ。

「ガチンコであれば優勝回数は二十回前後が限界」

 とされるなか、モラルは崩壊し優勝回数は五十七回という馬鹿げた回数に上っていた。

 六十八連勝のうち、実力でもぎ取った白星は十番前後がいいところだった。

 折に触れ噴出する八百長疑惑も、カネで買った白星が解決してくれた。勝ちさえすればそんな声はやっかみ扱いされて無視されるのがこれまでの通例だった。

 タニマチから受け取ったアタッシュケース入りの札束をちらつかせながら星を買いまくる日々。永遠に続くかのように錯覚していた。

 そこへ、降って湧いたかのような八百長疑惑。

 瓦解は急だった。

「でも聞いてくれ。

 本当に強くなけりゃ八百長なんてそもそも出来ないんだ。

 俺は強いんだ」

 それは事実であった。注射を打診して断られたときに、断ってきた相手に制裁を加えられるほどの強さを維持していなければそもそも八百長など打てるものではなかった。

 しかしかかる不正行為によって、相撲という競技が本来有する不確定性が大きく損なわれたのもまた事実であった。もしかしたら狛ヶ峰が滑って転んでしまったかもしれない取組も、相手力士に懐に飛び込まれて一気に寄り切られてしまったかもしれない取組も、不確定性に由来する全ての可能性は注射により摘まれたのである。

 ファンに対する重大な背信行為であった。

(分かっている。だから嘘を吐いたんだ)

 狛ヶ峰の声なき声が世間に届くことはなかったし、それは届かなくて良いものであった。

 狛ヶ峰が土俵を去ることに疑問を呈する声は、皆無であった。

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