第5話 こうなるのはわかってた
ルピの湿潤療法を始めてから一週間が経った。
その間、おしゃべりがしたかったのか、じわじわと口吻と体毛を短くし人間に近い姿になろうとしたがそのたびに叱責され、もとのオオカミの姿に戻ること数回。
動物は好きだが人は嫌いだ、と奇妙な説教をされることも数回。
革のリボンの下には膿と浸出液が溜まったが、それがこの療法のきもで、ある程度の通気と抵抗力がありさえすれば、傷は浸潤された状態で新しい細胞に置き換わり、痕は目立たなくなる。
クレドが判断した通りにこの人狼の仔の免疫力は大したものだった。何しろもう右脚を再訪された翌日から、脚をひきずりつつもどたどたと走り回っていたのだから。
走り回るのを呼び寄せて、右脚の傷跡から黒い絹糸を抜き取ると、深く刻まれた傷のあわいを桃色の肉芽が埋めはじめ、もはや浸出液は出ていなかった。
人間ならば少なくともひと月はかかりそうなものなのに獣人というのはなんと頑強なのだろう。
治癒能力と食欲は比例しているのか、ルピはよく食べた。
クレドが苦労してここまで運んだ半月分の食料は、彼自身は思いきり節制したにもかかわらず一週間で失われてしまった。雪を溶かしたうまくない水と粗朶だけは潤沢にあるので、しまいにはひどく薄めたパン粥をすするほどになっていた。
つましい暮らしをしているクレドにはルピの食欲は脅威だった。
――もうここへは置いておけない。
次に晴れた日に、ルピを森に返そうと彼は決めた。
ルピは、食事の時以外はある程度の慎ましさを見せながら、おずおずとなついてきている。
クレドは母の書き綴った本を読みながら、雪に閉じ込められて退屈しているこの灰色毛玉をうるさそうにしていた。
そのくせ、その辺の藁を枯れたつる草で丸めて作ったボールを投げ、ルピに拾ってこさせるという他愛もない遊びを飽きずに繰り返す。
薄情そうな見てくれのわりに、クレドは動物が好きだった。
人と関わりを持とうとしないくせに、人の飼っている犬や猫や羊や牛はよく目で追っている。森の奥まで迷い込んできたのがいると、人目がないのを確認してから撫でくり回す。そうやって少し遊んでから、村の牧草地へ連れて行ってやる。十四歳にして相当な変人であるからというだけではない。家畜泥棒とみなされると袋叩きの末に殺されても仕方がないのだ。
一方、家畜たちは森が狼たちのテリトリーだとわかっているので、人間に出会えたのは千載一遇の幸運、とされるがままになりつつも、クレドに撫で回されるのはあまり嬉しそうではなかった。どうも彼は動物には好かれない類の人間らしかった。
とにもかくにも、だ。
情がこれ以上移る前に何とかしなければならない。
この先、自分の身すら養えるかどうか危ういのに、この大喰らいの面倒までは見られない。
三日後、なんとか雪が止み、静かな薄青い空が広がった。
冷え込んで雪はかちんこちんに凍り付き、滑りやすくなっている。
クレドはひん曲がったアイゼンを荒縄でブーツにくくりつけ、幼い人狼を従えて小屋から出た。
「やっと晴れたなあ、ルピ」
クレドはあの日と同じ、何の毛で織ったのかわからないちくちくごわごわした毛布を被って、森の奥へ向かう。彼女はその後をついて歩きながら、うぉふっ、と返事をした。
アイゼンの立てる固い音が響く。
小さな半獣の仔は久しぶりの外出に機嫌がいい。何度も何度も足を止めてそこらじゅうの匂いを嗅いでは、先行くクレドの後を追う。
そのうち、彼が小さく何かを歌っているのを聞いて、ルピは彼の前へ小走りで出て、振り向いた。耳を前へ向けてきりっと立てている。
クレドは歩きながら、あの「ぶじにおうちへかえれるうた」を歌っていた。
彼に合わせてちょこちょこと歩きながら、ルピは人間の薄白い呼気を見上げ、神妙な面持ちで聞いている。
歌い終わると、彼は立ち止った。そこはちょうど森の湧き水が小さな流れを作っている水場だった。氷を透かした下にちょろちょろと水が流れているのが見える。
「元気になってよかったな」
そう言いながら、擦り切れた手袋をはめた手で小さな頭を撫でる。
そして手袋を外して、手触りを楽しむようにもう一度撫でた。
「そろそろ、君もおうちに帰れ。家族が待っているだろう?」
ルピはぽかんとした顔をした。
なぜ今? と言わんばかりの顔だった。
「もう少し傷の様子を見てやってもよかったんだが、すまない、もう君に食わせるものがないんだ。家族に食わしてもらってくれ」
人間と彼らはあまり親しくすべきではないのだ。
森の申し子は森に返さなければならない。
「帰ったら、一族郎党にできるだけ人間は襲わないでくれと伝えてくれ。特に私を」
クレドは人差し指で、己が胸をトントンと叩いて見せる。
聞いた言葉を反芻するようにしばらく考え込んだ後、ルピの口吻がまた短くなり始めた。手が人間のかたちになってくる。
こうして見ると、人とオオカミのはざまの形態というのは、クレドが幼いころに見た、異国からの朝貢品だったヒヒに似ている。
「やめろ。人の格好になるな。こんなところですっぱだかのお嬢ちゃんは見たくない」
召使にでもやるように、小さく手を挙げて制止する。
ルピはそのヒヒに似た姿のまま変に抑揚の付いた声であうあうと喋った。よほど伝えたいことがあるのだろう。
「じゃあな。元気に暮らせよ。罠には気を付けるんだぞ」
「あうあう」
「うんうん、わかった。お別れの挨拶は十分だ」
取り付く島もないクレドの様子にイライラしたのか、ルピは猿そっくりにそのあたりを駆け回った。そして滑って転び、しかめ面でクレドを見る。
「ほらさっさと行け。みんなが待っているんだろう?」
クレドはくるっと背を向けた。
ルピののどから、がっという声が出た。
少し安堵したような、不安なような声だ。
「追いかけてくるなよ? 私はかつかつで暮らしてるんだからな」
首だけで振り向き、彼はちらっとルピを見た。
クレド自身は気が付いていないが、彼の所作に時々、ぞっとするような艶やかさがある。十四歳という年齢に相応しくない、力で捻じ伏せたくなるような、冷たく不思議な色気だった。
ところが、そんな眼差しで言うにはずいぶんデリカシーのない台詞が、薄い唇からどんどん出てくる。相手の気持ちへの配慮が欠如している性格らしい。
「礼ならいらん……まあ、私が食いっぱぐれないように何か持ってきてくれてもいいかもな。うさぎとか鱒とか」
そう言った後、クレドは卑しい申し出をしてしまったような気がしたのか顔をしかめてしばらく黙り、そのまま振り向かずに歩き去った。
その後ろ姿を、ルピは青い目でずっと見送っていた。
その夜、彼はベッドの中でいつもよりも体を丸め、枕代わりの丸めたショールに顔を埋めていた。
十四歳らしく、自分に対してまで自分を取り繕いたい少年期な真っただ中。
夜になると寂しくなってしまい、寂しがっている自分に気づいてまた傷つくという面倒くささ。
ルピとよく遊んでいた藁のボールを見ると嗚咽してしまいそうなので、目に入るのを恐れるややこしさ。
彼はそんなこんなをぶちこんだ坩堝のような思いを抱えて涙していた。
――こうなるのがわかっていたからいやだったんだ!
――畜生!!
ドアをひっかく音が聞こえないかとしばらく待っていたが、誰も訪れる様子はない。クレドはとにかく気が滅入ってしょうがなかった。
そのベッドの上を、握りこぶし程度の黒い塊がふわふわと飛び始める。
陽炎のように黒い粒子を揺らめかせ、吹き寄せられた煤の粉のようだ。
そろっと、ベッドの羊皮の中から痩せた腕が出てきた。
黒い、輪郭がはっきりしないものはその手にすり寄るように近づく。そして、少し荒れた白い掌に、もやもやと渦を巻いて憩った。
「……お前がいてくれるから、いいか」
その呟きは、黒い塊から何の慰めも得られていないようだった。
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