第3話 吾妻の出所

磨かれているが年期の入ったリノリウムの床は黄ばんで所々剥がれ無くなっていた。頬がこけ、えらの張った坊主頭が規則正しく床を鳴らし刑務官の背に従い、廊下を進む。腰に回された縄が腹筋の前で突き出した手にしっかりと結わえ付けいた。やせ細った細腕には血管が浮き出て、筋肉以外骨に付いていない印象を受ける。全体的には、絞られた体に無駄のない筋肉だけが付いた軽量級のボクサーのような体型である。露出する肌の艶は、引き締まった身体に十分な筋肉が備わっているのが見て取れる。独房に入れられた人間が健康になることはよくある。適度な運動と栄養バランスの整った食事、ただ、筋肉をつけることはあまり望まれない。そんな環境にないと言いたいんんだが、自分を見直す機会になればと、刑務所では認めているところも出てきている。

仮釈放の本面接以来、刑務官と長く話したのは久し振りだ。夕方の日が射す廊下を無心に付き従うって進むと、決められた部屋に通された。

『電磁的記録不正作出罪、警察組織と協力関係における民間組織の構成員として、公務員と同じ処罰が下した。七年前、懲役一〇年求刑に対し、模範囚としてサンピン処遇だ。服役七年にて保護観察処分が降ろす』

坊主頭の縄は解かれた。刑務官の言葉に、自由になった両手を握ったり開いたりした。二週間前に釈放前教室に移され今日の仮出所と相成った。長い隷属生活、世俗と解離した無意味で単調な時間を、規則と服従による自己を欠落させて過ごした。息の詰まる圧迫感を感じていた。小汚い独房で汚物の異臭にまみれ自己を押しつぶす訓練をうけるのは、今日でオサラバだ。

「アガツマ、マサヨシ!」

静かな部屋に声が響く。

「はい」

辛辣に染まる顔をゆっくりとあげた。尖った目は相手を目で殺すに十分過ぎるほどに切れ味良く睨みつける。ただし、百戦錬磨の刑務管に意味はない。身内がいない吾妻は、出所に着る服も刑務官が用意した私服を身に着けた。碌なものはなく選ぶものでもなかったが、それでもなるべく中学生が始めての小遣いで買うような赤地に黒筋チェックのフリースに黒灰色のインナー藍色のヤッケサテンズボンだけは外した。吾妻は収監されてから、この瞬間まで文句一つ言わずに、素直にそれを身につけた。保護司と面談が終わると、刑務管が冷やかすように吾妻に笑いかけた。

「身元引受人に女一人きているぞ。おまえに来てくれる女がいるとは、正直、驚きだな…」

 女と訊いて、吾妻は御堂澄江を思い浮かべるが彼女が来るはずない。面影を振り払い、刑務官に従い七年間見たことのない初めての場所を抜け、待合室前まで来た。

おもむろに、扉が開けられ、女の姿が目の前に現れた。

―誰だ?こいつは?―

歳は二〇後半か、短い髪に意味深に見える大きな黒目を向けてくる。緑のハーフコートに黒のトレーナー姿で表情のない顔で見つめる。背は低く、そう高くない吾妻よりも尚低い。髪の長い長身の御堂澄江を少しばかり意識していた吾妻は意表を疲れ、見たことない知らない女に、ふんと鼻を鳴らした。

「誰だ、おまえ」

「上牧さんと同じ会社、《オフィスイト―》に勤める御子柴秋絵です。初めまして」

「上牧の知り合い?メディアか」

「プロダクションと言ってください。社長の話を七年間聞かされ、あなたに興味がありましたので志願して迎えに来ました」

刑務官も驚くほど、無表情の吾妻が七年ぶりに笑みを浮かべた。一番驚いたのは頬を引きつらせながら、自分が笑っていることに気付いた吾妻だった。

表情筋に軽い違和感を覚えながら、御子柴に近寄った。

「上牧は元気か…」

「もう、自分のちからでベッドから起き上がれなくなりましたが、まだ死ねないと言っています」

「そうか…御堂コンサルティングの一員として、なんとか一矢報いたい気分だ。俺の努めが無駄にならないようにしたいものだ」

女が一歩前に足を進めた

「志賀は?志賀はどうした?」

御子柴は言いにくそうに俯いた。

「志賀さんは変わってしまったそうです。上牧さんが彼には期待しないほうがいいと言ってました」

刑務官の咳払いが響いた。

「吾妻!」

反射的に、背筋を伸ばし気を付けの姿勢をした。目つきが座り、御子柴との笑顔で話していた人物とは別人に戻った。刑務官を睨みつけた。

刑務官は一瞬唾を飲み込み、口を開いた。

「…手続きは完了している。くれぐれも保護司と定期的に面会するのを忘れるな。それと、自分の居場所は逐次報告だ。いいな」

吾妻は口を一文字に結んで刑務官を睨み続けている。

「返事は!」

刑務管は少し言葉を震わせ吾妻を見つめた。吾妻は歯軋りして「…はい」と返事をした。続いて吾妻の口が少しだけ動き、何か言おうとして止め、腰を折った。

「お世話になりました」

「行きましょう」すぐさま、御子柴が吾妻の手首を握り、外へ連れ出した。吾妻はよろけながら引かれて行く。

刑務官は口もとをあげた。「あれ、戻りますね」と呟くと、吾妻のことなど、忘れようとするかの如く扉をぴしゃりと閉めた。

吾妻が足を絡ませながら施設の内外を分ける門から出た。途端に吾妻が引っ張られている手を振りほどいた。

「大丈夫だ!もう、大丈夫」眉を吊り上げ吾妻が怒鳴る。

「吾妻さん、ひと悶着起こす気だったでしょう!」

吾妻が一呼吸置いて、建物を見上げた。

「睨むぐらい許せよ。おまえには分からんさ。俺に、それぐらいの権利は残されていることをな…」

吾妻が、自分の過ごした時間を有意義にする為の儀式のように建物を見上げ睨みつけた。

その顔を覗きこむように御子柴が語りかけた。

「もっと冷静な男だと思ってました!噂とは違うんですね!」

吾妻は、御子柴を睨んだ。

「勝手に理想像を作らんでもらいたいな、上牧の指導が悪いのか!」

腰に手を当て御子柴は少し踏ん反りかえる。

「あなたの力になれるのは、今は上牧さんだけよ。その下で働く私だけ。上牧さんが掛けるだけの値打ちがないなら、私が切るだけです」

「おまえ、偉いのか?」

御子柴は、眉間に皺を寄せ、息をゆっくり吐いた。

「志賀卓巳に匹敵するほどの優秀なセキュリティコンサルタントでありながら、御堂澄江の無実を明かすため、刑事の目の前で警察システムにハッキングした恐ろしい男。自虐的行為の人物でしょう。そんな奴の顔を見ておく最後のチャンスかもね」

「ふん…」吾妻は含み笑いを浮かべる。「俺をネタにするなら覚悟をしろよ!」

「上牧さんから聞いてる。計画の一部をね」

「あの馬鹿、お前に話したのか?」

「全部じゃないわ、それに、あなたは全部を誰にも話してないでしょう」

「話すつもりはないし、俺が何をしようとしてるかに興味を持つな」

「じゃあ、ここでさよならになるわよ。私に吾妻さんの計画を手伝わせてください。それが、メディアにハッカーの怖さを示すいい機会になるでしょう」

「分かって話してると思っていいのか?」

「そうでないと、一人で吾妻さんの前に来るわけ無いでしょう。あなた、傍から見たら、かなり危険人物だし、見かけもチンピラにしか見えないわよ」

「まぁわかった。とにかく、会社に戻りたい」

御子柴は駐車場に停めた白のバンの鍵を開け、吾妻を乗せた。

「本町の喫茶へ行ってくれ、《メジャー》だ。あそこのエッグハムサンドが食いたい」

「御堂コンサルティングは本町から南港に移った。もう五年前の話よ。それに、《メジャー》は去年マスターが引退して店仕舞いした」

「馬鹿野郎め…、初回から俺の計画が頓挫じゃないか」

吾妻は瞑想に入るようにセカンドシートを倒して目を閉じた。

御子柴はウィットに飛んだ会話に少し笑った。

「何がおかしいんだ」

「いえ、エッグハムサンドは無理ですけど、何か美味しいものを食べに行きますか」

「任せる。その後、志賀に会う。出来るだけ早く、俺を牢屋に打ち込んだあいつにはけじめをとってもらわないとならない」

吾妻が片目を開けたがすぐ閉じた。

御子柴の運転するバンが高速に上がる。すぐに吾妻はいびきをかいて深い眠りに入った。

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ハッキング リバーシ 藤田 眞一 @sitikoku

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