時を駆ける田中

瀬海(せうみ)

時を駆ける田中


 田中くんは、時空を超えるのが趣味だった。


 いや、趣味などと言うと楽しんでやっているようだから言い直すと、田中くんには時空を超える癖があったのだ。友人であるわたしたちからすると、迷惑千万な癖である。


 何せ、彼の時空移動は時と場合を選ばない。本を読んでいては時空を超え、雑談をしていれば超え、道を歩いていても超えてしまう。ここにいながら、魂だけが抜け出たように他の場所にも存在してしまう。


 しかも質が悪いことに、一度にいくつもの時空に飛んでしまうこともあったので、そうやって分散された田中くんは、近くにいる誰かが集めてやらねばならなかった。


 そんな時には、いつでもわたしにその役割が任せられた。田中くんほどでなくとも、わたしにも時空を超えることができたから。


 ……そういうわけでわたしは、田中くんを集めることを生業としている。



 ※


「またかぁ……」


 田中くん集めは楽な仕事ではない。


 何処に行ってしまったのかも分からない田中くんを見つけ出し、現実にいる田中くんのところまで一緒にUターンしてこなければならないからだ。見つけたとしても、途中ではぐれてしまえば一からやり直しである。厄介な仕事である。


 ローマへ飛び、コスタリカに飛び、台湾へも飛んでしまう田中くんは、もちろん時間だって超えることができる。時を駆ける田中。そう口に出してみたところで溜息が出るばかりだ。


 今日も今日とて、遠くは平安時代まで飛んでしまったらしき田中くんを、わたしは必死に追いかける羽目となっていた。


「くそう……」


 追いかけてきたはいいものの、当時の知識を持ち合わせていないわたしにとって、平安時代はまさに魔窟だった。偏見と誤解に充ち満ちたわたしの中の平安時代は、徘徊する妖怪を式神で討伐するというホラーな時代だったのだ。


 そこここに妖怪がうろついている(と思われる)宵闇を、田中くんを探して飛び回る。


 ここにもいない。あっちにもいない。怖くて泣きそうになりながら、そうやって田中くんを探し続ける。やっと見つけたときには、安堵で腰が抜けてしまったほどだ。


「なんでこんなとこに来てるんですか」


 それでも非難を込めてそう言うと、田中くんは悪びれる素振りもなく答える。


「だって『羅生門』ってこの時代でしょ? 一度見てみたくて」


「『陰陽師』の舞台じゃないですか? なんですか羅生門って」


「咲月さんは不勉強だなぁ」


 田中くんは朗らかに笑う。反論はしないが、折角探しにきたわたしがそんなことを言われる筋合いはない。「帰りますよ」と半ば強引に告げると、彼の着ているシャツに手を伸ばして、元の時代に戻ろうとする。


「あ」


 その時だった。暗闇の中を走り抜けていった影に、わたしたちは気をとられてしまう。


 その瞬間、彼は何かを思い出したように手を打ち、「河童に会いたい」などと意味の分からないことを言って、その場から消えてしまったのだ。


 残されたわたしは、呆然と立ち尽くす他にない。


 遅れて状況を把握すると、わたしは殺意を覚えながら地団駄を踏んだ。


「——田中ファッキン!」



 ※


 でもまぁ、わたしがそんな田中くんに惹かれていなかったと言えば嘘になってしまう。


 自由奔放に時空を飛び回る田中くん。わたしは時空を超えている時の物憂げな表情が好きだったし、そのために彼の傍にいたのだから。田中くん集めは骨の折れる作業だったが、彼の笑顔を見ればそんな不満も忘れてしまうのだった。


 しかし、いつまでも思うように飛び回らせておくわけにはいかない。


「咲月さん、何してるんですか毎度ながら」


「時空を超えないように見張ってるんです」


「へ?」


 彼と一緒に出かける際には、わたしがいつでも車道側を歩いた。彼が時空を超えている最中に、引ったくりにでも遭ったら不憫だからだ。


 でも、「よく分からないけれど、心配性だなぁ」と笑う田中くんを見ている内に、わたしの警戒心も薄れてしまったのだろう。彼を外に残してコンビニのトイレへと向かってしまった。そして、戻ってきた時。


「ごめん、お待たせ田中くん――」


 わたしの目が、とんでもない光景を捉える。


 顎に手を当て、静かに時空を超えようとしている田中くん。——そして、そんな彼めがけて迫ってくる大型トラックの巨体。


「――危ない!」


 わたしは田中くん目がけて飛びかかると、彼の体を地面に引き倒す。すんでのところで、トラックはわたしたちを避けて急停車した。


「何してるんですか! 避けてくださいよ!」


「え、あ」


 田中くんは自分の置かれている状況が分かっていないようだった。……今まさに死にそうになったというのに。


 わたしは泣きそうになりながら、田中くんの頬を打つ。何度も何度も、シャツの胸ぐらを掴んで揺さぶり続ける。


「お願いですから、いなくならないでくださいよ!」


 困惑する田中くん。息を切らすわたし。


 だれだって時空を超えないわけじゃない。田中くんでなくとも。


 懐かしい記憶を思い出すとき、好きな映画の一場面を思い浮かべるとき、人は誰だって時空を超えている。そこにいながら、過去現在未来、どんな時にだって場所にだって、意識を分け与えて存在することができる。……でも意識を分け与えた分、現実に対する意識は希薄になって、注意力は散漫になる。


 時空を超えている田中くんは好きだ。超えている時の横顔が好きだ。でも、そのせいで彼が消えてしまうことを考えると、わたしはとてもたまらない思いだったのだ。


「――何処に行ってるのか知らないけど、もっと目の前に注意を向けてよ! 死んじゃうところだったんだよ!」


 涙を流しながら懇願するわたしを、田中くんは申し訳なさそうに見つめている。


「ごめん、咲月さん」


「謝るのはいいから、いなくならないって約束して!」


「そんなことしなくても、ぼくは」


「いいから!」


 感情が爆発したようだった。何か熱い塊が目の奥にこみ上げていて、涙は止まらない。そんなわたしを宥めるように、諭すように、田中くんは困ったような笑みを浮かべながら、やがてゆっくりとこう言う。


「……約束するよ。絶対にいなくならないから」



 ※


 田中くんは時空を超えるのが趣味だった。


 いや、趣味などと言うと楽しんでやっているようだから言い直すと、田中くんには時空を超える癖があったのだ。わたしからすると、迷惑千万な癖である。


 あの日約束してくれた通り、田中くんがいなくなることはなかった。でも、時空を超えなくなったわけでもなかった。


 何かを懐かしいと思ったとき、どこぞに行きたいと思ったとき、田中くんはいつでも時空を超えていく。それはまぁ、仕方のないことだとは思う。ただ、やたらめったら超えるようなことはなくなった。安全な場所で、まるで息抜きのように超えるようになった。


「咲月さんがここにいてくれるなら安心だよ」


 などと、田中くんは言う。


 他の時空に存在しているときは不安になるので、近くで見守っていて欲しいとのこと。ということは、やはりわたしは彼の傍にいなければならず、結局、迷惑なことで。


「ちょっとイスタンブールに行ってくるよ、咲月さん」


 喫茶店でコーヒーを口に含みつつそう言う田中くんに「いってらっしゃい」と声を掛ける。「一緒に行かない?」とも訊かれたけれど、わたしは首を横に振った。


 田中くんは、きっと帰ってきてくれる。だからわたしは、ここで待っていればいい。


 ……ただし、帰りの遅いときは迎えに行かなくてはならない。あちらこちらの時空に偏在する田中くんを、こちらから集めに行かなくてはならない。


「またかぁ……」


 今日もなかなか帰ってこない田中くんを目の前にして、わたしは深く溜息をつく。だけど、正直言えばやぶさかでもないのだった――きっとこれから先だって、わたしは彼の存在を集め続けるのだろう。


 だからわたしは、愚痴をこぼしながら立ち上がる。


「仕方ないなぁ」


 そういうわけでわたしは、ちょっくらイスタンブールへと飛ぶ。


 そういうわけでわたしは、田中くん集めを生業としている。

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