第三話「浩太郎の涙」

「なんで狛ヶ峰なんか呼んだんだよ! 僕一回でもそんなこと頼んだ!?

 なにが絶対大丈夫だよ! パパなんか大嫌いだ!」

 病室に浩太郎の泣き声交じりの怒号が響く。

 それとともに浩太郎に宛てて狛ヶ峰が手形を押したサイン色紙と優勝額を模したブロマイド、非売品DVDが宙を舞う。十歳の誕生日に狛ヶ峰から贈られたプレゼントが病室の壁に叩き付けられ、床に散る様は無惨であった。

めなさい! 落ち着いて浩太郎!」

 雅恵が浩太郎を落ち着かせようとするが、浩太郎の耳に母の声は届いていないようだった。


「狛ヶ峰、八百長問題で引退へ」

 病室のテレビにニュース速報の字幕が表示されたとき、折悪しく浩太郎はその画面を見ていた。

「どうしてだよ!」

 浩太郎は信じられないというように叫び声を上げた。

 そもそもこれより前、狛王刺殺事件の報道があったころから、部屋の力士が事件を起こしたということで、それに関連して狛ヶ峰の名前がニュースで流れるとことがあるにはあった。ただ、決定的に風向きが変わったのは犯行動機に関わる狛犬の供述が広報され、マスコミがこぞってこれを報じ始めてからであった。協会は理事長、狛ヶ峰揃っての記者会見を開いたが、その場で釈明するどころか連山による内部告発が明るみに出たことで事態は破局を迎えたのであった。

 

 八百長疑惑が盛んに報道されるようになってからは、浩介も雅恵も、浩太郎に対して極力テレビを見せないように努力した。いうまでもなく、この報道が浩太郎の闘病生活に悪い影響を与えることが懸念されたからだった。

 しかし二人とも浩太郎に付きっ切りで生活をしているわけではない。浩介は日中の大半は職場にいたし、雅恵も四六時中病室にいるというわけにはいかなかった。結局報道の概要は早晩、浩太郎に知られる運命にあったのである。

 浩太郎から八百長という言葉の意味を聞かれた浩介は口籠もった。報道を見聞きしないように極力努力してきたつもりだったが、そういった言葉が飛び出した意味を、浩介は悟った。浩太郎は狛ヶ峰に関わる不名誉なニュースを遂にその目に見、耳に聞いたに違いなかった。

 浩介は一瞬にして腹を括った。

「あらかじめ勝敗を決めた勝負ごとのことだよ」

「……」

 重い沈黙であった。

 筋ジストロフィー症にかかった自分の行く末については受け入れた浩太郎だったが、狛ヶ峰の八百長疑惑は容易に受け入れられない様子であった。

「……やってないよね」

 浩太郎が絞り出す。

 こたえることが出来ない浩介。

「あんなに強いのに、八百長なんかしなくたって勝てるよね」

 見れば、浩太郎の目にいっぱいに溜まる涙。狛ヶ峰を最後まで信じようとしているからこそ、浩太郎は苦しみ、もがき、涙しているのであろう。

 浩介は大きく頷きながらこたえた。

「そうさ。狛ヶ峰は強いんだ。パパを豆粒扱いする狛ヶ峰が、八百長なんかするものか。

なんてったって横綱なんだぜ?

 浩太郎はなにも心配しなくても良いんだ。絶対大丈夫だから」

 浩介にはなんの確信もなかった。

 そもそも狛王刺殺事件が発生するよりずっと以前から、大相撲には八百長疑惑が付いて回っていた。もう何十年も前からだ。

 ただ、浩太郎が狛ヶ峰の熱烈なファンになる前は、八百長疑惑どころか大相撲自体にさほどの興味を持っていなかった浩介のことである。時折週刊誌に掲載される八百長記事を読んだことはなかったし、当然その記事の中に記されている具体的な星のやりとりの方法や、八百長にまつわる用語など知る由もなかった。

 そのことは浩介にとって幸いなことだった。八百長相撲に関わる余計な知識があれば、浩太郎に対しておかしなことを言ってしまいかねないからだ。浩太郎に対して妙なことを口走る心配がない、という一点において、浩介は安心を求めるしかなかった。

 

 そんなときに行われた記者会見。

 八百長疑惑を払拭するどころか、片方の当事者から八百長関与の証言が飛び出してきて、釈明の理屈は瓦解した。この模様は連日繰り返しテレビで放送された。

 看護師の中岡がテレビを消そうとするのを、浩太郎は許さなかった。

 どこに行くんですか、まだ質問終わってないですよ、逃げるんですかという報道陣の声を背中に聞きながら、会見の席を立ち、理事長とともにいずこかへ去ろうという狛ヶ峰の背中が大映しになる。

 勝ち名乗りを受けて懸賞金を鷲掴みにし、傲然と花道を歩く見慣れた狛ヶ峰とは似ても似つかぬ後ろ姿。どんな負け方をしても、こんな背中を狛ヶ峰は見せたことがなかった。

 病室に来た雅恵に向かって、自暴自棄になった浩太郎は狛ヶ峰のプレゼントを投げつけた。だがめちゃくちゃに投げたプレゼントの数々は、雅恵ではなく病室の壁に叩き付けられ、床に散乱した。


 その日の夜。

 浩介は雅恵から、浩太郎がパパなんか大嫌いだと叫んだことを聞かされた。

(大丈夫という以外に、どうこたえれば良かったというんだ。仕方がなかったんだ)

 俯きながら浩介は、砕けんばかりに奥歯を強く噛みしめた。


 その日以降、浩太郎はストレッチをしなくなった。魂が抜けたかのように覇気を失っていった。狛ヶ峰が八百長を認めたという精神的ショックによる闘病への影響は計り知れなかった。

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