第七話「哀愁の北乃花」

「離婚して下さる?」

 車中の重い沈黙を破ったのは聖子夫人からのひと言であった。

 ようやく乗り込んだ車の助手席で、流れゆく景色を眺めていた北乃花。夫人の言葉に今更驚きも何もない。

 女優として活躍していた大野聖子と、当時最強を誇って全盛期にあった横綱北乃花の結婚は、世紀のビッグカップル誕生と大いに世間を騒がせたものである。ただ、横綱と結婚するということは、女優としてのキャリアを御破算にする覚悟がなければ出来ないことであった。そして、その覚悟なく横綱と結婚した聖子夫人ではなかった。

 実際、聖子夫人は献身的に横綱を支えた。日常の食生活から身体のメンテナンスまで、甲斐甲斐しく横綱の世話をした。付け人をよくまとめ、北乃花が一を言えば十を理解するほどだった。

 やがて、最強横綱の引退。

 一代年寄として北乃花が部屋を興すと、聖子夫人はおかみさんと呼ばれるようになった。年端もいかぬ若い力士の親代わりとして、聖子夫人はここでもよく親方を支えた。

 傍目にはなんの不満もない結婚生活のように見えた。

 ただ、世の多くの夫婦がそうであるように、二人の間には知らず知らずの間に溝が出来るようになっていた。それは日常生活を共にする中でのちょっとした言葉遣いや仕草。余人にとっては取るに足らないことであっても当の本人にとってはどうしても許せないことの積み重ね。そう、取るに足らないことを発端としているものだ。

 

 流れゆく景色を眺めながら北乃花は

「馬鹿なことをいうな」

 と、ひと言返した。

 二人の間に厳然としてある溝、その場を支配する冷たい空気を認めない北乃花でもなかったが、この歳にもなって離婚となると、ただでさえ世間を騒がせているというのにまたぞろ身辺が騒がしくなるではないかという思いが先だち、離婚話に深入りしようとしない。


「本気なんです」

 北乃花が深入りしてこないことに業を煮やしたように、夫人が追い打ちをかける。

「いま離婚したらマスコミに叩かれるぞ」

 北乃花は半ば脅し、半ば本気でそう答えた。


 理事長職を失った北乃花を見捨てる酷薄の妻。

 金の切れ目が縁の切れ目か。


 そんな見出しが週刊誌に躍ることが予想された。

「だから引き留めてるんだ。離婚はもうちょっと待て」

 いまは面倒な話を持ち込んでくれるな、とでも言いたげな北乃花に、聖子夫人は言う。

「あなたはいつでもそう。

 現役時代は一日一日が闘いで、二人でゆっくり過ごせるようなことはありませんでしたわ。それも仕方のないことと思ってましたけど、現役を退いてからは世間体とか役職とか、そんな話ばっかり。

 もう私達、敢えて夫婦という形に拘らなくても良いんじゃなくて?」

 そう言われて初めて気づいたのだが、聖子夫人に対して愛してるという言葉を使わなくなったのはいつのころからだっただろうか。

 今も、離婚を引き留めはしたが、それは夫人を愛しているからではなく、ただ自信の身辺がそのことで騒がしくなること、そして夫人がそのことで世間からバッシングを受けることを心配してのことであった。

 前者はまったく自分のための心配だったし、後者は一応夫人を慮ってのことだったが、このバッシングに付随して自分のことについてもいろいろ騒ぎ立てられるだろうという煩わしさが先立っての言葉だった。


 要するに、愛などない。

 女優として世の多くの男性を魅了してきた大野聖子。北乃花はそれら無数のライバルをいわば蹴落とす形で女を妻として迎えた。横綱の地位、理事長の職と同じように、大野聖子との結婚も、そのような闘争の末に勝ち取ったものであった。

 たったいま、自分が理事長室を後にするとき、何を考えていたかよもや忘れはしまい。

 闘争の末に得た地位には永遠に座っていられない。はっきりと言葉に出来なくても、そういった思いが胸に去来する中で理事長室をあとにしたのではなかったか。

 この結婚生活もその普遍の真理から外れていない。

 北乃花は離婚を求める夫人に反論する言葉を持たなかった。


 ただひとつ、北乃花には割り切れない思いがあった。

 もし狛ヶ峰の八百長騒動がなければ、事態はこうも急速に進展しただろうか。何ごともなく進んでいく日常を送る中で、果たして聖子はそれでも自分に対し離婚を突き付けてきただろうか。

 あの男が下手なことさえしなければ。

 車中、既に離婚を決意した北乃花であったが、折に触れ湧き上がる狛ヶ峰への怒りは、どうしても抑えることが出来なかった。

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