極彩色の■■が咲く

雪車町地蔵

それは一冊目だったのだろうか

 本好きというのは不思議な性質を備えていて、書物に関連するときのみ、オカルトめいた直感を発揮することがある。

 たとえばぼくは、書店の本棚の前を通過するときに、奇妙な視線を感じることがある。

 視線という言い方が解りづらいのであれば、電流に打たれたような感覚。某スペースノイドのごとく、脳裏で「ティキーン!」みたいな音がする。

 その視線を感じるとき、書架には確かに、その瞬間のぼくが求める面白い本が収まっているものなのである。


 さて、本題に入るが……ある日ぼくは、視線を浴びた。

 書店ではない。

 少し調べ物をしようと繰り出した図書館でのことだ。


 建物の奥まった位置にある、いかにも誰も利用しなさそうなカテゴリーの書物が収められた一角。

 そこを横切ったとき、確かに音を聞いた。

 吸い寄せられるように書架に並ぶタイトルを眺めていくと、なんとも奇っ怪なものが目に入った。


『世界で一番怖い話』


 そんなタイトルが刻まれた書籍だった。

 古めかしいものではなく、文庫本でもなく、ハードカバーでもなく、ぶ厚くもない。

 どこまでもふつうに、ありきたりな、何の変哲もない。

 けれど、タイトルだけが奇妙な本。


 ぼくは、思わずそれを手に取っていた。

 確信があった。

 きっと、これは凄まじいものだと。

 これまでの直感が、それを裏付けていたから。


§§


 本を借り受けると、ぼくは急いで家に帰った。

 帰り着くなり戸締まりを確認し、コーヒーを淹れて、ベッドに半身を横たえながら、あの本を取り出す。


 ……ここではじめて気がついたのだが、本にはタイトル以外の情報がなかった。

 作者の名前も、表紙の絵もなかった。

 ただ、なんとも言えない色合いの装丁がなされている。


 ドキドキとしながら、本を開く。

 一ページ目から読み始める。

 最初のページは白紙。よくあることだ。

 次のページには『世界で一番怖い話』の一文。

 随分ともったいぶるじゃないかと思いながらも、めくる手は止まらない。


 次のページ。

 次の次のページ。

 次の次の次のページを、ぼくはめくって──


 ハッと気がついたときには、日が暮れていた。

 ぼくは動転した。


 というのも、読んだはずの本の内容を覚えていなかったからだ。

 夢中になりすぎて細部が思い出せないとかではない。

 


 淹れたはずのコーヒーは手つかずで、すっかり冷えてしまっている。

 こんなことは、今までになかった。

 なんだか急に、手にしている本が薄気味悪いもののように思えて、ぼくはそれを本棚に収めた。

 もう、今日は読書をする気分ではなかった。


§§


 翌朝、目を覚ましたぼくは強い違和感を覚えた。

 なにかがおかしい。

 視界の中にあるものは、普段と変わらない。

 数度瞬きをするうちに──気がついた。


 頭の中に、文字が浮かんでいるのだ。


 文字。

 赤、緑、黄色、青、紫……原色が入り乱れる極彩色の文字の列。

 それが、目を閉じている間だけ、脳裏で踊っている。


 なんだ、これは?

 本を読みすぎて、中毒にでもなったか?

 首を傾げながら、文字が何を現しているのか読み解こうと試みる。


 複雑に入り交じった色彩の文字は、判読にたいへん苦労したが、やがて意味合いを理解できるようになった。

 ぼくの脳裏には、こんな文字が書かれていた。


『産めよ、殖えよ、芽吹け』


 聖書の一節……とは違う。

 けれど、どこか強い信仰というか、熱を感じるセンテンス。

 脳裏ではそれが、チカチカと瞬く。


 初めのうちは、気にしないようにしていた。

 そのうち消えるだろうと思っていた。

 けれど、昼になっても、翌日になっても、そして一月が経っても。

 ぼくの脳裏から、その文字列が消えることはなかった。


 この頃から、ぼくは自分の正気を疑いはじめた。

 というのも、自覚症状のない奇行が目立つようになったからだ。

 その際たるものが、文字を書き付けることだった。


 手にペンなり鉛筆なり、或いは端末なりを握っていると。

 気を抜いた拍子に、文字を書いてしまう。


『産めよ、殖えよ、芽吹け』


 視界の裏に、脳髄にべったりとこびりついて離れないあの文字を、ぼくは無意識に刻みつけている。

 或いはそれは、消せないものを吐き出そうとする当然の本能だったのかもしれない。

 日増しに、この衝動は加速していった。


 文字はいつしか増殖をはじめていた。

 いまやぼくは、目を閉じることを恐れている。

 身体の中のすべてがあの文字列に変わってしまったような感覚。

 気を抜けば、溢れて決壊しそうで。


 そうして──ぼくは筆を執ったのだ。

 読書好きとして、いつかは本を書いてみたいという欲望はあったけれど、これはまったく別の行為だった。

 ただ己が蝕まれるのが恐ろしくて、自我が日に日に消えていくのが恐ろしくて、せめて自分が生きていた証しを残したくて、文字を書き殴っている。


 けれど、ああ、かみさま。

 なんということだろう。

 自分の半生を書き付けたはずの紙切れには、ただただびっしりと、


『産めよ、殖えよ、芽吹け』


 あの文字列が、どこまでもどこまでも書き殴られているだけなのだった。

 ぼくの血で、肉で、骨で。

 心を、意識を、魂をインクにした、極彩色の文字が。


 もしかすると、これまであの本を手に取ってきたもの立ちも、同じような衝動に駆られたのかもしれない。

 そして、ぼくと同じように文字を書いて、だから、あの本はコピーされ、拡散されて──

 ゾッとするような仮説を思いつき、ぼくは嘔吐した。


 吐き戻した胃袋の中身は。

 あの、極彩色の文字だった。


§§


 すべてが終わったとき、ぼくという存在はどこにもなかった。

 ただ一冊の本が、そこにはあるだけだった。


『一番怖い話』と、題打たれた本が──

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