拡散する種

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『拡散する種』

 「ブワァーーーーーーーー」「カチッ。カチッ。カチッ。…」

 部屋の中で静かに響く、空調の音や時計の針の音。生き物の音は聞こえてこない。鳴っているのは機械の音だけだった。

 虫たちは暗い箱の中で息を潜めていた。まるで、生きていることを誰かに悟らせないようにしているようだった。閉じ込められている無機質な箱の中で、防空壕にじっとうずくまる人間のような虫たちは、何を考えているのだろうか?決して食べられることはないのに、やってくるはずのない捕食に恐怖しているのだろうか?


 プラスチックのケースが整列してある部屋は、家の二階の北側の部屋にあった。僕は目覚めて洗顔すると、いつも通り、日課のエサやりに部屋へ向かった。

 部屋のドアを開けると、いつもと同じ匂いのはずのそれは、なんだか妙に土臭かった。一瞬、子供のころ旅行で行った山登りを思い出し、懐かしく感じた。北側にある部屋の空気の冷たい肌触りは、より一層僕の五感を刺激した。

 部屋に入り、窓を開けて換気をした。遮光カーテンが開くと、部屋の中に光が溢れた。虫たちに目があるのか定かではないが、寝起きだった僕にはとてもまぶしく感じられた。

 そして、順番に虫たちにエサやりをしていった。蟻、バッタ、テントウムシ、カブトムシ、カマキリ…。それぞれの虫に合った餌を与えていく。ゴキブリやアブラムシ、雑草、野菜、ゼリーなど。


 ちょうど蜘蛛にエサを与える番がきた。僕は蜘蛛専用のケースの蓋を開け、蜘蛛を別のケースに移した。そして、脱脂綿を交換した。エサであるハエはすべて食べられてしまったらしく、一匹もいなかった。

 ケースの掃除を終えて最後に、いつもどの虫も愛でることにしている。遠くから観察しているだけでも良いが、やっぱり実際に持って、肌触りを確かめたい。長く持っていると虫にストレスがかかるので、少しの時間しか持てないが、それでも嬉しい。僕は蜘蛛を持ち、手のひらで覆った。上からもう片方の手で押さえてはいるものの、蜘蛛が僕の両手の中で自由に動き回っている感触は、とても気持ちの良いものだった。

 蜘蛛をもとに戻そうと、ケースに入れようとしたとき、足元で鳴き声がした。

 「にゃーん。」

 足元には、飼っているネコがいた。足に顔をなすりつけ、朝ご飯をねだっていた。

 その瞬間、僕は焦った。ネコが虫をおもちゃと勘違いしてケースをひっくり返してしまったらどうしようかと思った。同時に、驚いてしまった僕は、蜘蛛を放り投げてしまっていた。ネコがそれを見て、すかさず蜘蛛に近づいて行った。ネコはすさまじいスピードで、爪を出しながらひっかこうとしていた。蜘蛛はネコにひっかかれる前に、今度は、僕の足元に向かってきていた。振り返って蜘蛛を捕まえようとするネコを見て、蜘蛛を保護しようと僕はすかさず手を伸ばしていた。

 しかし、次の瞬間。勢い余った僕の手は蜘蛛をつぶしてしまっていた。ぬめぬめとした感触と冷たさが、付着しているであろう蜘蛛の体液と蜘蛛がスクラップになってしまったことを僕に教えていた。

 と思った時、僕の腕の周りを何かとても小さなものがたくさん登ってくるように感じた。それは、死んでしまった親蜘蛛の胴体に収まっていた子蜘蛛たちであった。僕はパニックになり、必死に腕を叩いた。ネコに構う余裕もなく、残った蜘蛛が床でいっせいに散らばり始めるのに対して威嚇しているネコの音を無視して、僕を襲っている子蜘蛛たちを殺すために、風呂場へ向かった。


 なぜだか、風呂場で体を洗っている時、僕は親蜘蛛が死んでしまったことに対して悲しんでいるようだった。子蜘蛛を冷徹にごしごしと洗い流しながら、涙があふれてきていた。子蜘蛛が付着している利き手で涙をぬぐえないのがじれったかった。何度も何度も腕や体のあちこちを洗いながら、だんだんと冷静さを取り戻していった。そうしていくうちに、石鹸の良い香りや、お湯の熱さなんかを感じられるようになった。

 そして、風呂場から出て体をふいた。その時、また足元にネコがいるのに気づいた。よく見てみると、子蜘蛛が大量に付着していた。僕は、ネコの心配なんかより、虫の心配なんかより、自分の寝室に子蜘蛛が入っていないかと、一気に不安になったのだった。その時、僕は自分が裸で、体が火照っていることを忘れた。


 しばらくして、僕は虫を飼うことをやめた。虫はすべて殺して埋めた。今になって分かったことだが、僕は虫をこれっぽっちも好きではなかったのだと思う。虫を触ったり眺めたりして、虫を愛でて楽しんでいるつもりだったが、そうではなかったようだ。それは、ただ単に自分が人間であることを確認しているだけだった。虫は友達で、人も虫もみんな生きている仲間であると思っていた。虫を身近において、僕は他の人とは違って虫に触わっても平気だと主張していた。しかし、それはただ単に虫と「飼う」という距離感でしか接することのできない、卑怯な心であった。それは、虫と友達になって近づいているようで、実は「飼う」ことで目をそらしているに過ぎなかった。


 今では、寝室に蚊取り線香やハエ取り機なんかを置かずに、窓の隙間から入ってきたハエや蚊を部屋の中で手で殺している。

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