前門の露出狂、後門の不審者

三浦常春

その日、私はちょっとだけ泣いた

 ――出会ったら何も言わずに引き返せ。


 そんな評価をくだされる女の子が、この世には存在するという。何でもその子は、暗闇に浮かび上がるような真っ白のワンピースを身に纏い、長く艶やかな黒髪を垂らしているのだとか。


 もちろん特徴はそれだけではない。両の手を背後に回しているのだ。まるで何かを隠し持っているかのように。


 彼女に出会ったら、どのような言葉を投げ掛けられようとも、決して答えてはいけない。静かに静かに、気配を消して、速やかにその場を立ち去らなければならないのだ。――そういう話である。


 スマホの画面をスクロールしながら、私はフと視界に掛かる前髪を吹き上げた。


(怖いなぁ。このご時世、都市伝説なんてすぐに広がるだろうし。口裂け女パニックがまた起きなければいいけど)


 突如として現れた都市伝説が人々の生活に入り込み、影響を与える。その代表的な例が口裂け女だ。昭和後期から爆発的に全国区へ名を知らしめた怪人である。


 口裂け女はその名の通り、口が耳まで裂けている。「私、綺麗?」――そう尋ね、綺麗と答えたらその顔にされ、綺麗でないと答えたら殺されるという、「こんにちは、死ネ!」精神豊富な怪人なのだとか。


(ま、私は一度も会ったことないけど。ていうか、会いたくもないな)


 こつり、こつり。人気のない道路に、私の足音だけが響く。


 とくり、とくり。大して大きくもない胸の奥で心臓が動く。


 耳に届くのは、たった二つの音。件の都市伝説を知ってからというもの、夜の一人歩きはできるだけ避け、どうしても歩かなくてはならない時は人気の多い道を選んでいたが、たまにはこうして静寂を切って歩くのも乙である。


 帰路に裏路地を選択した過去の自分を褒めていると、ふと違和を感じた。


 ――こ、カツ……こつカツ、こ……。


 足音がぶれて聞こえる。二つに重なっているように聞こえる。思わず足を止めれば、一寸遅れて“足音”も止まった。


(待って? これ、付けられてる?)


 じわりとスマホを持つ手に汗が浮かぶ。


(そういえば聞いたことがある。変質者って、スマホを見ながら歩いてる人を狙うんだって……。えっ、もしかして私、人生初の変質者に会うの? コート開いて局部見せつけちゃう系男子に会うの? えっ、おティンティン見せつけられちゃうの? マジで?)


 私の脳内はパニック状態だった。とにかく追い付かれてはいけない。そう思って足を進める。歩調を速めれば、背後の“足音”もテンポを上げる。


(ヤバイヤバイ、追って来る! めっちゃ狙われてるじゃん! 当方アラサー独身女子、彼氏いない歴イコール年齢! 喪女中の喪女におティンティン見せつけたって、な~んも利益ないですよー!)


 露出狂でなくても、不審者に自宅を特定された話も耳にする。とにかく人気の多い場所へ行き、追跡をまかなければならない。三ヶ月の間、探しに探した好立地・低家賃の城を、むざむざ手放すわけにはいかないのだ。


 こつこつ、カツカツ。音色の異なる足音が闇夜に響く。


 どれだけの間逃げていただろうか。私の息は跳ね、胸が苦しくなってきた。長らく家と仕事場の行き来のみしか運動らしい運動をしてこなかった私に、標的を追い慣れている変質者を相手取るには、あまりにも力不足だった。


 ふと視線を持ち上げると、街灯の下に何かが立っていた。じっと胸元を掴み、膝丈の上着を纏っている。体格を見る限り、どうやら男性のようだった。


(よかった、人だ! これで勝つる!)


 そう安堵したその時、くるりと影がこちらを振り返り――おもむろに上着を開いた。


「ホアーーッ!?」


 思わず足を止める。街灯に照らされた男は、コートの中に何も着ていなかった。そう、露出狂だ。人生初の露出狂が、私の前に現れたのだ。


 前をくつろげたその男性は、息を荒げて私の反応を見守っていたが、当の私は全くの膠着状態で、声どころか呼吸をすることさえ忘れていた。


(先生、大変です! お腹の影に隠れておティンティンが見えていません! 先生、もっと身体を反るか、下にライトを設置した方がいいと思います!)


 街灯の光はまず男性のでっぷりとした腹部に遮られ、局部には暗い影が降りている。幸か不幸か、その男が見せたいであろうスティックが私の目に映ることはなかったのだ。


(なんて間抜けな……! いや、不幸な! ついお手伝いしたくなってしまうじゃないか! ライトアップしますね~ってか、やかましいわ!)


 脳内百面相を繰り返していると、突然男の顔から笑みが消えた。それどころかじわじわと強張り、くたびれた革靴を引き下げる。


「白ワンピ、黒髪……!」


(ん?)


「お前っ、まさか……!」


(えっ)


「都市伝説に見せつけちまった~!」


 悲鳴を上げ、男は走り去る。残された私は、街灯の下で自分の服装を見直した。


 シャツにクリーム色のカーディガン。ズボンは薄茶色。膝を覆うほどの長さのコートは白に見紛う灰色である。全体的に色が薄い。


 これだけ暗い中、しかも白い街灯に照らされたら、確かに白く、ワンピースのように見えたかもしれない。


(髪も毎日アイロンして真っすぐに仕上げてるし。白いワンピースに黒髪……あの都市伝説に間違えられたのかな。都市伝説さまさまだけど、何だろう、この虚しさ)


 局部を見せつけ、「ケヒヒッ!」とでも哄笑して去ってくれた方が、ある程度マシな後味であったかもしれない。


(いや、それも嫌だな)


「あ、あの……大丈夫ですか?」


 びくりと肩が跳ね上がる。


 恐る恐る、投げ掛けられた声に振り返ってみると、そこには女性がいた。童顔の可愛らしい女性だ。上目遣い気味のその人は、さらりと肩口から黒髪を垂らす。


(うわっ、かわいい……! )


 同性でも、思わずデレてしまいそうな可憐さだった。


「すごく遠い目をされてましたけど」


「あ……いえ、はい、大丈夫です。問題ないです」


「警察呼びますか?」


「実害はないので。見てないし……」


「そうでしたか! それならよかった……です?」


 その人は身体を左右に揺する。後ろに組んだ手の下からふわりと広がるスカートが、私の視線を奪った。


「それじゃ、行きましょうか!」


 カツリと踵を鳴らして、女性は明るく私の背を押す。その何気ない仕草に目頭が熱くなった。


 前方に露出狂、背後に足音――言うなれば前門の露出狂、後門の変質者状態であったことに、思ったよりも参っていたのかもしれない。


 今日出会ったばかりの女性に愚痴を洩らしながら、少しだけ泣いた。


 背後の“足音”はもう聞こえない。


 

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前門の露出狂、後門の不審者 三浦常春 @miura-tsune

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