第4話 クレドとルピ

 脚の傷を縫い終わり一息つくと、彼は村で買ってきたばかりの牛乳とカラスムギで粥を作った。

 木皿によそって、奮発して卵も割り入れる。前においてやると、かつえていた半獣の仔は足の痛みも忘れたように平らげ、皿と口の回りを熱心に舐めた。皿を譲ってべこべこ凹んだ貧相な鍋に直接スプーンを突っ込んで食べている彼に、ひゃんひゃんと甲高い声を上げておかわりをねだりはじめる。本当のオオカミの仔はあまり声をあげて鳴かないのだが、人間である部分があるせいか半獣の仔は饒舌なようだ。

 結局、若干の物足りなさを訴えながらも寝入ってしまった灰色の毛の固まりを、ほつれた麻袋を敷いた木箱に突っ込んで、彼はいつもより少々空腹でベッドに入った。


 夜の静寂に、森の雪折れの枝の音が聞こえる。

 そのたびに、少年はベッドの下の木箱の中身が息をしているか、温かいかを確かめていた。


 そうして朝、目を覚ます。

 朝と言っても明るいわけでも早起き鳥が鳴くわけでもない。

 彼の母は、生き物の体の中には時計がある、と言っていた。確かに、夜寝て、目覚めたらたいてい朝の決まった時間なので、比喩ではなく本当に時計があるのだろうと彼は思う。

 しかし昨晩は非日常の作業でへとへとに疲れ、体の中の時計はぜんまいがびろんびろんとはみ出しているようだ。今朝は、その時計が彼を起こす前に、どたばたどたばたと乱れた音に起こされた。

 木の床の上に小さな爪が当たる音もする。

 奥にたくさん積んでいる本や巻物が雪崩を打っている。


「うるさい……」


 木のベンチを二つ寄せ、羊の毛皮を二枚中表なかおもてにし、さらに手持ちの服を適当に被せた乱雑なベッドから呻き声があがる。彼は上掛けを顔まで引っ張り上げた。見てくれの血色の悪さの通り、彼は蒲柳の性質たちで、何事も自分のペースに合わせないと機嫌が悪くなる。

 特に朝はそうだ。


「まだ寝てろ」


 半分眠っている叱声に抗議するようにきゅうきゅうという音が被さる。


「昨日の今日だぞ……傷が開くだろうが」


 きゅうきゅうの音は大きくなった。


「腹が減ったのか」


 さらにきゅうきゅうは音量を増す。


「寝る前に食べただろうが」


 その言葉を聞くや否や、小さな生き物は彼のベッドの上掛けの縁を捕まえて引っ張る。

 首を左右に振って引っ張るその仕草と鼻面に皺を寄せた表情。

 うーという唸り声。

 やはり野生オオカミそのものだった。

 しかし、さすがに右脚には体重を掛けていないので少々踏ん張りが甘い。

 上掛けの上に寒さ除けに載せていた古ぼけた服が、仔狼の荒れた冬毛の上に降り注ぐ。


「やめんかこら」


 やっと彼はベッドの上で身を起こす。

 踝の出っ張りが目立つ白い足がぬっと出てきて、服の下をがさがさと探り、そこに見つけた靴を爪先につっかけた。

 と、その骨張った踵に幼獣が噛みついた。

 小さく細い歯は、鋭い。

 しかし、痛くはない。

 甘噛みなのだが、唸り声だけはする。

 何か食わせろというアピールらしい。


「やーめーろ!」


 ぼさぼさの頭とシャツに下着、そこに長いフリンジを垂らしたショールをぐるぐる巻き付けるという、見てくれもなにもないすがたで、暖炉にまた火を起こし、また粥を作る。

 穀物が煮える間に、無頓着にベッドの周りから適当に衣類を拾って着替え、髪をざっとまとめて革紐で括る。その間、件の獣は暖炉の周りをうろうろしていた。火には慣れているようだ。

 そうこうしているうちにカラス麦が煮あがり、ふっくらと膨らむ。 

 彼もこの獣も、続けて同じものを食べても全く気にならない性質だった。しかし今朝は小さな客に対しても卵はなしだ。


「傷は痛むか?」


 粗末な朝食の合間に彼は尋ねた。

 毛むくじゃらは顔もあげず一心不乱に食べながら、それでもしっぽをぴこぴこと振った。


「よかったな」


 ぴこぴこする尾に彼は言った。


 朝食が終わると、彼は外へ出た。ちび狼もアンバランスに跳ねながらついてくる。彼が唇を紫色にしながら、デッキに積もった雪でざっと鍋を洗っている間に、小さなレディはデッキから降りてその陰で用を足した。彼が鍋に雪を山盛りにして中へ戻ろうとするとやはり彼女も戻ってくる。

 昨日の「歌」といい、この彼の行動と自分の欲求と紐づけする能力といい、人間の幼児と同程度には賢いようだった。

 さっそく雪がてんこ盛りの鍋を火にかけ、雪を炊きはじめる。真っ白な雪はみるみる萎み、透明になった。

 そこへ例のごちゃごちゃした木箱から取り出した、乾いた草の束を突っ込む。

 沸騰をはじめると、薬っぽさのある芳香とともに白い泡が浮いてきた。草は、ラヴァンディンとサボンソウの類だったようだ。

 火からおろしてそこへまた外から取ってきた雪玉を入れ、人肌より少し温かい程度に冷ます。


「昨日、体を洗ってやるって言っただろう」


 不審そうに見ている毛むくじゃらの首の後ろをひっつかんで自分の真ん前に置き、彼は言った。 


「このままだと鼻が曲がりそうだぞ」


 この幼い灰色毛玉は露骨に嫌そうな顔つきでぞろっと歯をむき出したが、あまり暴れなかった。昨晩指摘されて、やはり自分の臭いが気になっていたのだろう。

 右脚の包帯をとると、腫れはあまりなく、膿が出てきていた。体をぎゅっと曲げ、傷の臭いを嗅いで舐めようとするその体を、湯で絞った麻袋を被せてがしがしと拭く。

 また濯いで絞って、拭く。

 それを何度も繰り返し、指の隙間まで拭き上げる。

 どうも彼は無頓着というかさばけすぎた衛生観念を持っているようで、最後に、どうせまた加熱するからどうでもよい、と鍋に仔狼をざぶんと浸けた。もちろん右脚は外に残す。

 この貧相な鍋に全体が入りきるわけではなく、右脚以外もだいぶはみ出ているのだが、とにかくサボンの汁を体中にかけ、さらに洗う。

 最後にぼたぼたと洗浄液を垂らした彼女を床に置き、さらに拭こうとすると、もちろん野性的な彼女はそんな暇など与えない。体を思いきりぶるぶると震わせて、このぶっきらぼうな世話係にしぶきをしたたか浴びせた。


「……もう拭かなくてよさそうだな」


 乾いてみると、この半獣の仔の毛並みはさらにふわふわと空気を含んで暖かそうになり、ころころと愛らしくなった。

 傷をもう一度真水の湯冷ましで洗い、また少しだけ酒を垂らそうとして、彼は何か空中に漂う声をを聞くような顔をして少し手を止め、何も塗らずに幅広の皮のリボンで巻いた。

 

「褒むべき膿こそ傷を癒しむる、んだそうだ。痒くても我慢してくれ」

「ひゃん」

「君を洗っているとき思いついたんだが、名前があると便利なんじゃないか」

「ぐふ」

「私は君をルピと呼ぶことにする」


 ルピは狼という意味だが、分かっているのかいないのか、澄んだ瞳がもの言いたげに彼の顔を見上げた。


「君にもたぶん本当の名前があるんだろうが、それは大事にとっとけ。別に知りたくもないし、名前はあまり触れ回るものではないらしい」


 彼は母から、何とも知れぬ相手にはくれぐれも自分の名を教えぬようにと言われて育った。理由を尋ねると

「世が世なら、名前とアイディを知られたというだけで何もかもを失うことがあるのよ。私がいた場所ではあまり名前を触れ回るのはよくないことだったわ」

と母は微笑んだ。その顔は蜂蜜の色を帯び、東方からの奴隷商人が連れてくる女たちに少し似ていた。

「アイディって何ですか?」

「その人がその人であるという印のこと」

「私にもあるのですか?」

「……誰にも読めないけど、たぶんあるわ」

「どこに?」

「世が世なら、わかるのよ。ピッて音がする道具で、魔法みたいにね」

 母はそう言いながら、何かをなぞらえて人差し指と親指で輪を作り、彼の目に当てる仕草をした。

 世が世なら、を口癖にしながら、その世がいつの世なのか、母が語っても語っても、彼にはイメージできなかった。

 しかし母は、ただ一人の息子に、誰もイメージできなかったものを与え、一昨年他界した。

 不思議なことに、母の遺体は空中に溶け崩れて消えた。墓はない。

 抜け殻の衣類や指輪は、残された息子が生命を維持するために売ってしまった。あのフリンジの付いたショールのようにまだ使っているものもあるが、売れないものは、小さく切って様々なことに使っている。例えばそう、ルピの包帯などに。


「仮とはいえ、君の名前を知ってしまったので私の名前も教えておこうか。私は……何にしようかな」


 しばらく考えて、彼はこう言った。


「クレド、でいいか」


 無意識に、彼は信じる心クレドという古い名を選んでいた。




 

 









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