踊り場の踊り子

加藤

踊り場の踊り子

階段の踊り場で、母が規則正しいリズムで踊っている。


トントンタッ トントンタッ


口元には絶えず笑みを浮かべ、目をうっとりと閉じている。

身に纏った衣装はショーウィンドの中の、母が憧れていたワンピース。砂糖衣のように儚いレースが、窓から漏れてくる月の光に照らされてキラキラと輝いている。手の届かなかったはずのワンピースはサイズが大きすぎて、母を幼い子供のように見せる。


トントンタッ トントンタッ


もう一人の母が、踊り子の母親は対照的な泣き出しそうな、憎らしそうな顔で、吹き抜けの上から階下を見下ろしている。両手で抱きかかえているのは赤ん坊の私。


トントンタッ トントンタッ


私を抱きかかえた母は、一つため息をついて、震える手で私を掲げた。ただ真っ直ぐ前を見つめている。眼前の窓からは月の光が入り込んでいるが、母はもっとその向こう側を見つめているようにも見えるし、盲目の人のように何も見えていないようにも見えた。どちらにせよ、窓とそこから入る光は母の目には映っていなかった。


トントンタッ トントンタッ ドンッ


リズムを乱された踊り子は僅かに狼狽えたが、再度リズムを取り戻した。

もう一人の母の手元には、何事もなかったかのように赤ん坊の私がいた。

何もかも元通り、そういうわけにはいかなかった。赤ん坊の私の頭は、柘榴のようにぱっくりと割れてしまっていた。それでも安らかに寝息を立てていた赤ん坊の私は、泣き叫んで抗議することも、取り乱して母を責めることもしなかった。


トントンタッ トントンタッ


踊り子の横をすり抜けて階下へ降りると、酒浸りの母がいた。母は虚ろな目でウイスキーをラッパ飲みしながら、見知らぬ男に犯されていた。口元から汚らしく唾液と酒が溢れ出て、固く閉じられた目から、絞り出すように涙が溢れていた。


私が作られた時の光景。男の汚い子種と、アルコールで出来た私。


気がつくと、私の体からウイスキーが染み出してきた。淡い琥珀色の液体が際限なく染み出してくる。部屋の床がウイスキーで浸されても、母たちはなんの反応も示さない。怪我をした時に出る浸出液みたいに、ウイスキーは容赦なく溢れ出る。全身が痛いような気がしたが、それを訴えるのは悪だという声が私の中で膨張する。苦しかった。

やがて、部屋はウイスキーで満たされた。母は男と繋がったままウイスキーの海を漂っている。母の手は男に必死にしがみついて離れようとしない。

瞬きをすると、母の姿は少女になっていた。一人では何もできない、弱くて、愚かな一人の少女。


母は、少女だった。幼かった。


そんな認識がウイスキーを通して私に伝わってくる。いや、これはウイスキーではなかった。母と私の認識をつなぐ大きな母体の中の羊水だった。母が少女であることを許せない私は醜いだろうか。どんなに自分に言い聞かせても、母が少女だということは私の胸を締め付ける。母を頭ごなしに怒鳴りつけたいような気にさせられる。

開け放たれた窓の向こうは完全な暗闇で、不気味な魚が凶暴な瞳を光らせて悠々と泳いでいる。私は男の腕を掴んで、母から引き剥がし、窓の外に放った。羊水の浮力が男を窓の外へ誘う。私は窓を閉じて、男の顛末を見送る。暗闇の向こう側から現れた、巨大で真っ白なサメは、男の頭をなんの躊躇いもなく噛みちぎった。窓の隙間から男の血液が流れ込んでくる。それは黒かった。どす黒かった。その黒い血は母の口に入っていく。


母は怯えていた。しかし無力だった。


幼い母は、あのワンピースを纏っていた。琥珀色の液体の中で、魚のヒレみたいにゆらゆらと白いレースがたゆたう。母は沈んでいき、暗い床に体を横たえた。母は赤ん坊になっていた。

私は母を抱きかかえて、窓の外へ泳いだ。暗闇の中で母は泣き叫んだ。まるで世界で自分だけが孤独なように。世界で自分だけが可哀想であるかのように。

母はひどく重たかった。この暗い羊水のそこに母を放り出してしまえたらどんなに楽か。この羊水が干上がってしまったらどんなに楽か。それでも私は母を抱きしめずにはいられなかった。あんまりにも弱い存在だったから。

前から巨大なクジラが迫ってきた。口を大きく開けて、私たちを飲み込んだ。クジラはのびやかで美しい鳴き声を羊水の海の中に響かせた。


孤独なクジラ。ずっと一人で泳いできたクジラ。ど

んなに鳴いても仲間は来ない。


クジラを思う私の涙は薄汚れていた。

滝のようにクジラの体内に流されていく。辿り着いた先は汚いベビーベッドの上だった。何もかもが縮尺を間違えたように桁違いな大きさで、巨大な監獄のようだった。白いベッドシーツには赤ん坊の涎や溢したジュースが無造作なシミをつけている。

抱きかかえた母はずっと泣いている。この空間に、その泣き声はよく響いた。


うるさい。


私は母を柔らかな冷たい地面に置いて、耳を塞いだ。


黙ってよ。


どんなに黙って欲しくても、母は泣き止まない。

耳をつんざくようなその声は、私の鼓膜を縛り付けて離さない。涙で汚された私の眼球の奥から黒々とした液体が流れ出てくる。


黙って。黙って。黙って。


私は悲鳴を上げた。母はさらに泣き声を大きくした。

私は母の首を乱暴に掴んで、ベビーベッドの柵の隙間から落した。奈落の底へ落ちていく。


しまった、と思った。けれどもう遅かった。


呆然とベビーベッドの下の奈落を見つめていた。ふと腕の中に重みを感じると、腕が奇妙な方向にひしゃげて、顔が割れて中身の飛び出した母親が綺麗に収まっていた。私は短く叫んで、再び母を奈落へ落した。腕の中に内臓が飛び出した母がいた。再び母を奈落へ落した。原形を僅かに保った母の肉塊が薄く微笑んでいた。再び母を奈落へ落した。原形のない肉片が私を睨め付けていた。

頭がおかしくなりそうだった。私は狂った人のようにベビーベッドの柵の間から奈落へ身を投げた。私の体はみるみる小さくなっていき、一人の愚かな赤ん坊になっていく。そして、ふっと意識を失った。


トントンタッ トントンタッ


気がつくと、踊り子の母を、私を吹き抜けから落とす母を、傍観していた。

もはや肉片となった私を、母は無表情に落し続けていた。

私は目を閉じて踊る踊り子の母の腕をぐいと掴んだ。母は怯えたような目で私を見つめた。


痛いよ、お母さん。


踊り子の母は一瞬硬直し、やがてその場に崩れ落ちた。


ごめんなさい。ごめんなさい。


私はその後頭部を蹴飛ばす。腹を蹴り上げる。


許さないから。


踊り子の母は階下へ駆けていき、私の肉片を抱いた。

吹き抜けから、もう一人の母が飛び降りた。踊り子の母ともう一人の母は無様に潰れてしまった。


私は階下へ降りて、母たちの残骸を一瞥すると、台所からウイスキーのボトルとライターを取ってきた。惜しげもなくウイスキーを遺骸に振りかけて、ライターの火を翳した。

私は嗚咽を漏らしながら泣いていた。

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踊り場の踊り子 加藤 @katou1024

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