第十四話「広報のタイミング」

 優勝のかかる一番であれば百五十万から二百万、そうでなければ三十万から五十万が相場で、カネでやりとりする注射を「売り買い」と称し、それとは別に、先場所負けてやった相手に今場所は勝たせてもらう、というような、白星の賃貸借を伴う注射相撲を「貸し借り」と称する。いつのころからか角界に発生し、はびこった悪しき因習である。

 狛ヶ峰の注射は相撲界では公然の秘密であった。狛ヶ峰の場合、貸し借りはやらずもっぱら売り買い専門で、有り余る資金にものを言わせて惜しげもなく星を買うから周りからは嫌われていた。

 ただ、狛ヶ峰は注射をしなければ勝てないから注射を打つわけではない、という点については注意が必要だろう。狛ヶ峰の実力が衆に抜きんでていることは確かなのであり、注射を断られた相手に対して制裁を加えて痛めつけることも思いのままであった。そういうことが出来るほどの実力が狛ヶ峰にあるからこそ注射が可能なのであって、実力がないのに注射を持ちかけるような真似をしても、なめられて叩き伏せられるだけの話なのである。

 こういった点が、八百長問題をややこしいものにしていた。

 先場所の場合、注射を断って制裁の対象になったのが連山で、格闘技まがいの張り手で失神昏倒させられた連山が右膝靱帯と半月板損傷の重傷を負わされ途中休場に追い込まれた事件は、狛犬の証言を裏付ける事実であった。

 横河から狛犬の供述のあらましについて報告を受けた今村班長は

「それにしても……」

 とひとりごちた。

 おそらく狛犬の供述は真正になされたものに違いなかった。判例主義について無知であるがゆえに、死刑を回避しようと彼なりの反省の意を込めてなされた、真正にして信ずるに足る供述と考えなければならなかった。

 狛犬は自分自身の体験を包み隠さず供述したのであろう。連山と、そして霧乃山相手に注射を持ちかけるように、狛王経由で部屋の横綱から指令が下ったに違いなかったのである。

 だが狛犬の供述を、他の関係者の証言から裏付けることはほとんど不可能に近いと考えなければならなかった。

 たとえば狛ヶ峰に対して

「狛犬がこんなことを言っているが本当か」

 などと聴取して

「はいそうです」

 と素直にこたえるとは到底考えられない話であった。

 大相撲史上に燦然と輝く大記録の数々が、実は注射相撲の虚飾に塗れたものであると分かればどうなるであろうか。過去に記録取消といった処分はおこなわれたことはなかったが、そうでもしなければ世間は納得しないだろう。その前に相撲界からの追放は免れまい。横綱の地位どころか、引退後の一代年寄も吹き飛ぶほどの衝撃になるだろう。

 狛ヶ峰個人のレベルで話は済まないだろう。下手をすると公益法人たる協会組織の存続すら危ぶまれる重大事件であった。

 要するに狛ヶ峰は自らの存在意義と組織の存続とに賭けて、注射相撲を認めるわけにはいかない立場だった。絶対に許されない行為をしている自覚はきっとあるだろうから尚更だ。

 聴取する相手が霧乃山だろうが連山だろうが、同じことであった。狛犬の証言によれば狛ヶ峰からの注射の打診を断った両者ではあるが、だからといって八百長告発に手を貸す確証はない。彼らとて所詮は協会という組織の一員なのである。

 しかし、と今村は考え直した。

 なにも捜査機関として八百長相撲を明らかにしようというのではない。狛犬が兄弟子狛王を刺殺した動機さえ明らかになれば、あとは狛犬の思い違いだろうがなんだろうが、それはそれで良いのである。犯行動機に関わる狛犬の供述について、裏付けが可能であろうとなかろうと、狛犬にとってはそれが動機なのである。狛犬がこれまでの供述を翻して他の要因を犯行動機として挙げない限り、狛犬が供述した犯行動機のまま公判は開始されるのである。

 したがって捜査機関としては、現段階における狛犬の供述をそのまま広報したとしても、それはそれで「あり」だと考えられた。

 それに捜査機関としては、犯行動機にかかわる狛犬の供述について、ある程度広報を急いだ方が良いという事情があった。

 世間は狛犬が犯行に及んだ動機を知りたがっているのであり、その点について広報しなければ必ずや嗅ぎ廻るマスコミが出てくるだろう。

 事実その動きは活発であった。

 相撲部屋という閉鎖社会で人間関係がこじれたのではないか、という大筋の見立てに世間は満足してはいたが、それにしても一体何が引き金になったというのであろうか。

 その点についての興味が尽きたわけでは決してない。

 これをマスコミが嗅ぎつけ世間にリークしてしまえば、警察が協会と結託して動機に関わる狛犬の供述を隠蔽したなどとあらぬ疑惑を受けかねない。

 過去には警視庁が、現役力士による野球賭博事件捜査の過程で、賭博とは基本的に何の関係もない八百長メールを広報したこともあった。これなど本来は通信の秘密との兼ね合いから、必ずしも広報しなければならない話ではなかったが、

「公共性、公益性に照らし公表すべきだと考えた」

 として広報に踏み切っている。

 本件のように事件の動機に関わる話ならば尚更、広報されて然るべきだ。

 横河から今村、更にその上層部へと上げられた犯行動機に関する報告は早速捜査会議の議題にかけられた。

 協会内部からマスコミへのリークを恐れる立場からは広報は早ければ早いほど良いとされたが、力士を含めて協会関係者等に対しなんの補充捜査も経ることなく広報すべきではないとする慎重論も飛び出した。

 議論の結果、参考人事情聴取を宮園部屋関係者及び霧乃山とその付け人浦風、連山に対してまずおこない、その後名古屋場所八日目と十四日目に、狛ヶ峰からそれぞれ連山、霧乃山に宛てて、狛ヶ峰サイドから八百長の打診があったことを把握していたかどうかを北乃花理事長に聴取し、その過程で、狛犬が本件犯行の動機に八百長問題を挙げていることを北乃花理事長に告げ、犯行動機に関わる供述として広報する旨を協会側に一方的に通告したのち広報に踏み切る、という方針が決定された。

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