第38話 どうか、許さないで
レキナリスの心臓は大切な時に正しい早さを刻まない。走り出したい彼の体から力を奪い、自由を奪い、幸せの邪魔をする。
彼は知っていた。自分の明日は不確かだと。いつか自分の心臓が自分を殺してしまうと。
しかし彼はそれで良かった。不鮮明な明日よりも目の前にある確実な幸せに満足していたから。それまで培った幸せを愛していたから。
だから八年前の彼は毎日笑っていた。笑えていた。
けれども、彼の幸せを崩した者が現れたから。全ての歯車を巻き込んで、自分の為だけを想ってくれた弟がいたから。
――レキ兄、これ恋の記憶! これで治るよ、レキ兄の心臓、治るんだ!
嬉々とした表情で記憶を差し出した弟――リオリス。
レキナリスは恋の甘美な香りに理性を奪われそうになったが、受け取ることはしなかった。
自分の心臓が弱いせいでリオリスに罪を犯させた。
自分の心が弱いせいでアスライトを殺させた。
自分の体が弱いせいでロシュラニオンから思い出を奪わせた。
全てが弱い自分のせいで、ランスノークが他者を恨むきっかけを作ってしまった。
レキナリスはただ温かな日々が好きだったのに。弟も家族も王女も王子も、みんな好きだっただけなのに。
彼はリオリスを叱れなかった。抱き締めて背中を撫でて、自分の弱さを後悔した。
彼は八年間、自分を責め続けたのだ。
自分が悪い、自分の心臓が悪い、自分の体が悪い、自分の考えが悪い、自分の心が悪い――自分と言う存在が悪い。
繭に籠り続けた彼は懺悔を続けた。自分に罰が下ることを待っていた。
だから、彼は弟の部屋にあった氷の種子を見つけた時に決めたのだ。
眠りの花を持った弟に気付いて、体に鞭を打って追い掛けて。何度足が震えて眩暈がしても、その歩みがどれだけ遅くても、どれだけ長くなっても。
城に辿り着いたレキナリスは眠りの香りに気付き、中には入れなかった。窓が割れる音を聞いても走り出せず、彼の体は言うことを聞いてくれない。
「レキッ」
「ッ、スノー……」
彼に気付いたのは――面をつけたランスノークだった。城の入り口が突如開いた先に、たった一人で王女が立っていた。
レキナリスは香りが充満している中に立つ王女に驚いた。どうして眠っていないのかと、どうして起きているのかと。
「なんで、スノー……君ッ」
「忘れたのかしらレキナリス。私、自分の目標を達成する為なら何でもするの」
微笑んだランスノークが付けている面は鬼才国で作られる物だ。レキナリスは意図を察し、自分を抱き締めた王女に泣きたくなった。
彼女の目標を青年は知っている。ミール・ヴェールの目を全て潰し、自分の右目も潰すことが王女の目標だ。
ランスノークは友の目を潰した副団長を許さない。弟が目覚めた時に喜んだ自分を許さない。考えるだけで動かなかった自分を許さない。
レキナリスは知っている。王女が毎日恨みを抱えて生きていると。自分自身の事を嫌いになってしまったと。
陽だまりのように優しかった新緑に陰りがさしたと、レキナリスは知っている。
青年を抱き締めている王女は、可笑しそう目を細めていた。
「ミール・ヴェールの寝込みを襲うことも考えたの。ネアシスで眠らせた間にって。その時に自分が眠らないように鬼才国の面は準備していたのよ」
「でも、今この時間にそれを付けてるなんて」
「ロシュとクラウンの様子が昼間おかしかったの。だから私も備えておいた。それだけよ」
ランスノークは聡明だ。周囲をよく見て先を予測し、備えを積んで結果を見据える。だから彼女は予想出来た。クラウンが仮面をロシュラニオンに渡していたことから何かがあると。自分が知らないところで二人が何かをしていると。
鬼才国に外交で訪れた時に購入した面をつけて。自分がミールに行おうとしていた事を城全てに行う者がいたと少し感心すらしながら。
王女は割れた窓硝子の音も聞いていた。
弟の声も聞いていた。緑の友の声も聞いていた。青の友の声も聞いていた。
彼女は賢い。だからこそ自分だけが飛び出しても三人を止められないとすぐに分かった。リオリスが
賢さも敏さも彼女は磨いてきてから。相手の考えや行動を読んで、不利にならないように国と民を守らなくてはいけないから。自分の力を過信せず、どうすれば自分が正しいと思える結果へ導けるか思案して。
彼女が考えたのは、レキナリスを連れて来る事だった。
大人では駄目だと直ぐに分かった。年齢的には大人になっているレキナリスとランスノークだが、彼らの心はあの日のままで止まってしまっている。
手を繋いで輪になって、今日は何して遊ぼうかと語っていた日々のままで。
雨の日の書庫で本を読み聞かせ、眠ってしまった三人を笑ったあの頃のままで。
(だって、愛しいのだもの。愛しくて、愛しくて――堪らないのだもの)
過去に
その道を見つめる彼女を支えていたのはニア達従者だけではない。五人で過ごしたあの日々だから。共にあった四人がいたから。
ランスノークは、抱き締めたレキナリスと共に決めた。
三人を止めるのだと。止めなければいけないと。これ以上、この関係が壊れてしまわないように。
「あぁ……君は本当に……」
レキナリスはランスノークを抱き締めない。昔のように手を繋ぐことも無い。
彼女が迷った時にだけ背中を柔く押す。彼女が道を踏み外しそうになった時に腕を掴む。
それはニアや従者達とは違う。彼らは決して王女に触れはしないから。彼女の内側にまで入り込まないから。明確な境界を大人として保っているから。
テントのランスノークを止めたもレキナリスだった。彼女の目標が達成されないように説得して、腕を掴んで進ませないようにして。
そうしなければいけないのは自分だと知っていたから。彼女の恨みを辿れば自分に行きついてしまうから。
「立ちなさい、レキナリス。私達は年長者である前に姉と兄なの。弟達を止められなくてどうするの。巻き込まれた友達を救えなくてどうするの」
立ち上がった彼女は手を差し出す。姉として、友として。
左胸を押さえた青年は手を重ねる。兄として、友として、今日こそは止めなくてはいけないから。
「ねぇ、スノー……お願いがあるんだ」
「なに? 凄く嫌な予感がするのだけど」
支え合った二人は弟達がいる庭に向かう。その道中で、レキナリスは薄幸的に笑った。
「俺を――止めないでね」
王女は少しだけ思案する。レキナリスは微笑み続け、ランスノークの頭に頬を寄せた。
「お願い」
柔らかな言葉は、五人の中で誰よりも死に近い彼特有のもの。慈愛に満ちた優しい声。
笑った黄金の瞳を見たランスノークは、無意識に視界が滲む感覚を覚えていた。
「……狡いわ、レキ」
「……ごめんね」
青年は伝えない。抱き続けた感情を。
王女もそれを分かっている。だから彼女も伝えない。
ランスノークは青年の願いを了承した。
レキナリスは王女に感謝を伝えた。
二人は全てを覚悟して弟達がいる場所に辿り着く。
誰もが眠らされた中で、血を流して対峙している彼らを見て。
レキナリスの心臓が凍り付く。
ランスノークが息を詰める。
血が滲む両手で短剣を握り締めたリオリス。
彼に剣を向けているロシュラニオン。
肩が
「――もう一回、死んでよ、ロシュラニオン」
パラメルの弟は足を踏み出したから。
自分の為ではなく、生きていて欲しい兄の為に。兄の為だけに。
「レキ兄の、為にッ!」
その言葉で、レキナリスの覚悟が決まった。
「――リオリスッ!!」
出せるだけの声を叫び、三人の動きを止めたレキナリス。
ランスノークは面を外し、自立したレキナリスの背中を見ていた。
「レキ、兄……どうして……」
一瞬たじろいたリオリスだが、彼は直ぐにロシュラニオンを見る。王子も構えた剣を下ろすことは無く、クラウンも剣先を上げた。
「ロシュラニオン、クラウン、リオリス、それ以上戦わないで」
背筋を伸ばさせる王女の声。凛と研ぎ澄まされた指示を聞いた王子と付き人は、それでも緊張を解きはしなかった。
リオリスは王女を一瞥するが、体は王子の方を向いている。何を言われても止まる気が無いとパラメルの弟は伝えており、ランスノークはドレスの裾を握り締めた。
「スノー」
レキナリスが呼ぶ。それだけでランスノークは前を向き続け、やはり視界は滲んだのだ。
「ありがとう」
笑ったレキナリスは歩き出す。気づいたリオリスは肩を揺らし、短剣が震えた。
「リオ」
柔らかな声で兄は弟を呼ぶ。それを無視出来なかったリオリスは、微笑んでいるレキナリスを見たのだ。
兄の手がゆっくりと弟から短剣を下ろさせる。リオリスの髪を撫でたレキナリスは、目尻に涙を溜めていた。額を弟と合わせ、慈しみで包み込み。
「離して、退いてて兄さん。俺はやめない。やめる気なんてない、だからッ」
「いいや、もうやめていい。やめてリオ。俺はこれ以上、お前が友達と家族を傷つけるのを見過ごせない」
震えたリオリスの手から短剣が落ちてしまう。握り続ければ兄を傷つける気がして、恐ろしかったから。
ランスノークはロシュラニオンとクラウンの前に来る。二人を背に隠すように立った姉は、弟と友の剣を下ろさせた。
「姉さん、危険だ」
「スノー……下がって」
「良いから、もうやめなさい」
ランスノークの新緑はレキナリスだけを見つめている。クラウンは口を結び、ロシュラニオンは冷えた怒りを押し留めようと呼吸した。
リオリスは震える呼吸を吐き出し、レキナリスを突き放せない。
突き放せば折れてしまいそうなほど、兄が儚く笑うから。自分の頭を壊れ物を扱うように撫でてくれるから。
殺気と覚悟にまみれていたリオリスから力が抜けていく。この兄の前で、王子を襲うことは出来ないと悟ったのだ。
リオリスの頭を自分の肩に寄せたレキナリス。
兄の片手は弟の手から離れ、微かに動いた。
クラウンとロシュラニオンがその動きに気づく。
レキナリスの袖から零れた――ナイフを見る。
鋭く輝く刃を、レキナリスが握り締めた姿を凝視する。
「――レキッ!!」
クラウンの叫びでも、レキナリスは止まらない。
彼は勢いよくナイフを振った。
弟の――リオリスの腹部を貫く為に。
刃が肌に埋まり、突き抜け、内臓と血管を傷つける。
リオリスは目を見開き、体を突き抜けた痛みと刃の冷たさを信じなかった。
レキナリスはリオリスを抱き締め続ける。暴れない弟と共に膝を折って。吐血したリオリスを抱き締めて。
「れき、にい……」
「ごめんね、リオ。ごめん、今までずっと無理させてごめん。傷つけてごめん。背負わせてごめん」
ナイフを離したレキナリスは両手で弟を抱き締める。
クラウンとロシュラニオンは息を呑み、二人の前にランスノークは立ち続けた。
リオリスの呼吸が早くなり、血だらけの手で兄に縋る。弟の口から零れる血液も、瞳から流れた涙も、兄は受け止めた。
「なんで、なんで、わかって、くれないの……兄さん……おれは、ただ……」
「分かってるから止めに来たんだ。これ以上、リオは頑張らなくていい」
レキナリスの指先から糸が零れる。それは周囲の土を
泣いている弟の顔を肩に押し付けて。自分の行動を見せない為に。
土を飲み込むレキナリス。
糸に包んだ土は彼の胃の中に広がり、不快感で満たし、それでも彼は嘔吐を堪えた。
「待て、レキナリス、お前」
「黙ってロシュ」
「姉さん」
レキナリスを止めようとロシュラニオンは動きかける。それをランスノークは止め、クラウンは首を横に弱く振った。
「ねぇ、レキ……変なこと、考えてないよね」
土を
糸の一部がレキナリスのポケットを探り、小さな繭を取り出している。開かれたそこには氷の種子があり、クラウンの背筋が凍った。
「レキッ」
「クラウン」
レキナリスは微笑んで、弟を胸に抱き締め続ける。リオリスは指先を痙攣させたが、兄だけは傷つけることが出来なかった。副団長に怪我をさせても、団員から記憶を奪っても、友達を傷つけても。
リオリスには、レキナリスを傷つけることだけは出来なかった。
だから弟は兄の腕の中で目を閉じる。どれだけ自分が頑張っても兄は喜んでくれないと知って。自分が頑張るだけ兄を傷つけてしまうと悟って。自分の頭を撫でるレキナリスの覚悟を感じてしまって。
レキナリスは、自分を抱き締めるリオリスに笑ってしまう。笑いながら泣いてしまう。
「ごめんねクラウン。ごめんねロシュ。二人につらい思いさせて。ごめんねスノー、君の目を陰らせて、副団長を恨ませて。俺の体が弱いから、俺の心臓が弱いから、リオにも、アスにも、ロシュにも、スノーにも……苦しい事ばかりさせて」
「違う、違うレキ。決めたのは私だ。私達だ、だからッ」
近付こうとしたクラウンの腕をロシュラニオンが掴む。道化が見上げた王子は唇を噛み締めており、赤い瞳は氷の種子を持つレキナリスを凝視した。
クラウンは震えてしまう。背中を冷や汗が流れ、レキナリスが氷の種子を――イセルブルーを口に入れる瞬間を止められない。
「レキナリス!!」
叫びは間に合わない。
レキナリスの覚悟は止まらない。
彼は、氷の種子を飲み込んだ。
同時に、
走りかけたクラウンをロシュラニオンは抱き締め、レキナリスは背中から――
地を這う冷気が青年の体から漏れている。二の腕や腹部、足先や胸からも
それでもレキナリスは意識を飛ばさない。
抱き締めているリオリスの体も
「……ごめんね、リオ」
血を吐いたレキナリスは泣いている。
リオリスはそこで初めて顔を上げ、自分の頬に落ちた血と涙を拭わなかった。
「れき、兄に……おいて、いかれないなら……いいよ」
笑ったリオリスの体を
レキナリスの体は勢いよく凍り付いていき、閉じ込める為の繭が形を固めていった。木々に糸を張り巡らせ、二人の体を地面から離し、兄弟と糸以外に氷が触れないように。広がらないように。
ランスノークは手を握り締め、笑ったレキナリスの姿を目に焼き付けていた。
「ぜんぶ、おれのせいだった……おれが、いたことが……間違いだったんだ」
レキナリスは凍える喉を剥がして懺悔する。繭を完成させようと意識を保ち続け、リオリスの手からも繭を作る為の糸が零されていった。
兄の黄金の瞳は、三人の友に向く。
凍える涙を零しながら、彼らしく、穏やかに笑って、笑って、笑って。
レキナリスは、
「最初から――おれが……死ねば、すむ……話だった」
泣いている兄弟を繭が包み込んでしまう。
凍っていく二人が隠されてしまう。
泣いていた瞳も、凍らされた血液も、氷の涙も、全て、全て、全て。
繭の中に閉じ込められる。
レキナリスの胃の中に根を下ろしたイセルブルーは肉を食い破り、弟の体も貫き、しかし凍らせた繭の外には出られなかった。外は木々に繋がる糸だけであり、そこまで
冷気が兄弟を殺していく。
兄を想った弟の呼吸が止まる。
弟を止めたかった兄の心臓が止まる。
ランスノークは顔を覆い、溢れた涙を止められない。
クラウンの全身から力が抜ける。
ロシュラニオンは彼女を支えて、瞼を閉じることが出来なかった。
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