初恋、発芽。

吉野諦一

ある青年の告白




 “真実の愛は金で買える”


 某先進国の大統領がそう言ってのけて、数年後には本当に金さえあれば誰でも買えるようになって、今や国が補助金まで出すようになって、それは教科書に載っているくらい常識的なことで、僕はまだ高校生だった。


 チャイムが鳴ってもまだ説明を続けている教師には目を向けず、クラスメイトたちは手元の端末で誰かにメッセージを送っている。大抵その相手は恋人で、世界の歴史なんかよりもずっと大切な存在で、思い悩む必要なんてどこにもなくて、教室はあまりにも無意味な気がした。


 もはや形骸化した担任の口頭連絡を聞き流しながら、僕は端末のメールボックスを確認する。新着は二件。かかりつけ医の先生からと、カウンセラーの先生から。来るのはわかっていたけれど、それ以外の新着がないというのが普段通りすぎて悲しい。そのうち悲しいとすら感じなくなってしまうことを思えば、まだ救いのある悲しさなのかもしれない。


 用件を確かめ、返事を終えたころにはホームルームが終わっていた。担任が去ったあとの教室は恋人たちの巣窟と化す。みんな互いの愛する人に夢中なのだから、つがいを持たない僕の存在なんて誰も気にはしない。わざと教室の戸を荒く開け閉めしても、耳障りな音の理由なんて考える人はここには居なかった。


 みんな、自分が持つものが真実の愛であると信じて疑わない。


 それ以外のものは予防接種によって受け付けないように、抗体ができているからだ。


 廊下を早足で駆けて向かうのは、職員室の真上に位置する生徒相談室。カウンセラーの先生の連絡によれば、既に開錠はしてあるものの先生自身の到着は少し遅くなるという。それはつまり、彼女が先に着いて待っているということだ。


 教室よりも軽い生徒相談室の戸を開けると、予想通りに彼女が座って待っていた。


「こんにちは。息を切らせてどうしたの?」

「運動不足の解消だよ。こんにちは」


 学ランのボタンをひとつ外してから、僕は彼女と真向かいの席に座る。旧い学習机二つ分の距離。彼女は文庫サイズの本を読んでいた。


「今日も紙の書籍なんだね」

「そのほうがわたしっぽいでしょう」

「キャラづくり?」

「否定しない」


 ぱたんと本を閉じ、学生鞄へと仕舞う。その一挙一動を目で追っていると、彼女は細い眉をしかめて言った。


「何かおかしい?」

「ううん、別に」

「君は理由もないのに笑う変な人だね」

「気分を害したなら謝るよ」

「要らない。代わりに帰り道は駅前までついてくるように」

「了解」


 つまりいつも通りということだった。


 彼女は水曜と金曜の放課後にこの学校を訪れる。近隣の他校の生徒で、そちらには生徒相談室がないという理由からこちらでカウンセリングを受けているそうだ。と言ってもほとんど雑談するだけで、ただの時間潰しのようになっていた。カウンセラーの先生は何を考えているのだろう。


 本を片付けた彼女は長い髪の毛先を指で弄びながら時計の針を眺めている。待ちの姿勢。僕に話題を振れということなのだろう。


「『愛の種』について話そう」


 僕らの間に共通する関心事といえば、このくらいしかなかった。このために毎週二度顔を合わせて、先生を挟んでディスカッションを重ねているのだから。


 彼女は鉄面皮とも呼べる無表情で僕のほうを向いた。


「先生が来るまで待たないの?」

「先に始めていいって。それに、居ないからこそ話せることもあると思うんだ」

「思わせぶりなことを言うね」

「思わせぶってるんだよ」


 遠回しな言い回しなんて止せばいいのに、僕はまた面倒な言葉遣いを選ぶ。このほうが上手く自分を取り繕えるような気がして、一度手を染めると抜け出せない違法売買みたいに僕の言動を制限した。


「前回はどこまで話したっけ」

「どうして私たちには愛の種が芽吹かないのか」

「うん。今回はその解決法について討論しよう」


 愛の種。正常な愛を育めるように生後八か月以内での接種が義務付けられているワクチンの俗称だ。それは思春期が訪れるとほぼ同時期に『発芽』し、真実の愛を保証する。おかげで近年の高等学校は教育よりも見合いの場としての側面が強くなっているらしい。テレビのコメンテーターが言っていたことだから信用はできないが、あながち外れていないとも思う。その現場にいる、僕の実感として。


「例えば、発芽しない原因が僕らの先天的な体質にあるのだとすれば、これは解決できるのかな?」

「そういう前例は聞いたことがないよ。発芽時期には個人差があるそうだけど、最初の接種済世代が私たちの親世代だから、そうそうそんなことは起こらないと思う」

「接種すれば必ず発芽が起こるということ?」

「でないと予防接種の意味がない」

「じゃあ、そもそも発芽の定義とはなんだろう」

「小学校で習ったでしょう。それは――」

「初恋をすること」


 先回りで口にしておきながら、それはひどく絵空事のように聞こえた。彼女も同意見だったようで、鼻をすんと鳴らして頬杖をつく。


「私たちには縁のない話だね」


 そうだろうか、とは言えなかった。


 僕は軽く咳払いをして、今回の焦点へと話を移す。


「接種したワクチンが発芽する、っていう言い方はなんだか不自然だと思わない?」

「どういう意味?」

「君はさっき予防接種と言ったよね。予防ということは、何かを防ぐ役割があってワクチンを植え付けるわけだ。でも僕らは当たり前のように『発芽』が目的のように認識している」

「それはそうだよ。発芽によって真実の愛が保証されて、一過性の愛で傷つくことを防ぐんだから」

「これが筆記のテストなら、満点の答えだね」


 だけど今は討論で、教科書通りが正解という確約もない。


「見方を変えれば、初恋は例外なく真実の愛だということになる。でもそんな話があり得るだろうか? 初めての性愛を真実だと信じるように刷り込むのが、愛の種と呼ばれるものの本当の役割だとは考えられないかな」


 彼女は返事をしなかった。答えに窮したのかもしれないし、飛躍した言論に呆れたのかもしれない。そのどちらともとれる無表情のまま、彼女は席を立った。背後の開いていた窓を閉じ、鍵をかけ、カーテンで遮光する。


 薄暗い部屋で佇む彼女は、まるで別人のように微笑んでいた。


「ここだけの話をしましょう」


 その言葉の直後、机二つ分の距離は彼女によって破壊され、次の瞬間には僕の後頭部は床に当たっていた。押し倒されていると理解するのに瞬き三回。加えて頬に触れているのが彼女の髪であると認識するのに瞬き二回。計五回も目を閉じているうちに、僕は確実に何かを失っていた。


「賢い君に教えてあげる。私たちは発芽させられないんじゃなくて、発芽させる必要がないんだよ。刷り込まれる以前に、真実の愛を識別する力を持っているから。私たちは前例のない、選ばれた存在なの――」


 誇らしげに語る彼女の表情が新鮮で、目が離せない。何を言っているかはほとんど耳に入らなくなって、忙しなく動く彼女の唇をただ見つめていた。


 どうしようもなく僕は生き物だ。理屈でどんなに繕ったって、肉体に潜む本能には逆らいようがない。脳内で分泌される伝達物質に促されるまま行動を決める、種の存続という枷から逃れられない奴隷だ。その一方で人の気も知らず、ただ気持ちいいという理由だけで僕一人に弁舌を振るう彼女の、なんと愛おしいこと。今すぐ抱き寄せてその口を塞いでしまいたいけれど、可憐な囀りを止めてしまうのも悲しく感じられた。


「――ねえ、聞いてる?」


 荒い息で僕の上にまたがる彼女。僕は平静を装いながら首を横に振る。


「聞いてなかった。もう一度お願いできる?」

「……仕方ないなあ、じゃあ初めから」


 そうして再び始まる世迷い言の羅列。彼女の言っていることが全て論拠のない妄想の産物であることを僕は知っている。その事実を、彼女に会う前からカウンセラーに知らされていたからだ。


 彼女は自分が先天的にワクチンを受け入れない体質であることを歪んだ形で受け止めている。そうしなければ疎外感に耐えられなかったからだ。彼女の在籍する学校には種の未発芽者が居なかった。そんな彼女のため、白羽の矢が立ったのが僕だった。同類と定期的に顔を合わせることで精神の安定を促す目的のために、僕はこの役割を課せられた。


 だがそれも今日で終わり。先日かかりつけ医に頼んだ検査の結果が出た。メールに添付された資料を見る限り、僕の中の種子は無事発芽したらしい。


 今の僕は堪らなく彼女を愛おしく感じている。いや、狂おしいと言ったほうが正しいかもしれない。本能が理性を透過しているかのように抑えがたく、僕の内面をずたずたに引き裂いて再構築しようとする。おかげで瞬きにすら恐怖を抱く始末だ。


 こんな恐ろしいものが自我も育たないうちに植え付けられていたなんて。人類の根底にある衝動を呼び起こす劇薬。その拡散はもう止められないところにまで蔓延っている。


「――――。――――――。――――?」


 もうすぐ演説の二週目も終わる。僕は目を開けることを余儀なくされるだろう。そのときに僕が僕のままでいられる保証はどこにもない。ただ愛情という欲望に支配される獣として、彼女に相対することになる。


 真実の愛で満たされた世界では、それが肯定される。


 だって、あらゆる愛に基づく行為に、保証が付いているから。


「――愛がなくたって、死んだりはしないのにね」


 その言葉が、僕の記憶する限りで最後の彼女の声になった。



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初恋、発芽。 吉野諦一 @teiiti

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