手を離した頃
第27話 気づくと言う悪夢
――ロマキッソ・ロンリーの記憶が消えた。
しかし全ての記憶が消えたわけではない。
イセルブル―の事件を起こした、犯人に関する記憶だけが消えていた。
犯人が一体誰か。凍る城の中で何を聞いたのか。
それに関連するように、ミールが事故に遭った時に感じた恐怖やクラウンに伝えた謝罪。道化師と二人きりで話そうとしていたと言う記憶が消え去っていた。
(間違えた、間違えた、私はまた間違えた。なんでロマの傍にいなかった。昨日あれだけ怯えていた子の傍に、私はいるべきだった。犯人が見ているのが私だけの筈が無かったのに、ロマの勇気を折るだけで終わると思ったなんて、ふざけるなよ自分)
クラウンの胸に溜まった感情が血管を流れていくように四肢に伝わり、末端へ行き届き、体を重たくさせていく。体温は冷水でも被ったように冷え切っているのに、頭だけは熱く煮えていた。
気を抜けば、手当たり次第に物を壊したい衝動に負けそうなクラウン。道化師は深呼吸を心掛け、神経を周囲に張り巡らせていた。
だからだろう。
クラウンは横から伸びてきた手首を勢いよく掴み、容赦なく地面に叩き倒したのだ。
「く、クラウッ!!」
「……あ、リオ」
地面に叩きつけられた少年――仰向けのリオリスは、若干目を回している。
クラウンは直ぐに手を離し、緑頭の少年は腰を摩っていた。
「もー……俺の話、聞いてましたかー!」
「いや、ごめん、ほんとごめん、何も聞いてなかった」
クラウンは両手を顔の横に上げている。リオリスは口を尖らせながら立ち上がり、ひび割れた仮面を覗き込んだ。
「市場、着いてるよ」
「わぁお」
クラウンの耳に周りの喧騒が入り込んでくる。
腰に手を当てたリオリスは市場を見渡し、楽しそうに笑って見せた。
ここは
鬼気は額に角を持ち、肌は鮮やかな赤。鋭い爪と火を操る力を有しており、サーカス団にも鬼気の団員は在籍している。
それが、火のイリュージョンを得意とする
鬼才国だけで発展した文字や名前に当初は団員達も首を捻っていたが、今では良き家族である。
鬼才国と初めての貿易に成功したのは、誰でもないイリスサーカス団。それはそれは骨が折れる交渉をガラが何年も続けた結果、今では大の得意先だ。
鬼気達は団員を見かけると陽気に声をかけ、灯は今頃ガラと共に国王に謁見している筈である。
クラウンは、市場の中で鬼気の視線を集めるピクナルと、彼女の後ろを着いて行くロマキッソを発見した。道化師の目は自然と細められている。
群衆の波に流されそうであったクラウンの意識はやはり、リオリスに引き戻されるのであるが。
「ほら、クラウン! 仮面の屋台もう直ぐ着くから! 意識飛ばさない!」
「……あいあーい」
引き摺られるように群衆を抜け、辿り着いた一つの屋台。そこには屈強な鬼気の男が立っていた。
「よぉリオリス、クラウン! 急に来るなんざ珍しいな!」
「お久しぶりです。色々ありまして、急遽立ち寄ったんです」
「ひっさしぶりーおじさん! 見て見てこの仮面! すっごいひび入っちゃってさぁ~、新しいの買いに来たんだー!!」
丁寧にお辞儀したリオリスとは反して、一気に陽気さを演出するクラウン。あまりの変わりように緑の団員は苦笑し、気づかない店主は豪快に笑った。大きな手はクラウンの黒い頭を叩き撫でている。
「おうおうそうかそうか! 色んな表情があるからしっかり見ていきな!」
「ありがとうございます」
「ありがとー! へい! リオリスは別の屋台回ってな!!」
「やだよ、それだと一緒に買いに来た意味無いじゃん」
クラウンはリオリスの肩を軽く押し、少年は息を吐きながら笑っている。
仮面の試着時に顔を見られるのがクラウンは嫌なのだ。しかしリオリスも引く気はないらしい。
道化は少年に背中を押されて屋台に入る。そこには多様な表情の仮面が並び、道化師は不満そうながらも仮面を選び始めていた。
泣き顔に笑い顔。描かれた表情しか見せることが出来ないクラウンは仮面選びには真剣である。
リオリスはクラウンの隣に立ち、笑顔の仮面を両手に見比べている道化を見つめる。どちらも黒いカツラがついているタイプであり、長さはセミロング程度だ。
「右手の方が満面の笑みって感じ」
「やっぱり? 左のは微笑だよね」
クラウンは右手に持つ仮面を掲げ、左手の仮面は棚に戻している。その流れで仮面を外したクラウンは、俯きながら試着した。
黒い髪が無くなり、深海の髪色が現れる。同じ屋台に居た者達はその青に感嘆の息を零し、リオリスは足を少しだけ動かした。
クラウンの背後に立ち、青い髪の盾になろうとする少年。道化はそれに気づきながら仮面をつけ終わり、黒い髪を払っていた。
「ありがと、リオ」
「何のことかな」
振り返ったクラウンの顔には満面の笑みのが貼りついている。リオリスは柔和に微笑み、黒い髪を撫でていた。
「この髪、今まで以上に指通りいいね。長さも可愛い」
「そうかそうか。買ったら速攻でショートに切るよ」
「酷い」
「長いのは嫌いなんだ」
クラウンは鏡に顔を映し、黒い髪を指先で整えている。どうやら一つ目はこの仮面に決めたようだ。
「それにする?」
「うん。これがいいね! 予備も見て良い?」
「いくらでもどうぞ」
「これと予備の二つでよし!」
穏やかなリオリスは、跳ねるように歩くクラウンの隣に並んでいる。店内と言うことでひび割れた仮面を付け直した道化師は、別の笑顔を探していた。
「ねぇ、クラウン」
「んー?」
「……何か、一人でしようとしてる?」
しゃがんでいるクラウンの隣にリオリスは膝を着く。
クラウンは予備の仮面を吟味する素振りをし、二人の間から会話が無くなった。
リオリスはそれ以上聞かない。道化の空気を察しているから。
クラウンは言葉を探し、思考し、不意に項垂れるように俯いた。
「……リオ、今晩、時間作って。話したいことがある」
「……分かった」
リオリスはクラウンの背中を撫でる。その手は道化師を落ち着かせる温かさを持っており、クラウンは唇を噛み締めていた。
* * *
「結局、髪の毛切ったんだ」
「長いのは嫌いだって言っただろ?」
深夜。月光に照らされる鬼才国の林の中、クラウンは夜空を見上げていた。顔には昼間リオリスが買った仮面をつけ、黒い髪は綺麗に切り揃えられている。
芝を踏んで林から顔を覗かせたリオリス。団員が寝静まったのを確認し、先にクラウンが荷台を出て、時間を置いてリオリスもやって来たのだ。
クラウンは木の幹に
立ったままの少年は腕を組み、道化は顔を俯かせた。
「それで……話って?」
リオリスは穏やかな口調で問いかける。クラウンは直ぐ目の前の地面を見てから、青い瞳を仮面の下で伏せていた。
クラウンは沈黙している。
沈黙して、沈黙して、沈黙して。
リオリスも口を開かない。喋ることを促しはしない。
少年の黄金の瞳は星の瞬きを数え、道化は両手で顔を覆っていた。
傷の無い笑顔が隠され、黒い髪に覆われる。
深呼吸を一度した道化は――低い声を吐きだした。
「なぁ……リオリス」
「……なに?」
リオリスの黄金の瞳がクラウンを見下ろす。
クラウンの青い左目もまた、ゆっくりとリオリスを見上げた。
共に王子の付き人となり、共に今までを過ごし、共に育ってきた相手を。
だからこそ、道化師は聞かねばならない。聞く覚悟をしなければならない。
自分に残った記憶と、残っていない記憶について――問わねばならない。
「お前――事件があった日、何処にいた?」
沈黙が落ちる。
耳鳴りを起こしてしまいそうな静寂が蔓延する。
草木も眠る時間帯。
気温は下がり、生きる者の大半が休む時間。
クラウンは四肢を脱力させながら立ち上がり、リオリスに向き直る。
幹に
「何のこと?」
「とぼけんなよ」
クラウンの声は地を這う低さを孕み、仮面の奥から凍てつく瞳が向けられる。
リオリスは腕を組んだまま自立し、やはり顔には笑みがあった。
道化師の体を巡る血液が煮えていく。心臓は力強いポンプとして動き続け、掌には汗をかかせていた。
「あの日、レキナリスは寝込んでた。ピクナル先輩とベレス先輩が看病してたが――お前、あの時いなかったよな」
リオリスの目が細められる。ゆっくり、それでも、確実に。
クラウンが確かに覚えていること。
――レキナリスであるが、彼は事件があった日テントの中で寝込んでいた。クラウンにはその記憶が確かにあり、ピクナルとベレスと共に看病していたのも覚えている。
その事実と共に、彼女はあの場にいなかった者も覚えている。
珍しくいなかったが為に、違和感として記憶されたのだ。
レキナリスを看病していたのはピクナルとベレス、そしてアスライトだった。
そこに、兄の事を慕い心配する弟――リオリスは確かに
「おかしいよな、兄さんにべったりだったお前が、あの日だけはいなかったんだ。レットモルに永住したレキナリスが心配だからって、一緒に残るくらい大好きなのにな」
クラウンの言葉に、リオリスは肩を竦めて微笑むばかり。
否定もしなければ肯定もしない。反論も無ければ異論も唱えられない。
仮面を月光に照らされたクラウンは、
「否定されないから続ける。今言ったのは私に残ってる記憶だが、次は残ってない記憶の確認だ」
「おかしなものを確認したがるね」
「言い方が悪かったか? なら言い直そう。残ってないと
道化師は自分の側頭部を指で叩く。苛立つように、責めるように。
緑髪の少年はやはり黙り続け、その表情は笑顔なのだ。
クラウンに残っていなければいけない記憶。団員の誰もが知らなければいけないのに、誰に聞こうとも「覚えていない」とされた事柄。
恐らく、この「リオリス」と「レキナリス」と言う兄弟に対して、この記憶が存在する者はいないのだ。
覚えていなければいけないのに。
最初の最初、出会った時の――自己紹介で知っているべき筈の事。
「リオリス、お前さ――自分の種族、言ってみろよ」
雲が月光を遮っていく。
クラウンの仮面には影がかかり、リオリスの顔も暗くなる。
少年は目元を和らげたまま、楽しそうに笑っていた。
「俺が何の種族かなんて、入団の時に教えたよね?」
「あぁ、きっと教えられたんだろうな。それがイリスサーカス団のしきたりだ。その種族が食べられない物や特性を知る為に、自分が何の種族か最初に公言しておく」
脱力したクラウンの指に力が入り、関節が鳴る。リオリスは笑い続けており、肩も可笑しそうに揺らされていた。
「そうだよ、そうだ、その通り。あぁ、普段考えないから忘れちゃった?」
「そうだな、忘れたよ。お前が何の種族か、何を好んで食べて、何が出来て、何処から来たのか――忘れさせたのは、お前だろ?」
道化師の額に痛みが走り、それでも彼女は目を細めることはしない。頭に浮かぶのは、緊張したように自己紹介した黄金の瞳の兄弟の姿。
けれども、声は思い出されない。二人が確かに言った筈の自己紹介が思い出せず、それが思い出せないことに違和感など抱かなかった。
緑の少年は顔に満面の笑みを浮かべ、道化師に答えない。
クラウンの中では感情が今にも暴れ始めそうであり、それを堪える為に、彼女は手を握り締めた。
「道化師のベレス先輩はシルマ。花形のピクナル先輩はプモン。空中ブランコのフィカとリューンはアイロス。玉乗りのロマキッソはシュプース。イリュージョニストの灯は鬼気。フープ使いのバンルム先輩はバーキュオン、ダンサーのバレバッドはネシス……裏方だって全員言える。天気読みのメーラ先輩はケドン。音響担当のズィーとタンカンはキスシス、照明担当のパロルはグリューム。ミール副団長はコルニクス。ガラ団長はキノ。私は……セレストだ」
クラウンは一度両手で仮面を覆う。道化師の指先は震えており、額は痛むばかりなのだ。
まるで内側から叩かれるように、思い出そうとすればするほど額が痛む。頭が痛む。吐き気がする。
それでも彼女は言葉を続けなければいけない。続けるしかない。続けなければ、進めない。
「でもな、リオリス……お前とレキナリスの種族だけ、私は言えない。ナル先輩も、フィカもリューンも言えなかった。他の奴に聞いても、きっと、誰も言えないんだろ?」
月光が再び森に降り注がれる。
仮面から手を下ろしたクラウンは、頬を掻いたリオリスを見つめていた。
否定しろと願いながら。
自分の記憶違いだと怒ってくれと祈りながら。
道化師の記憶の中のリオリスは、いつも笑っていた。
笑って、笑って、笑い、時に困った顔もして、自分に合わせて馬鹿を言い、諭すように背中を撫でてくれる、優しい家族。
リオリスは笑ったまま体の横に手を下ろし、その笑顔が月光に照らされた。
「やだなぁ、クラウン」
黄金の瞳が開かれる。
その指先からは――白い糸が溢れ出た。
「――気づかないでよ」
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