後編

 15時57分。

 オレはしばしまどろんで、避難所の夢を見ていた。

 オレは鹿児島に避難してた。

  あらゆる地域から人が集まって来てた。

 九州と沖縄しか、住める場所はなかったから。

 それだって、時間の問題で、いつか放射能に汚染されるって分かってた。

 避難所では、体育館にみんなで寝泊りしてた。

 オレがいたのは、中坊や高校生の男ばかりが集まっていた避難所。

 300人ぐらいが寝泊りしてた。

 避難所では、昼間は校庭に作った畑を耕して、夜はスマホか、マンガを読むぐらいしかなかった。

 退屈だった。退屈がこんなに苦痛なものだったなんて、生まれて初めて知った。


 最初のうちは、父さん母さんとメールでやりとりしてた。

 最後のメールには「もうすぐ電池が切れる」って書いてあった。

 メールで送れなくなってからは、手紙にした。

 ボランティアで現地に行ってる人たちが、一カ月に一回、届けてくれたんだ。

 避難して半年後に、オレへの手紙はなくなった。

「オレのは?」

 聞いても、ボランティアの人は悲しそうに首を振るだけだ。

「チャイムを何回押しても、誰も出てこなかったの。あなたの手紙はポストに入れてきたから」

 何回も行ってもらったよ。でも、ダメだった。

 もしかして、どこかに逃げたんだろうか。

 それとも、こっちに向かってるのかも。

 どうやって来るんだろう。少しずつ歩いて来るのかな。

 そうやって毎日考えていたんだ。二人と再会するシーンを。


 母さんは携帯を握ったまま死んでいた。

 もしかして、最後に何か送ろうとしたのかもしれない。

 電池が切れた携帯に打ち込んだのは、何のメッセージだったんだろう。



 17時31分。

 肩を叩かれて、目が覚めた。

「乗換だよ」

 後ろの席のおじさんだった。

 バスは友部サービスエリアについていた。

 ここで除染をして、バスを乗り換えるんだ。

 リュックを持って、重い足取りでバスから降りる。

 足元がふらついてる。防護服を長時間着てると、とにかく体力を消耗する。 


 夕焼け空が広がっていた。燃えるように紅い空。

 ああ、日本で見る夕焼けもこれで最後か。

 気づくと、みんな、そんな顔で夕焼けを眺めている。


 防護服を着た係りの人が、スクリーニングをしている。

 荷物を預けて、防護服を脱いでいるとき、思い出した。

 リュックに二人の骨と携帯が入ってる。

 あ、どうしよう。鳴っちゃうかな。

 とたんに、ピーという音が鳴り響いた。

 あー。バレたな。 

 荷物の検査コーナーを恐る恐る見る。係りの人が調べているのは、他のバッグだった。


「このバッグの持ち主は」

「私です。家から遺影を持ってきたんです、両親の遺影。どうしても残していけなくて」

 髪がボサボサのおばさんが名乗り出た。涙目になっている。

「……あそこの水道で洗ってくださいよ」


 係りの人は責めることなく、荷物を返した。おばさんは何度も頭を下げる。

 その次の荷物も、警告音が鳴った。その次も。そのまた次も。

 みんな、何かを持って来ていた。

 それは愛犬の首輪だったり、家族のアルバムだったり、文集だったり。

 若い夫婦の荷物からは、赤ちゃんのおもちゃと服。泣いていた。二人とも泣いていた。係りの人は無言で荷物を渡した。

 桜の枝は、脱ぎ捨てられた防護服の上に、そっと置かれていた。

 白い山に、ほんのり色を挿すように。

 

 オレに話しかけたおじさんのボストンバッグは、かなり大きかった。警告音がピーピー鳴りまくっている。

 ファスナーを開けた係りの人が固まっていた。

「ちょ、これ、何」

 みんな、何事かと覗き込む。

 そこには、頭蓋骨が2つ入っていた。うわっ、よく持ってこれたなあ。

「親父とおふくろの骨だけど」

 おじさんは平然と答える。


「いくらなんでも、これはちょっと」

「あっちの空港で引っ掛かるんじゃないの?」

 係りの人たちが集まって、困ったように頭蓋骨を眺めている。


「構わないでしょ。オレが行くのは、ブルキナファソなんだから。アフリカだったら、骨を持って行っても大丈夫でしょ」

「いやいや、それはアフリカを誤解してる」

「向こうで捕まって、強制送還されたらどうするの」

「そんなん、どうでもいいよ」


 おじさんの低い、投げやりな声に気圧されたのか、係りの人たちは黙り込んだ。


「あー、上に相談してみますんで」

 その言葉に、おじさんはフンと鼻を鳴らした。

「上って? もう日本は崩壊してるのに、まだ役所は機能してるつもりなのかよ。俺たちを何年も逃がさなかったくせに、最後の最後まで、足を引っ張ってんじゃねえよっ」


 おじさんはカッと目を見開いた。色あせて縮んだTシャツからは、たるんとした横腹。

 係りの人たちがうろたえている間にバッグをひったくるように、除染エリアに持っていってしまった。

 なんだ、オレの指の骨一本なんて、かわいいもんだな。

 オレのリュックでも警告音が鳴った。


「あー、親の携帯を」

「あっちで除染して」

「ハイ」


 よかった、持って来て。

 っていうか、こんなにゆるいなら、もっと持って来たのにさ。

 行きのバスで「何も持ってくるな」って散々脅すから、我慢したのに。失敗したなあ。

 除染エリアで骨を洗い、携帯はウェットティッシュで何度も拭いた。

 それから再度スクリーニングを受ける。今度は鳴らなかった。

「ハイ、OK」


 オレはリュックを受け取り、乗り換え用の赤いバスに乗り込んだ。

 そこには、防護服を脱いだ人たちがすでにそろっていた。

 おじさんやおばさん、若い夫婦、大学生っぽい男の人、やくざっぽい人、頭を丸めたお坊さんっぽい人。

 防護服を脱いでも、みな無言で、うつろな目で外を眺めたり、じっと床を見つめている。この人たちが、最後の日本脱出組なんだ。

 バスはまだ発車しない。


 席について外を見ると、さっきのおじさんが係りの人たちともめていた。

 バッグを取り上げようとする手を、おじさんが振り払い、怒鳴りつけている。

「あ」

 おじさんは、とうとう三人がかりで押さえつけられ、バッグを取られてしまった。


「あんなん、ほっときゃいいのになあ。どうせ、向こうの国で取り上げられるんだから」

 初老の男性が、呆れたように言う。

「ねえ。飛行機の時間に、間に合うのかしら」

 隣にいたおばさんが答える。どうやら、二人は夫婦らしい。


 おじさんは、係りの人二人に両脇を挟まれて、引きずるようにバスに連れ込まれた。

「おいっ、バッグを返せっ。返せよっ」

 まだ暴れているおじさんの足元に、ぺちゃんこになったバッグが放り投げられた。漫画雑誌とフィギュアが、ちらりと見えた。


「おい、骨、どうするんだよ。オレの親父とおふくろのだぞ?」

「上に相談したら、検討してみると言われました。私たちも、これから成田に向かいますから。ご両親の骨は持って行って、飛行場で渡すかどうかを決めます」

「だから、上ってなんだよ、上って。どこにいんだよ。あんたらの上なんて、とっくに逃げてるんだろうがっ。あんたらだって、仕事を押しつけられて、逃げられなかったんだろ? いつまで下僕でいるんだよ。見捨てられたくせに」

「うるさいっ」


 一人が、おじさんの顔を殴った。

 あんまり効かなさそうなパンチだったけど、おじさんは床に倒れた。


「お前が行くブルキナファソに、オレも行くんだよっ。お前のせいで、オレまで強制送還になったら、どうすんだよ?」


 殴った男性の悲痛な声が、車内にビリビリと響く。

 仲間に肩を叩かれて、その人は我に返った。二人は足早にバスから降りて行った。

 おじさんは、床に転がって泣いている。

 慟哭するって、こういう感じなのかもしれない。お腹の底からこみあげてくる、深く重たい泣き声が床を揺らす。


「誰が悪いわけでもないのにねえ」

 さっきのおばさんがため息をつく。 


「えー、それじゃ、成田に向かいます」

 運転手さんがのろのろと運転席に座った。

 ってか、運転手さん、おじいちゃんじゃないか。

 こんなおじいちゃんが、ずっと運転してたのかよ。大丈夫なのかよ。


「危ないから、座席に座ったほうがいいですよ」

 おばさんが、床で泣いているおじさんに優しく声をかけた。

 おじさんはしゃくりあげながら、立ち上がる。

 なぐさめようにも、どうなぐさめればいいのかわからない。 

 バスは鈍いエンジン音とともに、ゆるやかに動き出した。

 後部座席に座ったおじさんの泣き声は、エンジン音でかき消される。

 係りの人たちもワゴン車に乗り込んでいる――検査していたテーブルの上に、頭蓋骨2つを残して。ああ。


「あそこまでしなくてもねえ」

「ああ、あいつら、やっぱり、最後まで国民のことなんて考えてないんだよ」

「せめて、空港まで一緒にいさせてあげればいいのにねえ」 

 

 初老の夫婦がひそひそと話している。

 おじさんは唸り声をあげ、バンバンと窓を叩いた。

「うるせえっ、静かにしろっ」

 やくざっぽい男の人が、おじさんを一喝する。

 

 おじさんはそれでもやめない。激しく激しく窓を叩く。

 いいよ、もう、そのままやらせてあげてよ。

 オレはリュックを抱きしめた。痛いほど、その気持ちが、分かるから。



 19時3分。

 がらんとした常磐自動車車道を成田に向かう。

 電気が来てないから、暗くなっても電灯はつかない。

 真っ暗な道を、バスのヘッドライトが煌々と照らして走っていく。

 数十メートル後には、ワゴン車が続いている。

 空には無数の星が瞬いている。手を伸ばせば届きそうなぐらい、大きな星。


「お弁当とお茶を配りまあす」  


 一番前の席に座っていた女性が掠れた声を張り上げた。

 さっきのサービスエリアで差し入れがあったらしい。

 そういえば昼におにぎりを一つ食べただけだった。

 お腹がすいてる。ノドもカラカラだ。


「後ろの人に回してくださあい」


 弁当とお茶が回ってくる。オレの後ろに座っているのは、殴られたおじさんだ。

 誰かが窓を開けたのか、冷たい夜風が肌を刺す。

 オレはおじさんに弁当を渡そうと立ち上がった。

 すると、おじさんは窓から大きく身を乗り出していた。

 夜風にあたろうとしているレベルじゃない。

 外に飛び降りようとしてるんだ。

 でも、お腹がつっかえてジタバタしていた。


「ちょっ」

 オレは絶句した。

 その様子を見て、みんなも後部座席に注目する。女性陣は軽い悲鳴を上げる。


「うわ、何やってんだ」

 やくざのおじさんが駆け寄り、ジーパンのベルトをつかみ、引き戻そうとした。

 おじさんは激しく抵抗し、やくざのおじさんを蹴り飛ばした。

 蹴った反動なのか、つかえていたお腹がするりと抜けた。

 あっと思う間もなく、おじさんの姿は闇に吸い込まれた。

 

 数秒後、後方で急ブレーキの音、激しい衝突音。

 オレは怖くて、後ろを確かめられなかった。

 みんな固まっていた。

 でも、運転手さんは何も聞こえないのか、聞こえていても何とも思わないのか。スピードを緩めずにバスを飛ばしている。


「なんなんだ。普通にバスを止めて、出口から降りればよかったのに」

 誰かがつぶやく。

 おじさんはきっと、サービスエリアに戻ろうとしたんだろう。

 両親の頭蓋骨のところに戻ろうとしたんだろう。

 その気持ちは分かる。分かる。分かるよ。

 後続のワゴン車は、それきりついてこなかった。

 やくざっぽいおじさんは立ち上がると、無言で窓を閉めた。

 再び車内に戻る静寂。


 ややあってから、弁当のふたを開ける音があちこちで響いた。

 こんなときに、飯なんて食えるかって?

 食えるよ。

 もう、オレ達はこの程度のことではショックを受けなくなっている。もっとショックなことなんて、今まで散々味わってきたからさ。

 オレもふたを開ける。

 シャケ弁か。冷めきったご飯の上にノリと焼き鮭がのっているだけの、シンプルな弁当。

 このシャケ、何年も前に賞味期限が切れた、冷凍ものなんだろうな、きっと。

 ま、ご飯が食べられるだけでもいっか。

 オレは小さく「いただきます」とつぶやき、割り箸を割った。

 ボソボソしたご飯とカスカスになったシャケ。同時に頬張った。

 最後に食べた母さんの料理を思い出して、ちょっと泣けてきた。ちょっとだけ、ね。



 22時14分。

 ご飯を食べた後、また眠ってたらしい。

 気がつくと、バスは成田空港に着いていた。空港も、明かりはついていない。

 みんな、無言でバスから降りている。

 オレは、運転手のおじいさんに「ありがとうございました」と頭を下げた。

 おじいさんは驚いたような顔をした。

「あー、気をつけてな」と、しゃがれた声で返してくれた。

 おじいさんは日本に残る組なんだろう。

 空港ビルに入る前に振り返ると、おじいさんはハンドルに突っ伏して、体を震わせていた。

 さよなら、おじいさん。元気でね。

 

 ビルに入ると、懐中電灯を持った男の人が10人ぐらいいた。

 パイロットの制服を着ている。パイロット自らお出迎えなんだ。

「これで全員ですか」

 問われて、オレらは黙って頷く。

 ワゴン車は、もう来ないだろう。

 そもそも、あいつらが頭蓋骨を奪ったから、あんなことになったんだ。

 そうやって、オレらは、いろんなものを奪われてきた。10年前の3.11以降。

 村からは次々と人が消えて行った。

 食べ物もなくなっていった。村に何も届かなくなったんだ。

 しょうがないから、自転車で他の街に買い出しに行った。

 どこもスーパーやコンビニは空になっていた。

 それどころか、人をほとんど見かけなかった。無人の店、無人の駅、無人の交差点。

「おい、これ、まずいよな」

「ねえ、どうすればいいの……」

 父さんと母さんが呆然とつぶやいていた。

 オレたちが悪いのか?

 何も知らなかったオレたちが悪いのか?

 

 パイロットに誘導されて、真っ暗なビルの中をみんな、無言で歩く。

 無人の受付カウンター。

 完全に止まっている、動く歩道。

 みやげもの屋には商品は全然ない。

「わざわざこのために戻って来たんですか」

 初老の夫婦が、パイロットに話しかけている。

「いや、私たちも逃げられなかったんです。この便で、ようやく、家族と共に逃げられるんです」

 パイロットは静かに答えた。


「飛行機を操縦できるのなら、どこにでも逃げられるんじゃないんですか」

「私たち家族のために飛行機を使うなんてできません。他の人たちが逃げる飛行機が一台減りますから。逃げたら、行った先の空港から戻って来られませんからね。会社の飛行機を使って、逃げたパイロットもいますよ。でも、僕らはどうしても、それを許せなくて」

「そうですか」


 その話を聞いて、オレはジンときていた。

 日本には、一握りだけど、まともな人たちがいる。

 良心をもって、信念を貫ける人。日本に残った人が、かろうじて秩序を保っていられたのも、そういう人たちがいてくれたおかげだ。


「皆さん、若い方が多いみたいですけど、何年ぐらいパイロットされてるんですか」

 たぶん、おじさんは「若いのに偉い」と褒めるために聞いたんだと思う。

 でも、パイロットたちは顔を見合わせて、黙り込んでしまった。


「……実は、僕らは訓練生なので、飛行機を飛ばすのは初めてなんです」


 一人がか細い声で答える。

 今度はオレたちが黙るしかなかった。

 なんてこった。


「こりゃ、ものすごい賭けだな」

 やくざのおじさんがため息をついた。

「日本を逃げ出せるかと思ったら、飛行機が海に落ちるかもしれないなんてなあ」

「マジかよ。オレ、南米まで行くのに。まずいじゃん」

 大学生のお兄さんの声が震えている。

 他の人たちは言葉にもならないぐらいショックを受けていた。オレも含めてね。

 

 飛行機の発着所前のロビーに着いた。

「え・えーと、それ、それじゃあ、離陸準備をしますので、ここでしばらくお待ちください……」

 パイロットたちは、あきらかに狼狽えていた。

 逃げるように、小走りに駆けていく。その後ろ姿は、急に頼りなげに見えた。


「まあ、やめるんなら、今のうちだよ」

 やくざのおじさんは荷物を投げ出すと、プラスチック製の椅子に座りこんだ。

「今さらジタバタしてもしょーがねえや。もう捨てたような命だしな。どうなっても構やしねえ」

 おじさんの言うとおりだった。オレも椅子に腰を下ろした。 

 真っ暗なロビーは、窓の外の飛行機の明かりで、かろうじて足元が見えるぐらいだ。

 22時43分。



心配かけてごめん、ちゃんと成田に着いたよ。あの後、ずっと眠ってたんだ。もうすぐ、オレは飛行機に乗って、フィリピンに行く。もう二度と、日本には戻ってこれないんだな。こっちは夜。真っ暗だよ。もう真っ暗なのにも慣れたけど。


うん、日本に残る人は、どうやって生きていくんだろうね。オレにも分からない。家族で残るのを選んだ人もいる。それはそれで幸せな気がする。オレも残ればよかった。オレはそうやって後悔しながらこの先生きてくんだ。それって、つらすぎるでしょ。


分かってるよ、オレをフィリピンに逃がすために、大勢の人が助けてくれた。親だって、オレに生きてほしいから逃がした。そうだよ、それはわかってる。でもね、生きるほうがつらいってこともある。オレはこの10年間で、この国が崩壊していく様子をずっと見てきたんだから。



 送信、送信、送信。

 もっと早くに死んでたらよかったって、何度思ったことか。

 死んでる人も、殺されてる人も、何度も見た。

 食べ物がなくなると、人は正気じゃいられなくなる。

 スーパーやコンビニに行くと、ボコボコに殴られて転がってる死体がよくあった。

 食べ物を取り合ったんだろうね。

 もう、何が罪で、何が正しいのかなんて分かんないよ。

 オレには誰も責められない。

 だって、オレだって人を殺したかもしれないんだ。


 農家で食べ物を盗んだとき。

 寝ていたはずのおばあさんが、必死に母さんの足にしがみついてきた。

 おばあさんにとっても、それが最後の食べ物だって。

 そう、とぎれとぎれに言ってた。

 その奥には、おじいさんが寝ていた。おじいさんは動けないみたいだった。

 おばあさんの力はすごくて、なかなか離れなかった。

 爪が母さんの足に食い込んで、血が出ていた。

 母さんは何度もおばあさんの腕をぶった。頭もぶった。

 それでも離れないから、父さんがお腹を蹴った。それでも離れない。

 オレは怖くなった。

 だから、すりこ木でおばあさんの頭を殴った。

 気がついたら、おばあさんは動かなくなってた。

 死んでるのか、息をしてるのかも分からない。

 オレたちは逃げた。

 でも、父さんだけ戻った。

 おばあさんをおじいさんの隣に寝かしてきたって。

 おじいさんはかすかに息してたって。空っぽな目で天井を見てたって。

 震えてるオレに、「おばあさんも生きてたよ」って言ってくれたけど。


 そして、仏壇に供えてあったリンゴを母さんに渡した。しなびかけたリンゴ。

 それでオレらは、母さんの最後の手作り料理を食べたんだ。

 おいしかったよ。おいしかった。みんなで泣きながら食べた、最後の晩餐。

 それは罪か? オレらはバツを受けるべきなのか?

 

 最後にバスに乗るとき、父さんは言った。

「自分を赦すんだぞ」

 どうやって赦すんだろう。

 赦すってのはどういうことなんだ。

 忘れろってこと? 責めるなってこと? なかったことにしろってこと?

 オレらを見捨てて逃げたやつらに、聞きたいよ。

 どうやって、自分の罪から目を背けられたんだ? 



オレは、やっぱり、ここにいるべきなのかもしれない。他の国に行って、ぬくぬく暮らしちゃいけない気がする。


そうだよ。こうなったのはオレのせいじゃない。オレのせいなんかじゃない。何度も何度も何度も考えたよ。新しい土地で人生を一からやり直そう、って。でも、オレは忘れられない。何十人も見殺しにしたことを。忘れて生きていくことなんてできないよ。



 送信×2。

 23時21分。

 フィリピン行の便の準備ができたって。

 どうしよう。

 オレはやっぱり、ここに残るべきなのか。

 それとも、フィリピンに行くべきなのか。

 新しい土地で罪を償えばいいのか。

 いや償えない。何も償えない。

 一生この罪はまとわりつく。

 振り払おうとしても、消し去ろうとしても、この記憶は上書きされない。

 オレはオレを赦せない。

 希望なんてない。未来なんてない。喜びなんてない。安らぎもない。癒しもない。もう何も信じられない。何も愛せない。何にも笑えない。微笑みも。明るい音楽も。空の青さも海の青さも。鮮やかな夕焼けも。夜空にしんと光る星も月も。闇に差し込む一条の光さえも。

 もうオレの心には何も響かない。

 それが分かっているのに、なぜオレはまだ生きるのだろう。

 なぜオレは旅立とうとしているのだろう。

 

 もうすぐ最後の飛行機が出る。

 もうすぐ、最後の飛行機が出る。

 ねえ、オレは、どうすればいい?

 オレは、オレは、どうすればいいのだろう。

 


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もうすぐ、最後のバスが出る @nagi77

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